263.【そ】 『俎上(そじょう)の魚(うお)』 (2004.12.20)
『俎上の魚』
俎(まないた)の上に据えられ料理されるのを待つばかりの魚という意味で、相手の成すがままになるより仕方のない状態。また、運命が尽きた者の喩え。
類:●俎上の鯉●俎の鯉●俎の魚●刀爼魚肉
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折悪(おりあ)しく、巷(ちまた)では火付けの騒(さわ)ぎが持ち上がっていた。
近頃いくつにも暖簾(のれん)を分けている「旅舎・南天(りょしゃ・なんて)」という旅籠(はたご)が立て続けに狙(ねら)われているという。
「付け火」といえば死罪。そんな当たり前のことを承知しているのに凶行に及ぶには、裏に何かありそうだと、口々に囁(ささや)かれている。
「だるま」でも、その話で持ち切りである。

>三:一体(いったい)どうなっちまってるんでしょうかね? 唯(ただ)でさえ材木が高いってのに、これじゃあ益々(ますます)値上がりしちまいますよね。
>八:そんなんじゃ、建て替えようにも材木なんか買えねえやな。
>三:もう終わりですかね、旅舎・南天は? 折角(せっかく)あそこまで大きくなったのにねえ。
>熊:・・・なあ。なんか変だとは思わねえか?
>八:何がだ?
>熊:蕨(わらび)だ浦和だってのは、中仙道の宿場(しゅくば)町じゃねえのか?
>五六:そうでやす。あっしも通ってきやした。日本橋から、上野(こうずけ)信濃(しなの)を通って、美濃(みの)、近江(おおみ)まで行ってやす。浦和なんかは、結構賑(にぎ)やかな町ですよ。
>熊:百屋(ももや)の一件と関わりがあるんじゃねえかと思うのは、考え過ぎか?
>八:なんだと? するってえと何か? 上州からの馬方(うまかた)や脚夫(きゃくふ)たちがその「なんてね」とかいう宿に泊まるのか?
>熊:「なんてね」じゃねえってんだ。「南の天」って書いて「なんて」って読ませるそうなんだ。
>八:そんなら「なんてん」ってすりゃ良いじゃねえか。何を考えてやがるんだ?
>熊:そういう変わった読み方をすると、評判が立つだろう? そういう風にやって客を集めるの。
>八:へえ、色々と考えるもんだな?

>熊:それで思うんだがよ、付け火して回って材木の値をもっと吊り上げようって魂胆(こんたん)なんじゃねえのかなあ?
>三:そうなるってえと、一月(ひとつき)や二月じゃ、元の値段に戻りゃしませんよ。
>熊:そういうこっとな。
>五六:そんなんじゃ、半公が干上がっちまうじゃねえですか。
>三:それよか、おいらたちだって上がったりになっちまいます。
>熊:うーん、そいつは困ったことになるぜ。どうしようかなあ?
>五六:親方と相談してみやすか?
>熊:そうだな。
>八:そんなことより、内房(うちぼう)のご隠居に話した方が手っ取り早いって。この前は鱈(たら)だったから、今度は川魚で、鯉(こい)の洗いなんてのが良いな。身の締まったとこを酢味噌でぱくっと・・・
>熊:またそれか? お前ぇは長生きするよ、まったく。
>三:八兄い、おいらたちの食い扶持(ぶち)が掛かってるんですぜ。
>八:分かってるって。そっちが片付いて、こっちが腹一杯になりゃ、こんな良いことはねえやな?
>三:困ったお人だね、こりゃ。

次の朝、また二手(ふたて)に分かれて集まろうということになった。
今度八兵衛と一緒になったのは五六蔵である。
五六蔵は、半次のことを心配するあまり、席に着くなり付け火の件を切り出した。

>内:熊さんも鼻が利きますね。それに付いては、あたしも気になったので、調べさせましたよ。
>五六:それで、どうなんです?
>内:先ごろまで谷中の辺りを縄張(なわば)りにしていた親分さんが絡(から)んでいるようなのです。
>五六:そりゃ、淡路屋太郎兵衛じゃねえんですかい?
>内:当たりです。あの淡路屋です。
>八:へえ。近頃名前が出てこないと思ってましたが、どこに引っ込んじまってるんですか?
>内:板橋の宿(しゅく)にいるようです。上(のぼ)りの荷駄にでも目を付けたのでしょう。
>八:こないだは、倅(せがれ)が人様に怪我(けが)さしたとかいう騙(かた)りをやってたってのに、替わり身が早(はえ)えな。
>内:悪賢(わるがしこ)く儲(もう)ける手立ては、幾らでも転(ころ)がっているのでしょう。
>八:でも、それさえ分かれば話が早え。ちょっくら板橋まで行って、止(や)めさせてくりゃ良いんでしょう?
>内:そう簡単に行きますか?
>八:行きますとも。太郎兵衛の奴、うちの親方のことを殊(こと)の外(ほか)怖がってますからね。親方が行けばぴたっと収まりますって。

>内:そう簡単に方は付かないんですよ。
>八:そりゃまたどういうことなんで?
>内:然(さ)るお大名(だいみょう)が関わっているようなのです。
>八:なんですって? 太郎兵衛と大名?
>内:板橋といえば、加賀藩前田様と、確か、上州高崎藩大河内(おおこうち)様の下屋敷があります。
>八:そのどっちなんで?
>内:前田様だったら、ちょっとやそっとじゃ手出しできませんね。大河内様も松平(まつだいら)のお血筋。疑おうものなら首が飛びます。
>八:それじゃあ、どっちも駄目だってことじゃないですか。手も足も出せないんですかい?

