95.【お】 『溺(おぼ)れる者は藁(わら)をも掴む』 (2001/09/17)
『溺れる者は藁をも掴む』
非常に困難な状況に陥(おちい)ったときは、藁のような頼りになりそうもないものまで頼りにしてしまうものだ。
類:●苦しいときの神頼み
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あやが佐羽衛門の家を訪れている頃、源五郎は熊五郎に案内させて、鹿之助の父に会っていた。
お夏の父・栗林清志郎は、初め「町人が何をしに?」と言わんばかり、胡散(うさん)臭そうな顔をしたが、遠い記憶にあった熊五郎と漸(ようや)く結びついたらしく、肩の力を抜いた。

>熊:最後にお目に掛かったのはおいらが二十歳(はたち)をやっと超えたくらいのときだから・・・
>清:そうか、もうそんなになるか。あれは鹿之助が初めて昇進したときだったからな。
>熊:お武家様の家に上がれるような身分じゃねえって分かっちゃいやすが、拠所(よんどころ)ない用でして。
>清:なあに、武士といっても療養の身、浪人のようなものだ。それに、鹿之助の数少ない友人なんだ、身分なんか重要なことじゃない。
>熊:そう言って頂けると気が楽になりやす。・・・あ、申し遅れやしたが、こちらはおいらの親方でやす。
>源:大工の源五郎と申します。お夏お嬢さんには手前の女房の話し相手をしていただいて、勿体無く思っておりやす。
>清:おおそうか、静(しずか)という名の赤子が産まれたという、あの。
>源:へい。
>清:それで? その源五郎さんとやらが何用あって見えられたのかな?
>源:お夏さんから頼み事をされやして。
>清:頼み事?
>源:ご子息に嫁を見付けて欲しいと。
>清:なんと。そんなことを。うーむ・・・
>源:出過ぎたことでしたら、早々に手を引かせていただきやすが。

>清:あいや待たれよ。実は、そのことに付いては拙者(せっしゃ)も頭を痛めておるところなのだ。面倒を掛けるようで済まぬが、心掛けてみては呉れまいか。
>源:ですが、ご子息のお相手はお武家のご息女じゃないといけねえんでしょう? あっしら下々(しもじも)のもんにはちょいと手に余るんでやすが。
>清:確かに、欲を言えば武家の娘であって貰いたい。しかしだ、親の口から言うのもなんなんだが、鹿之助は碌(ろく)に剣も振れない半端武士だ。武家の娘が来て呉れるとは、どうしても思えんのだ。
>源:そんなんで良いんですかい?
>熊:だってお夏坊の方は、武家の倅(せがれ)じゃねえといけねえんでしょう?
>清:あれは出来が良い。その位の値打ちはあろう。だが、鹿之助は別だ。商人(あきんど)の子だろうと職人の子だろうと拘(こだわ)らぬ。丈夫な子を生(な)せそうな快活な娘御であれば、それ以上は求めぬ。
>熊:ありゃまあ。鹿之助も軽く見られちまったもんだな。
>清:別に軽く見ている訳ではない。その程度の者だということを、熟知しているというだけのこと。
>熊:実の父親(てておや)がそう言い切るんなら仕様がねえわな。だけどね、それっくらい駄目な奴だったら、やっぱり相手探しは大変なんじゃねえですか?
>清:この際、大工風情(ふぜい)だろうがなんだろうが頼れるものならなんだろうと使うさ。ああ口惜(くちお)しい。拙者がこんな体(てい)たらくでなければ、とっくに嫁を娶(めと)っている筈だと思うと、情けなくて情けなくて・・・

清志郎は悲痛な顔で胸を押さえ、煎餅布団(せんべいぶとん)の中に沈み込んだ。
非番の日に源五郎を訪れるよう鹿之助に命じておくからということで、対話を収(おさ)めた。

>熊:ねえ親方、大工風情たあご挨拶ですよねえ。
>源:仕方ねえだろう、事実なんだからな。それに、あの様子だと、結構切羽詰まってるようだしな。親心に免じて、大目に見てやらねえとな。
>熊:そうは言いやすがねえ、こっちは親切でやってやろうってんですぜ。
>源:親切心ってのはな、押し付けるもんじゃねえ。してやってるって思ったときから、それは親切じゃなくなるんだ。
>熊:そうでしたね。お侍(さむらい)の考え方にむかっ腹立てても仕方ないですよね。
>源:ま、そういうこった。・・・なあ熊、鹿之助さんがおいでになったとき、お前ぇも立ち会え。
>熊:へい。そりゃあもう喜んで。・・・でも、仲間外れにしとくと、八の野郎がやっかみますぜ。
>源:あいつぁあ元々、こういうことには向いてねえのさ。名前が出てくる娘に一々惚れちまっちゃあ、媒酌役なんか務(つと)まりゃしねえ。
>熊:そいつはその通りなんですが、何かにつけておいらと張り合いたがりますんでねえ。
>源:勝手に剥(むく)れさせておくさ。こっちにしろ、あっちにしろ、ただでさえ難しい縁談話なんだ。捏(こ)ね繰り回されちゃ敵(かな)わん。
>熊:ご尤(もっと)もで。・・・でもきっと今頃、置いてけ堀を食っただけで臍を曲げてやすぜ。

