92.【お】 『鬼(おに)の目(め)にも涙(なみだ)』 (2001/08/27)
『鬼の目にも涙』
普段は鬼のような無慈悲な人であっても、時には情け深い心を起こして、涙を流すことがある。
類:●鬼の血目玉にも涙●鰐(わに)の目にも涙
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静(しずか)は、月足らずで生まれた割りには、順調に育っているようだった。
名前の通り、夜泣きも少ない赤ん坊だという。
源五郎はここのところずっと上機嫌でいる。娘の名前にも段々と馴染んできて、満更(まんざら)捨てたもんじゃないなと、思い始めていた。

そんなある晩、お夏が「二人静」の花を摘んで持ってきた。

>夏:見掛けたことはあるでしょ?
>熊:ああ、なんとなくそんな気もするな。
>夏:元々目立たないところ、木の陰なんかに咲く草だものね。
>八:日陰の花か?
>熊:こら、縁起でもねえこと言うな。お嬢さんが日陰の花になっちまったらどうする?
>八:何を言ってやがる。人が花とか草とかになれる訳ねえじゃねえか。
>熊:そういう意味じゃねえの。例えばだな、お妾(めかけ)さんとか、父(てて)なし子みてえに、あまり大手を振って歩けねえような女の人のことを意味する言葉なの。
>八:するってえと何か? あの稚児(ややこ)の父親は親方じゃねえてのか?
>熊:話が飛躍し過ぎだってんだ。

>夏:「一人静」っていう花もあるんだけど知ってる?
>熊:知る訳がねえじゃねえか。
>夏:花がね、1輪しかないんだけど、こっちの方が華やかなのよ。静御前が舞を舞ってるように見えるからそういう名前なんですって。
>熊:けど、「一人」ってのはちょいと寂しいな。
>夏:だから、静御前なんじゃない。愛しい人と離れ離れにさせられちゃって、一人悲しく舞を舞うなんて、涙をそそるじゃない? 正にぴったりって感じよね。
>八:そっちの花も日陰に咲くのか?
>夏:そうよ。同じ種類の花だもの。
>八:おいらその静なんとかって人のことはよく知らねえんだけど、やっぱり何かい? その、日陰の花だったのかい?
>熊:お前ねえ、そんなことお夏坊に聞くもんじゃねえだろ?
>八:なんでだ? 熊なんかと違ってなんでも知ってるからよ。
>熊:子供に向かって、妾だ愛人だなんてこと聞くもんじゃねえってんだ。
>夏:あら、あたし平気よ。そんなの超越しちゃってるもん。
>八:な? なんでもねえだろ? お夏ちゃんはな、向日葵(ひまわり)みてえな日向(ひなた)の花なのよ。そんなとこに男ってのは惚れるんだよな。
>夏:ま、八兵衛さんったら。誉めたってなんにも出ないわよ。
>八:そんなんで言ってるんじゃねえって。八兵衛といやあ真面目、真面目といやあ八兵衛ってなところだぜ。
>熊:何を抜かしてやがる。笑茸(わらいたけ)を食った喇叭水仙(らっぱすいせん)みてえな質(たち)してる癖に。

>八:なあお夏ちゃん。正直に答えて貰いてえんだがよ。
>夏:なーに?
>八:静お嬢さんはよ、親方似だと思うかい? それとも姐さん似?
>夏:そりゃ、紛れもなく親方似よ。・・・けど、どうして?
>八:将来が心配でよ・・・
>夏:子供のときの顔と大人の顔は変わるのよ。今から心配してたって仕様がないじゃない。・・・けど、あたしはね、親方の顔って愛嬌があって良いと思うんだけどな。
>八:愛嬌だぁ? 誰がどう見たって鬼瓦なんだぜ。
>熊:お世辞にも色男とは言えねえよな。
>夏:誰も色男だなんて言ってないじゃない。そりゃあ、親方の顔は鬼瓦よ。でも、あたしの個人的な好みの問題なんだけどね、端正な造りをした顔ってあんまり好きじゃないの。自意識過剰だし、なんだか情も薄そう。
>八:成る程。・・・そういうことならよ、おいらなんか中々良い線行ってるんじゃねえか?
>夏:そうね。少なくとも、薄情なんかじゃないわね。
>熊:軽薄だけどな。

