166.【く】 『苦(くる)しいときの神頼(かみだの)み』 (2003/02/03)
『苦しいときの神頼み』
普段は神仏を信じない者が、苦境に陥(おちい)った時だけ神仏に祈って助けを求めること。
類:●溺れる者は藁をも掴む●叶わぬ時の神頼み●事あるときは仏の足を戴く●Danger past, God forgotten.「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
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源五郎から見合いの段取りなど、細かい話は聞かなかったが、熊五郎も頼まれた以上世話を焼かない訳にも行かない。
八兵衛あしらいならどうとでもなるから、先(ま)ず、五六蔵の気持ちを確かめてみる気になった。

>熊:なあ五六蔵、ちょっと聞いても良いか?
>五六:なんでやすか?
>熊:お前ぇ、嫁を貰うなんて予定はねえのか?
>五六:なんですかい、藪から棒に。
>熊:いやなに、四郎が早々に身を固めちまったから、兄貴分のお前ぇはどう思ってるのかと気になってな。
>五六:そりゃあ、四郎たちとか菜々たちが宜しくやってるのを見てると、夫婦(めおと)ってのも悪いもんじゃねえって思いやすよ。・・・でも、ほら、あっしはこんな風体(ふうてい)でしょ? 女にはとんと縁がありやせんで。
>八:はは。身の程を弁(わきま)えてんじゃねえか。
>熊:おいらは五六蔵と話をしてるの。横合いから首を突っ込むなってんだ。
>八:おいらは口を挿(はさ)んだの。首なんか伸ばしちゃいねえよ。轆轤(ろくろ)っ首じゃあるまいし。
>熊:おんなじことだっての。良いから黙ってろってんだ。
>八:分かったよ。・・・で? 五六蔵にそういう気があったらどうなんだ?
>熊:どうって訳じゃねえさ。・・・そんなことどうでも良いだろ? お前ぇは黙って膾(なます)でも食ってろ。
>八:分かったよ。・・・ったく、正月早々からぼそぼそやりやがって。ああ面白くねえ。

>熊:五六蔵、八のことなんか構わねえで良いから、もうちっと聞かして呉れねえか?
>五六:へえ。・・・ですが、あっしは嫁とか、町娘とかっていう話はどうも苦手でやして。
>熊:そんなこたあ端(はな)から分かってら。分かってるがよ、苦手だからって一生独(ひと)り身って訳にもいかねえだろ?
>五六:そりゃあそうなんでやしょうが・・・
>熊:お前ぇにだって、昔惚れた女の1人や2人いるだろ?
>五六:そりゃあ、こっちが一方的に惚れたのなんか数え切れねえほどですよ。
>八:おいらとどっちが多いか比べっこしてみるか?
>熊:お前ぇは黙ってろっての。
>五六:一番惚れたのは姐さんですかねえ?
>咲:あやさんなの?
>五六:へい。一遍でぽうっとなっちまいやした。
>熊:そんなことお前ぇ、一度も言わなかったじゃねえか。
>五六:言えますかってんですよ。親方が惚れていなさるってのは一発で分かりやしたから。姐さんの方だって悪い気がしてねえみてえだったし。あっしなんかに惚れる女なんて、まず、いやせんからね。
>熊:またそれか。お前ぇな、端っから自分で可能性を潰(つぶ)しちまってるのが分からねえのか?
>五六:分かってやすよ。でもね、熊兄い、あっしが誰かを幸せにしてやれるっていう気がどうやっても起きてこねえんでやすよ。

五六蔵は照れ臭そうに言い、湯飲みに残った酒を一気に飲み干した。

>咲:それで? あやさんのどういうところに惚れたの?
>五六:あっしのことを怖がらねえで、真っ直ぐ睨(にら)んできたとこでやすかねえ。
>八:お前ぇ、そんな趣味なのか?
>熊:そんな言い方ってのはねえんじゃねえか? 五六蔵だって、言い難(にく)いことを喋って呉れてんだからよ。
>八:無駄無駄。こんな、見て呉れからして博打(ばくち)打ちみてえな野郎と、誰が一緒になるかってんだ。どうしても嫁が欲しいってんなら、夜中に毘沙門さんにでも行って、お百度でも踏みやがれ。おいらたちが寒い中初詣に行ってきたってのに、暖かい部屋で酒なんか飲んでる奴なんかに、嫁なんか寄越(よこ)して呉れるかってんだ。
>五六:初詣なら、昨日の元旦のうちに行ってきやしたって。・・・でも、見て呉れが悪いのばっかりはどうにもならないんでしょうけど。
>八:然(さ)しもの神様も、顔の造りばかりはどうしようもねえっていうことだな。
>五六:そうでやすよね、やっぱり・・・
>咲:八つぁん! 言い過ぎよ。見てよ、悄気(しょげ)ちゃったじゃないの。
>八:す、済まねえ、調子に乗り過ぎた。身内の足を引っ張っても仕方ねえよな。大丈夫だって、五六蔵。顔なんかどうでも良いって娘だってきっといるって。な?
>五六:良いんです。そんなこたあ端っから分かってることでやすから。

