第16章「町火消し丈二の情熱(仮題)」

145.【き】 『木(き)の実(み)は本(もと)へ落(お)つ』 
(2002/09/09)
『木の実は本へ落つ』
木に生(な)った実はその木の根元に落ちるという意味で、物事は全てその元へ帰るものだということ。
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静(しずか)は、名前に似ず、中々のお転婆である。
月足らずで生まれたときは、どうなることかと家族をはらはらさせたものだが、大病一つにも罹(かか)らず健康なものである。
1年3ヶ月経(た)った近頃では、とてとてと、小走りするまでに育っていた。時々柱にぶつかって瘤(こぶ)をこさえたりする。
お雅は、「ばー、ばー」と呼ばれる度(たび)に、目を細め、ぎゅっと抱きしめるのである。

>源:なあ、あんなじゃあ抱き癖が付いて仕様がねえんじゃねえのか?
>あや:良いじゃないですか。女の子はちょっとくらい甘ったれの方が可愛がられますからね。
>源:そうか? まあ、それなら仕方ねえが、なんだか一人占めされちまってるようで、俺は気に食わねえな。
>あや:あら、初めの頃は「壊れちまいそうだ」って言って抱き上げてもあげなかった癖に。
>源:そうだったか? 母(かあ)ちゃんが一人占めしてるのはそれ以前からだったがな。
>あや:女の子が欲しかったって待っていたんですもの、ちょっとくらい過剰でも目を瞑(つぶ)ってあげないと。
>源:ふん。・・・それになんだ? 一番最初に喋った言葉が「ばー」たあどういうこった? 俺なんてまだ一度だって「おとー」とも「とと」とも言われたこともねえんだぞ。
>あや:あらそうですか? 気が付かないだけでしょ。ちゃんと「たー」って呼ぶじゃないですか。
>源:それは、お前ぇのことだろ?
>あや:わたしのことは「んまー」って呼んでますよ。お乳のときと一緒ね。
>源:性格まで母ちゃんに似ちまったらどうするんだよ。あんなべらんめえになったらそれこそ目も当てられねえぞ。
>あや:そんなことありませんよ。お母さんはそんな下手(へた)な育て方はしませんって。
>源:どうだか?
>雅:・・・誰がべらんめえだって? 聞こえないと思って陰口叩いてると承知しないよ。
>源:ほうらあれだ。

>源:それはそうと、お前ぇ、近頃しょっちゅう出掛けるが、腹の方は大丈夫なのか?
>あや:平気ですよ。順調そのもの。静のときより元気が良いみたい。
>源:そんなら良いが、大事にしろよ。早産ってこともあるんだからな。
>あや:分かってますって。・・・でも、ちょっと急いだ方が良いかしらね、やっぱり。
>源:いったい何を企(たくら)んでるんだ?
>あや:何って、お杉さんのことですよ。ほら、お咲ちゃんが来たとき言ってたじゃないですか。定吉さんが気に病んでるみたいだって。
>源:お杉ちゃんにゃあ俺は会ったことがねえんだよな。どっかのお店(たな)に通いで勤めてるってんだろ? なんで住み込みじゃねえんだ?
>あや:お母様の胸が悪い上に、定吉さんがまだ小さかったですから。
>源:おっ母さんがいたのかい?
>あや:わたしが越していく3年ほど前に亡くなったそうなんです。
>源:そうか、随分苦労したんだな。・・・それで?
>あや:番頭さんから「倅(せがれ)の嫁に」って持ち掛けられたこともあるらしいんですけど、丁度お母様の病気が酷(ひど)い頃と重なって、相手の方が待ち切れないで別の娘さんを貰(もら)っちゃったそうなの。
>源:そりゃあ・・・
>あや:定吉さんったら、どう勘違いしたのか、自分が少なからず祝言の邪魔をしたって思い込んじゃってるようなのよ。
>源:なるほどな。・・・で? いつものお節介の虫が疼(うず)いたって訳か。
>あや:それもありますけど、やっぱり、お杉さん本人のことを思ってですよ。あんな働き者を、いつまでも独りで放っておいちゃ勿体無いもの。
>源:それで? 目処(めど)はあるのか?
>あや:富郎さんに当たって貰ってるんですけど、中々思わしい話が出てこなくって難儀してます。今度ばかりは、とんとん拍子という訳には行きそうもないみたい。
>源:お前ぇは今大事なときなんだから、あんまり気を揉むなよな。ちょいと心配ではあるが、熊五郎たちにでも遣らせてみるからよ。
あや:そうですね。お咲ちゃんが付いていれば案外巧く片付いちゃうかも知れませんね。

例年にない異常な暑さをどうにか乗り切って、仕事の方も漸(ようや)く捗(はかど)り始めている。
「暑い暑い」を連発して、手がお留守になり勝ちだった八兵衛と五六蔵も、集中して仕事に取り掛かっている。
新婚の四郎は、控え目なところは変わらないが、心成しか仕事に自信が持ててきたようである。