>夏:善い女ってのはね、見て呉れじゃなくて、才能とか人柄に惚れるのよ。
>八:もしかして、お夏ちゃん、やっぱり鴨の字に惚れちゃってるの?
>夏:あのね、八兵衛さん、前にも言ったけど、あたしはお嫁になんか行かないの。だから、誰に惚れるとか、誰かと一緒に居たいとか、そんな気更々ないの。
>八:今でも変わらずそう思ってるのか? ちょっとは変わったりしてねえのかい?
>夏:全然。
>八:でも、少しは・・・
>夏:諄(くど)い。

>熊:まあまあ。少なくとも八が入り込む隙(すき)はねえってこった。・・・だがよお夏坊、姐さんとこの稚児を見たりすると、自分も欲しくなったりはしねえかい?
>夏:そうね。ほんと可愛いのよ。指を手のところへ持ってくとぎゅっと握るのよ。
>熊:あの女将さんが菩薩様みてえににこにこしてるんだもんな。孫ってのはよっぽど可愛いもんなんだろうな。
>夏:父上ったらね、「もう長くは生きられないから、せめて孫の顔くらいは拝ませなさい」って、妙な脅し文句を言うのよ。
>熊:聞いてやりゃあ良いじゃねえか。
>夏:冗談じゃないわよ。今時ね、親が決めたことに従う娘なんか居やしないわよ。
>熊:遺言でもか?
>夏:止(や)めてよ、縁起でもない。
>熊:はは。こいつは済まねえ。ちょいと鎌を掛けただけだ。気にするな。

>夏:・・・でもね、実はね、あやさんの稚児のことを話してたとき、父上ったら急に泣き出しちゃってね。吃驚(びっくり)しちゃったわよ。あの厳格な父上が泣くなんて信じられないことだもの。
>熊:鋼(はがね)の女も情に絆(ほだ)されたかい?
>夏:何よその鋼の女ってのは。あたしはねえ、夢だけを追い掛ける向日葵娘なのよ。
>熊:向日葵だって情に絆されることもあるだろ?
>夏:・・・そうね。ちょっとはね、ぐらっと来ちゃったかな。
>熊:人様を助ける仕事をしようって者はな、人の心も助けてやれなくっちゃいけねえよ。それが身内のであってもな。
>夏:何よ熊お兄ちゃんったら、鎌を掛けてるだけだって言っときながら、あんまり真面目なことを言わないでよ。柄にもなくしんみりしちゃうじゃない。
>熊:そうか? おいらはよ、八とは違って、いつだって真面目な熊五郎だからな。
>八:ちょいと薄情もんだけどな。

お夏は、少しは身に沁みたようだ。
だからといって、自分の意向も聞かずに取り決めてしまった親の横暴にだけは、大人しく従いたくなかった。

>夏:ねえ、熊お兄ちゃん。ちょっと頼みたいことがあるんだけど、聞いて貰える?
>熊:なんだ? お前ぇ、また、突拍子もないこと言い出すんじゃねえだろうな?
>八:聞く聞く、おいらがなんだって聞いてやる。
>夏:有難う、八兵衛さん。あのね、兄上に嫁を探してやって貰いたいのよ。
>熊:なんだと?
>八:あのどっちかってえと、風采の上がらねえ、下戸(げこ)の兄上にか?
>夏:そう。なんの取り柄もない、日陰の花みたいな栗林鹿之助に愛の手を。
>熊:まったく、小狡(ずる)いことを思い付きやがって。
>夏:そんなこと言わないでよ。本当に困ってるんだから、ね、お願い。
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