75.【え】 『遠交近攻(えんこうきんこう)』 (2001/05/01)
『遠交近攻』
遠方の国と親しくして、近い国を攻め取る外交政策で、中国の戦国時代に范雎(はんしょ)が唱えた。秦(しん)がこれを取り入れた。
故事:「史記范雎」 もと魏の臣であった范雎が秦王に、秦から遠い齊(せい)や楚とは同盟し、近い韓(かん)・魏・趙などを攻めよとすすめ、秦はこれにより6国を滅ぼしたということから出た言葉。
人物:范雎(はんしょ) 中国、戦国時代秦の宰相。生没年不詳。字は叔。諸国を遊説し、はじめ魏の大夫に仕えたが、異心があると疑われて、秦に逃れ、昭襄王に仕えて遠交近攻の策を献じた。
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結局、物に攣(つ)られる形で引き受けてしまったお咲は、英二の顔だけでも見ておこうと、本郷の生駒(いこま)屋へ向かった。
与太郎は、昼前にお得意さん回りをこなしておきたいということで、野菜を売りに出掛けていた。
遠巻きに見るだけだから大丈夫よねとは言ったものの、ちょっと心細くもあった。
小石川辺りをふらふらと歩いていると、思い懸けず、岡引(おかっぴき)の伝六と遭遇(そうぐう)した。

>咲:伝六さん、丁度良いところにいて呉れて助かったわ。一緒に来て貰えないかしら?
>伝:どこへ行くんだい?
>咲:生駒屋さん。
>伝:そうかい、お咲さんも年頃だもんな。そうかそうか。それじゃあ、おいらが見立ててやろう。
>咲:そうじゃないのよ。英二の奴らが生駒屋さんの店先に屯(たむろ)して、商(あきな)いの邪魔をしているから見に行こうっていうの。
>伝:なにぃ? そいつは聞き捨てならねえな。ようし、この伝六様が取っ締(ち)めてやる。
>咲:まあそう熱くならないで、伝六さん。経緯(いきさつ)は、道々話すから。
>伝:桃山の旦那には報(しら)せなくても良いかな?
>咲:今日のところは様子見ってことにしましょう。どうせ明日も明後日(あさって)もいるらしいから。
>伝:なんと。お咲さんそこまで調べが付いてるのかい? 凄(すご)いねえ、どうにもこうにも。

伝六に、お咲が養生所で聞き付けてきたことと、与太郎が調べてきたこととを、掻(か)い摘(つま)んで話して聞かせた。

>伝:堺屋の若旦那を紹介しちまったことが、こんな大騒ぎの元になるなんてなあ。
>咲:あら、そんなことないわよ。太助さんは太助さんで大助かりなんだから。伝六さんは良いことをしたのよ。
>伝:そう言って貰えると、気休めでも有り難ぇや。
>咲:気休めじゃないわよ。善行は善行。今回の騒ぎの元はね、もっと昔に遡(さかのぼ)るの。
>伝:昔っていうと?
>咲:去年の夏、徹右衛門とごろつき3人が本郷の辻で晒(さら)し者になったことあったでしょう?
>伝:おお、あれか。どこのどいつがやったことなのかは今でも分かっちゃいねえが、町の衆は、ありゃあ義賊(ぎぞく)がやったことに違いねえって言ってるらしいな。。遠州の日本左衛門の再来じゃねえかって言い出すのまでいたほどだ。
>咲:誰、それ?
>伝:まあ良いやな。・・・それで? 若旦那をそんな目に遭(あ)わせた賊の中に、絵にそっくりな娘が混じっていたってことか?
>咲:どうやらそうみたい。
>伝:こいつはかなり大事(だいじ)なところだな。・・・ことによると、その娘を手掛かりに一網打尽にできるかも知れねえな。
>咲:はは。それは無理みたい。
>伝:どうしてだい?
>咲:当の徹右衛門が「天女だ」って言ってるんだもの、言質(げんち)になりはしないわ。
>伝:そうか。天女だもんな。天女の仲間じゃあ、犯人は仏様ってことだもんな。なるほど。捕まえられる訳ねえわな。
>咲:伝六さんって、八兵衛さんみたいな考え方をするのね。
>伝:八兵衛さんって、あの、与太郎のことを考え出したっていう、学者のことかい? そいつは光栄(こうえい)だな。
>咲:だから、只(ただ)の大工だってば。

