321.【て】 『手鍋(てなべ)を提(さ)げる』 (2006.02.06)
『手鍋を提げる』
使用人を置かず、自分で煮炊(にた)きをするような、倹(つま)しい暮らしをする。貧しい生活をすることの喩え。
類:●口を糊す糊口を凌ぐ露命を繋ぐ一箪の食一瓢の飲
★「手鍋」は、囲炉裏(いろり)などに吊るすように作られた弦(つる)付きの鍋。
★特に、「手鍋提げても」の形で、好きな男と夫婦になれるなら、どんな貧苦もいとわないという意に用いる<広辞苑(岩)>
用例:浮・傾城禁短気「手鍋を提げさせ永く貧苦の苦しみをかける」
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6つ半(=19時頃)ごろ、お咲と熊五郎が「だるま」に顔を出すと、八兵衛が手を挙(あ)げて迎(むか)えた。
指を、サラシでぐるぐる巻きにしている。
一緒に飲んでいるのは、四郎と五六蔵である。

>咲:あら、どうしたの、その指?
>八:あ、いや、なんだ・・・
>五六:あっしもさっきから気になっていたんでやすが、聞くに聞けずにいたんです。
>四:八兄いは、とんかちで釘(くぎ)を打たずに、指を打ちなすったんです。・・・ね、熊兄い?
>熊:まったく、仕事をしながら、食いもんのことばっかり考えていやがるからだ。
>咲:なによ、熊さん。そんな面白いこと、どうして教えて呉れなかったのよ。
>熊:そんなこと言ったって、お前ぇの方が喋(しゃべ)りっ放しだったんじゃねえか。
>咲:あ、そっか。御免なさいね。

>八:・・・それはそうとよ。あのな、お咲坊。
>咲:なあに?
>八:お前ぇ、いつまで亭主のことを「熊さん」なんて呼んでやがるんだ?
>咲:へ? あら。いけないこと?
>八:いけなかねえが、なんだ、「あんた」とか「お前さん」とかあるんじゃねえかってんだよ。
>咲:いやだぁ。そんな甘ったるい呼び方なんか、今更できないわよ。
>八:うちのお花なんぞ、祝言が済んだ途端(とたん)から「あんた」って呼んでるぞ。
>咲:それは、八つぁんのとこにはおっ母(か)さんがいるせいなんじゃないの?
>八:そんなら、お咲坊んとこだって六さんがいるじゃねえか。家(うち)と、ちっとも違わねえぞ。
>咲:違うわよ。あたしたちは何年もおんなじ長屋に住んでたけど、お花さんは長くないじゃない。この違いは大きいわよ。
>八:あ、そうか。そりゃそうだ。
>咲:指と一緒にお頭(つむ)でも打ったんじゃないの?
>八:何をっ? 一緒んなってからもう3月(みつき)も経(た)つってのに、「くーまさん」「おさっきぼう」なんて呼び合ってて良いってのか? けっ、こっちが恥ずかしくならぁ。
>咲:そんなこと言うんだったら、八つぁんこそ、「お咲坊」なんて呼んで欲しくないわ。
>八:まだ17か18の小娘じゃねえか。「坊」で十分だろ。
>咲:年が明けたら19。もう立派な大人(おとな)なの。小娘なんかじゃない。
>熊:・・・まあまあ。そのくらいにしとけ。そのうちひとりでに変わってくるもんなんだからよ。
>八:そうか? まあ、お前ぇがそう言うんだったら仕方ねえがよ。・・・だがなお咲坊、人様の前で「家の熊さんが」なんてことは言うんじゃねえぞ。
>咲:あ、いけない。今日、内房のお爺ちゃんと、五六ちゃんに言っちゃった。

五六蔵は、三吉を寝せたままにして一旦家へ戻り、憂(う)さ晴(ば)らしに飲みに来ていた。

>五六:そうそう。お知らせしとくのを忘れてやした。
>熊:三吉のことか?
>五六:へい。昼過ぎにお花さんが来て呉れやしてね・・・
>八:行ったからってどうなるもんじゃねえだろ? あんな腹だし。
>五六:ところがどっこいでやすよ。
>八:お摩(さす)りしたら治ったか?
>五六:はぐらかさないでくださいよ、八兄い。・・・千場(ちば)の大先生の話だと、1月(ひとつき)か1月半くらい掛かるってことだったんでやすが、お花さんがちょいと診(み)たら、1月掛からねえで済むってことで。
>八:診ただけでか? 本当に信じられるのかよ。
>五六:診たってっても、何もしなかった訳じゃねえですよ。ちゃんと治してってくださいやした。凄かったですぜ。
>咲:凄いって?