>八:なあ熊よ、お夏ちゃんのこと、鹿の字に教えてやったのが良いんじゃねえのか?
>熊:鹿之助に言ったところでどうなるもんでもねえぞ。
>八:それでもよ、引き止めて呉れるかも知れねえじゃねえかよ。
>熊:無理だっての。見ただろ、おのお夏坊の顔。生半可な決心じゃねえぞ、ありゃ。
>八:医術を勉強するのなんか江戸だって良いじゃねえか。何もお伊勢様の3層倍も遠いとこへなんか行かなくたってよ。
>熊:今じゃ結構、道中も安全だって言うぞ。
>八:そういうことじゃねえだろ。仮令(たとえ)どんなに役人がしっかりしてるったって、若い娘の一人旅なんて危なっかしくって見ていられるかっての。
>熊:そんなに言うんだったら、お前ぇがお供で付いてきゃ良いじゃねえか。
>八:そんな地の果てなんか行けるか。
>熊:じゃあ、誰か頼りになりそうな男でも探すんだな。
>八:なんだと? 2人っきりで行かせたりなんかしたらそっちの方が危ねえじゃねえか。
>熊:あれも駄目これも駄目じゃあ、埒(らち)が明きゃしねえじゃねえか。駄々っ子みてえなこと言うなっての。お夏坊にゃ、人様の病を治すんだっていう立派な決心があるんだからよ。
>八:そんなこと言ったってよ・・・

そこへ、お杉が働くお店へ行ってきた、源五郎がやって来た。

>源:なんだ、八。随分難しい顔してるじゃねえか。
>八:おいらの人生で最大の壁にぶち当たっちまったってとこでやすよ。
>源:なんだそりゃ? 食い物のことか?
>八:そんな訳ねえでしょ? 馬鹿にしてるんですか、親方?
>熊:お夏坊が長崎へ行くって話でやすよ。
>源:ああそのことか。おれもあやから聞いた。中々見上げた心掛けじゃねえか。
>熊:そうでしょ? ところが、八の野郎はどうあっても行かせたくねえって言うんでやすよ。
>源:八が嫁を貰うまで行かねえってことなんじゃねえのか? 何も今から悩むことじゃねえと思うがな。
>八:何を言ってるんですか。おいらだってもう30なんですぜ。嫁の話が明日来たって可笑しくねえじゃねえですか。・・・それともなんですかい? おいらに嫁を取らせねえで、一生手元に置いて面倒を見てえって、そう仰(おっしゃ)るんですかい?
>源:そうは言ってねえさ。良い話があったら真っ先に持ってくるさ。
>はち:本当でやすね? 約束しましたからね。
>源:はいはい。約束だ。・・・それはさて置きだ。ちょいと相談があるんだ。
>熊:おいらたちにですかい?

>源:お前ぇたちの長屋にいるお杉ちゃんのことなんだがな、あやのやつがまたお節介心を出しやがって、相手を見付けようって気になりやがってな。
>熊:そう言えば、四郎の祝言(しゅうげん)祝いをしたときっから放(ほ)っぽってあったっけ。
>八:銚子の若先生の知らせばっかり気に掛けてたもんで、すっかり忘れてたぜ。
>源:それでだ、あやがあんな身体なもんで、ちょいと代わりに心掛けてみちゃあ呉れねえか?
>八:ようがす。この八兵衛が引き受けやしょう。
>熊:またお前ぇ、安請け合いはするなってんだ。・・・とはいえ、姐さんの事情じゃあ断る訳にもいかねえがな。
>源:まあ頼むわ。それから、お咲ちゃんも仲間に入れるようにってのがあやからの言(こと)付けだ。
>熊:お咲坊を混ぜると話が好い加減になるんでやすが。
>源:じゃあ聞くが、お前ぇと八との組み合わせのどこが好い加減じゃねえってんだ?
>八:親方、何もそんなにはっきり言うことねえじゃねえですか。こう見えてもおいらの心は傷付き易いんですぜ。
>源:ああ知ってるよ。重々分かってるって。
>熊:今回のことは巧く丸め込まれときましょう。元々おんなじ長屋の住人であるおいらたちが気に掛けてやらなきゃならねえことなんでやすからね。

>八:ねえ親方、偶(たま)には人様のばかりじゃなく、おいらたちの相手探しもしてくださいよね。
>源:だから心掛けているって言ってるだろ。
>八:待ってるばかりじゃなくって、探しに出掛けるとか何とかしてみてくださいよ。
>源:分かった分かった。この件が片付いたら、元締め連に声を掛けてみよう。
>八:総元締めの爺さんは役に立たねえですよ。なんてったって耳が遠いんでやすからね。間違って婿を探してこられたってこちとらどうすることもできやせんからね。
>源:ああ分かったよ。

伝えることは伝えたと、源五郎は清々して持ち場に付いた。
お杉が働いているお店の番頭から聞いてきた話は、帰ってあやと相談してから伝えるつもりでいた。

>八:なあ、親方はああ言うがよ、本気で見付けて呉れるつもりがあると思うか?
>熊:あるに決まってるだろ。弟子がいつまでも嫁を取れねえとなったら親方だって悪く言われるんだぞ。
>八:自分の面子(めんつ)のためってことか?
>熊:まあ、そればっかりじゃあねえけど、まあ、そういうことだ。・・・考えてもみろ、親方が悪く言われりゃあ、棟梁が悪く言われる。棟梁が悪く言われりゃあ、大女将さんや姐さんまで悪く言われるんだ。姐さんが悪く言われたら親方が辛かろう?
>八:なんだかぐるぐる回っててどこが終わりになるんだか分からねえな、こりゃ。
>熊:世の中なんてもんはな、そういう風にできているもんよ。
>八:じゃあよ、おいらが良く言われるためには、おいらが良いことをすりゃあ良いってことにもなるよな。
>熊:まあ、良いことをするに越したことはねえだろうよ。「情けは人の為ならず」とも言うしな。
>八:ようし決まった。おいら今年の秋は人様のために「縁結びの八兵衛」になっちまう。そいつがとどのつまり、自分に帰ってくるんだろ? へへ、おいらの春も近いぜ。
>熊:そういう風に欲得でものごとを決めてると罰(ばち)が当たるぞ。
>八:へへーんだ。良いことをして罰が当たるってんなら、お奉行様なんか辞めさせちまえってんだ。
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