生駒屋の前には、確かに凶悪そうな男たちがうろついていた。
見るからに悪人面(づら)の2人が、行き交(か)う娘たちをじろじろと粘(ねば)っこく見遣っており、もう1人の小柄な男は、困り顔の番頭を捉(つか)まえて横柄(おうへい)に話をしていた。

>咲:お店(たな)の人と話してるのが英二?
>伝:そうだよ。な、言った通りだろ? ちょっと見、普通の親爺(おやじ)だ。
>咲:そうね。・・・でも、底意地悪そうね。
>伝:流石(さすが)お咲さん、一目でそいつが分かるなんて目が肥えてらっしゃる。
>咲:そんなこと・・・

と、そのとき、伝六とお咲は、後ろから、肩を叩かれた。
ぎくりとして振り返ると、そこに、目の釣り上がった長身の男が立っていた。

>伝:て、手前ぇ、常吉。
>常:これはこれは、岡引の伝六さんじゃおまへんか? 昼日中(ひるひなか)に若い娘と小間物屋かいな。お盛んなことやなぁ。
>伝:そっちこそこんなとこで何してやがる。商売の邪魔をしてるってんならふん縛(じば)るぞ。
>常:何を言ってますのやら。わてらは、ここで生駒屋はんの客引きをしてやってますのや。邪魔なんてしますかいな。
>伝:好い加減なことを言うな。番頭さんが困ってるみたいじゃねえか。
>常:真逆(まさか)。あれは英二兄貴と手間賃の話をしてるのやて。銭なんぞいらん言うてるのになあ。・・・ときに、娘さん。なんやらいう女形(おやま)に似てるて言われたことあるのとちゃうか? 随分似てるやないか。
>咲:冗談でしょう。そんなこと言われたことないわ。
>常:まあええやないか。ちょいと兄貴んとこまで付いてきて貰いまひょか。

お咲は、常吉に腕を引っ張られて、店先まで連れて行かれてしまった。
伝六は、一応十手(じって)を取り出しはしたものの、常吉を止めることは出来ず、唯(ただ)付いてゆくしかなかった。

>英:おう常吉、見付かったのかい? あれ? そこにいるのは岡引の旦那やないか。こりゃこりゃご苦労なこって。
>常:わては似てると思うのやけど、兄やんにも見てもろてからと思うて。
>英:ほう。これは似とるな、確かに。・・・唯なぁ、まだ餓鬼(がき)やな。
>咲:何が餓鬼よ、頭きちゃう。あたしはもう立派な大人(おとな)よ。
>英:そうかそうか。それで? なんでまた伝六さんと一緒なんや?
>咲:そんなことあんたに説明する謂(いわ)れはないわ。
>英:ほほう、こいつはとんだじゃじゃ馬やな。結構結構。どうや? ここの白粉(おしろい)、欲しぃないか?
>咲:要らないわよ。それに、あんたみたいな悪そうな奴から物を貰ったとあっちゃ、このお咲の名が廃(すた)るってもんよ。
>英:そうか、お咲さんっていうのんか。また会えたら良(え)えな。
>咲:会いたくないわよ。さ、帰りましょ、伝六さん。

お咲と伝六が去っていくのを確かめてから、英二は男2人に目配せをした。
手下2人は訳知りに頷いて、二手に分かれて尾行を始めた。

>常:このまま勾引(かどわか)しちまった方が良かったんとちゃいますか?
>英:良いのや。将を射んと欲すれば先ず馬から、じゃじゃ馬を勾引さんと欲すれば親からて、言うやないか。
>常:そないなこと初めて聞きましたがな。
>英:中国の兵法や。そのものずばりを狙(ねら)わんと、その周りのもんから攻めろいうことや。
>常:へえ、物知りなんやね、兄やんは。
>英:こんなのもあるで。縄張りを増やそとするのやったら、遠い敵に貢(みつ)ぎもんをしとけば、傍(そば)の敵と戦っとるとき、遠い敵は手出しせえへん。・・・だから、わては、その辺の力関係を見て回っとったのさ。
>常:ほなら、もう筋書きが書けてますのか?
>英:ああ。堺屋と園部屋を食い潰(つぶ)すためには、淡路屋と懇(ねんご)ろになっておかなならん。
>常:淡路屋いうたら、権太いう怪しげな奴がおるところやないですか。
>英:おうよ、その淡路屋よ。・・・さてと、堺屋潰しのねたも見付かったことやし、淡路屋とお近付きんなりに行くとしよか。
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