>熊:五六蔵よ。そう諦(あきら)めたもんじゃねえかも知れねえぜ。
>八:どういうこった?
>熊:いやなに、源五郎親方だって、決してお優しい顔じゃねえのに良い嫁さんに恵まれたんだってことよ。頃合いが来りゃあ、良い話があっちから来るさ。
>五六:そうでやすかねえ。
>八:ああ来るともさ。・・・でもな、おいらの後にしておいて呉れよな。
>咲:そんなの待ってることないわよ、五六ちゃん。こればっかりは早いもん勝ちの恨みっこなしなんだからね。
>五六:はは。そうでやすね。まあ、期待しないで待つことにしやす。

話をどこから聞いていたのか、源五郎とあやが居間に入ってきた。
静は疲れてしまったのか、奥で寝入っているようだった。

>あや:そろそろお雑煮(ぞうに)にしようかと思うんだけど、もうちょっと待った方が良いかしら?
>三:おいら食います。お屠蘇(とそ)も良いけど、雑煮も良いですねえ。
>源:お前ぇは調子好過ぎだっての。ちったあ、しゃんとしやがれ。
>三:へーい。
>源:なあ五六蔵。
>五六:へい。なんでやしょう?
>源:お前ぇに見合いの話がある。明日、ちょいとばかし正面(まとも)な格好で来い。
>五六:へ?
>熊:明日なんですかい? そりゃああんまり、急過ぎやしませんか?
>源:そんなこたあねえ。こういう話はとんとんと運ぶに限る。
>五六:親方、あっしがいくらこんな風体だからって、心の準備くらい必要なんでやすが。
>源:準備して何が変わるってんだ。あれやこれや、余計なことを考えるくらいなら、何も考えねえ方が良い。
>五六:そんなこと言ったって・・・
>咲:五六ちゃんったら、びびってるの? かーわいいっ。
>熊:お咲坊、男に向かって「可愛い」ってのはねえだろう。
>咲:だって、五六ちゃんったら、母性本能を擽(くすぐ)るのよね。

>熊:大の大人に向かって言う言葉じゃねえって言ってるんだ。何を考えてるんだかね、近頃の若い娘は。
>咲:熊さんったら、なんだか言いようが年寄り染みてる。
>熊:放(ほ)っとけ。

>源:それでだ。相手の娘さんがどこのどういう人かってことだが・・・
>八:どういう人なんでやすか?
>熊:お前ぇには関係ねえだろ? 五六蔵への話なんだからよ。
>八:そんなの分からねえだろう。五六蔵よりこの八兵衛様の方が良いわって、言い出さねえとも限らねえ。
>熊:ねえの。五六蔵で駄目だったら、それでお終(しま)い。つまり、破談だ。
>八:そうなのか? なんだか随分勿体ねえじゃねえか。お零(こぼ)れも何にもなしか? じゃあ、おいらの嫁の話は?
>熊:ねえ。そんなもん自分で探しやがれ。
>八:そんな殺生(せっしょう)な。・・・折角(せっかく)大枚(たいまい)叩(はた)いて拝(おが)んできたお陰で、早速ご利益(りやく)があったかなって思ったんだがな。
>熊:そう簡単に効き目が出るかってんだ。それにな、年に一遍くらい拝んだって、神様は聞いちゃ呉れねえの。
>八:なんだ。波銭(=4文銭)2枚も損しちまったぜ。
>熊:なんだ、たったそれっぽっちか?
>八:馬鹿にするなよ。8文もありゃあ、団子が2種類食えるんだぞ。餡子(あんこ)と黄な粉と・・・
>熊:信心より食い気か? まったく以って罰当たりな野郎だぜ。・・・お前ぇは、今年も独り身のまんまだな。
>八:そんなあ・・・

>咲:それで? 親方、五六ちゃんのお相手ってどんな人なの?
>源:まあ、止(や)めとこう。お後の楽しみってことにしとこう。
>咲:そんなのってないわよ。知りたい知りたいっ。
>源:お咲ちゃんが知ったって、どうなるもんじゃねえだろ?
>咲:そんなの分からないじゃない。こう見えても、あたしってかなり顔が広いのよ。
>源:それは知ってるが、こういうことはな、結局はご当人同士に任せるしかねえのさ。・・・と、そんなことだから五六蔵、今日のところはさっさと切り上げて、お頭(つむ)の中の酒を抜いとけ。
>五六:「切り上げろ」って、親方、もう飲み食いできねえってことでやすか? そりゃあないですよ。
>源:食うのは良いが、酒は止めとけってことだ。それに、風呂屋にくらい行っとけ。
>五六:菜々ぁ、とんだことになっちまったよぅ。
>菜:五六兄ちゃん、頑張れ。きっと巧くいくって。
>五六:そう簡単に行くかよ。それより、こっちの心の準備が・・・
>松:なに言ってやがる。十中八九断(ことわ)られるんだから、気楽にやりゃあ良いんだよ。どうせ顔を見た途端に「きゃあ」とか言われて、終(しま)いなんだからよ。
>熊:なんて言いようだ。まったく、義弟(きょうだい)甲斐のねえ野郎だな。お前ぇこそ、お百度でも踏んでやりゃあ良いじゃねえか。
>松:ご冗談。そもそも信心の「し」の字も知らねえ野郎にゃ、鰯(いわし)の頭でも刺しといてやりゃあ十分よ。なんなら風呂屋に行ってる間にでも刺しといてやるぞ。
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※お詫び:時代考証を誤っていると思います。
「母性本能」は、英語のmaternal instinctの訳語と考えられ、たぶん、お咲の口から発せられるべき言葉ではないと考えられます。(上へ戻る