>内:難しいでしょうねえ。・・・唯(ただ)、あのお方なら、なんとかなるかも知れません。
>八:斉(なり)ちゃんですかい?
>内:そうです。頼んでみるべきでしょうか?
>八:そりゃあ、頼んでみてどうにかなるんだったら、お願いしますよ。
>五六:江戸の職人たちの命が掛かってるんです。お願いしやす。
>内:・・・そうですね。背に腹は代えられません。ちょっと心配ですけど、頼んでみましょう。
>八:やったあ。久し振りに斉ちゃんに会えるぅ。
>内:いいえ。それは駄目です。
>八:どうしてですか?
>内:お城へ戻らなくなってしまうではありませんか。困るんですよ、あれやこれやと、厄介(やっかい)ごとは山積(やまづ)みなんですからね。
>八:なあんだ、会えないのか。ちぇ。
>内:その代わり、巧く運んだら、悪事を未然に防いだということで、何かご褒美(ほうび)を賜(たまわ)るように、口添えしておきますよ。
>八:そういうことなら、諸手(もろて)を挙げて賛成でやす。口出し一つしねえでお任(まか)せします。・・・あ、そうだ。できましたら、鯉の洗いが所望(しょもう)だって言っといてくださいまし。
>内:ほっほっほ。そんなもので良いのですか? 欲がありませんね、八つぁんは。
>八:鯉が食いたいと思っちまったらもう口が鯉になっちまいまして。どうしても食いたくて食いたくて。
>内:そういうことなら、明日、皆さんで夕食を食べにおいでなさい。あたしがご馳走(ちそう)しますよ。・・・あのお方には、別に何か適当なものをおねだりしておきます。
>八:そっちの方はなんでも構いませんや。鯉さえ食えりゃ良いんですからね、おいらは。

いよいよ、ご本尊(ほんぞん)のお出座(でま)しである。
どういう風に裁(さば)かれるのかは、決着してのお楽しみということである。

>八:太郎兵衛の野郎に「首を洗って待ってろ」って言ってやりてえな。
>源:言っちゃあなんだが、あのお方はほんとに頼りになるのかね?
>八:そりゃそうですよ。なんてったって一番偉いお人なんですから。
>源:だがなあ・・・
>熊:ご隠居様に任せるしかないでしょう。ご隠居様なら、ちゃんと手綱(たづな)を引っ張って呉れますよ。
>源:まあ、そうだな。
>八:明日、好い話が聞けるかも知れませんから。・・・それに、なんてったって鯉ですからね、鯉。
>源:お前ぇたちで行ってこい。俺は遠慮しとくぜ。
>八:そんな勿体ない。鯉なんて、そうそう食えるもんじゃありませんよ。
>源:良いんだ。・・・どうせ明日は、友助からの知らせが来る。
>八:へ? 友さん、どっかへ行ってたんでやすか?
>源:山城屋さんに事情を聞きに行って貰ってる。昨日までの話じゃ、百屋が絡(から)んでいるってとこまでは突き止めたらしい。「南天」とかいう旅籠(はたご)のことまでは、頭が回ってなかったようだ。
>八:あれ? 親方も気付いてなすったんですかい、「なんてね」のこと?
>源:「なんて」だってんだ、「なんて」。・・・そうじゃねえかと思っただけだ。お大名が絡んでるなんてことは、これっぽっちも考えてなかったがよ。
>八:そうでやしょう? やっぱり内房のご隠居は凄(すげ)えお人ですよね? なんてったって鯉ですからね。
>熊:鯉の話じゃねえってんだ。

>五六:今度こそ、太郎兵衛たちも一網打尽(いちもうだじん)ですかね?
>源:そうなって貰いてえもんだな。
>熊:でも、この前も、あと一歩ってとこで姿を晦(くら)ましちまいましたからね。
>五六:鼬(いたち)の最後っ屁でやすかね? 見苦しかろうとなんだろうと生き延びやがる。
>源:まあ、なんにせよ、俺たちは待ってるしかねえんだ。万が一、旨く行かなかったら、みんなで野垂(のた)れ死にするしかねえ。
>三:野垂れ死にですか。考えたくもないですね。・・・でも、待ってるだけってのも嫌なもんですよね。
>熊:確かに、手前(てめ)ぇの生き死にが人の手に握られちまってるようで、落ち着かねえな。
>五六:仕方ないでしょう。上の方(ほう)のことは、上の方に任せるしかねえんですから。煮るなり焼くなり勝手にしろってことでやすよ。
>八:なんだと五六蔵? 煮たり焼いたりしちゃあ、いけねえよ。鯉は、なんてったって、洗いに限る。
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