熊五郎の予想通り、八兵衛は剥(むく)れていた。
鹿之助の父親は厳格な人だからという説得で、一時は納得(なっとく)してみせたものの、「おいらとお夏ちゃんの間を裂こうっていう魂胆(こんたん)だろ」まで言って、駄々を捏ね始めた。

>熊:だから、お前ぇとお夏坊の間なんか、端(はな)っからなんにもねえじゃねえか。
>八:そんなことお前ぇに分かる訳ねえじゃねえか。お前ぇはお夏ちゃんじゃねえんだからよ。
>熊:何を未練たらしいこと言ってやがるんだ。目の前のことを受け止めろってんだ。
>八:なあ、頼むよ。お夏ちゃんの父上に会わせて呉れよ。こうなったら熊だけが頼りなんだからよ。
>熊:調子の好いことばっかり言いやがって。・・・会わせるだけならいつだって会わせてやれるがよ、鹿之助の一件が
丸く収まって からにして呉れよな。
>八:そうか。会わせて呉れるか。・・・ようし、こうなったら何が何でももやしの相手を探してやるぞ。もやしにゃあやっぱり、鴨の肉かな?
>熊:何を惚(とぼ)けたこと言ってやがる。さっさと仕事を済まして、姐(あね)さんの方の首尾(しゅび)を聞きに行くぞ。
>八:そうだな。万が一、もやしでも構わねえってことになりゃあ、万万歳だもんな。
>熊:そんなに巧く事が運ぶ訳ねえだろ。

夕刻、弟子たちは、源五郎とあやの話に立ち合わせて貰った。
話を付き合わせてみると、何やら、満更(まんざら)不釣合いでもなく聞こえてくる。
熊五郎と八兵衛は、「こりゃ、ひょっとしたらひょっとするぞ」と、顔を見合わせた。

>八:こいつは、早速お夏ちゃんに報(しら)せなきゃならねえな。
>熊:まあ待てよ。まだ決まった訳じゃねえんだからよ。
>八:なあに、親方は兎も角、姐さんに任しときさえすれば、もう決まったも同じよ。
>熊:あのなあ。もし巧く行かなかったらお前ぇ、責(せき)も果たせねえんだからな。
>八:そん時ゃそん時よ。
>熊:鹿之助のやつは、一途(いちず)な奴だから、夢を持たせといてそれが駄目になったら、きっと自決しちまうだろうな。
>八:おいおい、頼むから脅かすなよ。
>熊:有り得るから有り得るって言ってるんだ。そうなったら、お前ぇ、もう金輪際お夏坊には近寄れねえようになるな。
>八:脅かすなったら。分かったよ。やんわりとしか話さねえよ。まったくお前ぇは慎重なんだから。
>熊:慎重なんじゃねえよ。鹿之助がどういう人間か良く知ってるってだけのことだ。

>熊:ねえ姐さん、そのおしかさんて娘さんに、お夏坊を会わせてやっちゃどうですかね?
>あや:そうね。女は女同士、その方が、忌憚(きたん)なく話ができるかもしれないわね。
>八:それじゃあ、早速今夜、おいらがお夏ちゃんに日取りを決めるように言っときやすよ。
>あや:待って、八兵衛さん。
>八:へ? 何か拙(まず)いことでもありやすか?
>あや:そうじゃないんですけど、わたし、もう少しおしかさんとふたりっきりで話してみたいの。とっても良い娘さんなのよ。本人がちゃんと納得するような話の進め方をしてあげたいの。それに・・・
>八:それに?
>あや:もしかすると、鹿之助さんよりも相応(ふさわ)しい人が居るかもしれないし。
>八:もやしじゃいけねえんですか?
>あや:いけないって訳じゃないのよ。あんまりとんとん拍子に行っちゃうと、次に来るのは落とし穴ってことが良くあるでしょ? そういう風にしたくないだけ。
>八:そんなことですかい。ああ良かった。もやし以外の男を連れてこられちまったら、それこそ、おいらが困っちまう。
>あや:どういうこと?
>熊:あ、いや、どうってことじゃねえんですよ。お夏坊の頼みが早く片付けば良いなって、ただそれだけなんですよ。な?
>あや:ふうん・・・

あやは、にっこり笑っただけだった。
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