五六蔵が勢い込んで答えようとしたところへ、横合いからお町が顔を覗(のぞ)かせた。

>町:どう凄かったの?
>五六:お、お町ちゃん。お前ぇも聞いてたのか?
>町:だって。気になるんだもの。
>五六:あのですね。あっしは三吉の背中を押さえてただけなんで。そしたら、足んとこを持って気合いを入れてくだすったんです。すうって息を吸い込んで、・・・「はっ」。
>町:ああ、吃驚(びっくり)した。脅(おど)かさないでよ。
>五六:済いやせん。・・・それで、「はい、お終(しま)い」って。
>町:そんなので早く治るの?
>五六:太鼓判を捺してくださいやした。大先生のままにしてたら、良くなっても足を引き摺るようだったかも知れねえってことでやした。
>熊:そうなのか? そりゃ、早く気が付いて良かったな?
>八:どうだ、おいらが使いを走らせてて良かっただろう?
>熊:おいらが先に気付いたんじゃねえか。女房のことだったら、お前ぇが真っ先に気付かなくちゃいけねえ話だろう?
>八:だって、おいら、お花がどれくらい偉(えら)いのかなんてちっとも知らねえんだもん。
>四:「知らぬは亭主ばかりなり」ですね。
>熊:まったくだ。余所(よそ)の夫婦(めおと)の呼び方なんかを気に掛けてる場合じゃねだろう?
>八:はは。面目(めんぼく)ねえ

>町:それで、三吉さんは今大人しく寝てるの?
>五六:気を失ってるよ。お町ちゃんが行くまで起きやしねえな、ありゃ。
>町:なんですって? どうしてそれを先に言って呉れないのよ。・・・お咲ちゃん、後を頼める?
>咲:合点(がってん)だぁ。
>町:早めに戻ってくるからね。
>咲:寝汗(ねあせ)なんか掻いてるようだったら、着替えさせてやってね。
>町:・・・馬鹿

お町が握り飯と烏賊大根(いかだいこん)の小鉢(こばち)を抱えて長屋に着くと、確かに、行灯(あんどん)に火が入っていない。
心張(しんば)り棒も何もあったものじゃない。
いくら貧乏所帯(じょたい)で、何も盗られるものはないといっても、無用心(ぶようじん)である。
「三吉さん」と声を掛けても返事がない。が、寝息は立てているようである。
怖(お)ず怖ずと入って、手探りで行灯に火を点(つ)ける

>三:ん? ・・・だ、誰だ。
>町:あ、あたしよ。お町。
>三:ああ、お町ちゃんか。なんで・・・、あいたたた。
>町:起きなくて良いから。・・・大丈夫
>三:ああそうか、おいら、怪我(けが)をして寝てたんだっけな。今、何時(なんどき)だい?
>町:5つ(=20時頃)を少し過ぎたくらい。お腹(なか)空(す)いたでしょう?
>三:ああ。そう言えばそんな気もするな。・・・おいらいつの間に寝ちゃったのかな?
>町:覚えてないの?
>三:なんだか、寄って集(たか)って押さえ付けられて、縛(しば)られた挙げ句に火炙(あぶ)りにされてる夢を見てたんだ。嫌な夢だよな。そんで、どこまでが夢だったのか分かんなくなっちまった。・・・お町ちゃん、確かに、寝る前に来て呉れたよな? あれは夢じゃねえよな?
>町:夢じゃないわよ。ほら、ちゃんとお夕飯持ってきたじゃない。
>三:そうか。良かった。

>町:あたしが帰った後に、お花さんが来て足を見て呉れたでしょう? 五六蔵さんがそう言ってた。
>三:あ。そうだった。ありゃ凄かったぜ。
>町:そんなに痛かったの?
>三:ちっとも痛くなかったよ。ほれ、寒いときに、指なんかがばちっとすることがあんだろう? あれのでかいのが脳天まで駆け上ってきたのさ。それで、目の前が真っ白になっちまったんだ。
>町:へえ。お花さんって、見掛けに拠らず凄い人なのね。
>三:凄えもなにも、見上げたお人だよ。・・・そんで? やっぱり1月半掛かるって言ってたかい?
>町:1月も掛からないだろうって。なんとか道場の大先生って人より短くなったわ。良かった。

>三:おいら、お町ちゃんがこうして来て呉れるんだったら、2月でも3月でも良いんだけどな。
>町:それは駄目よ。
>三:そうか。そうだよな。そんなに面倒は見られねえよな?
>町:違うのよ。そういうことじゃない。・・・やっぱり、1日でも早く良くなって貰った方が良いに決まってる。
>三:そりゃそうだ。親方にもあんまり迷惑ばっかり掛けていられねえしな。でもなあ、それはそうなんだけどなぁ。もうそれっきりってことになっちまうのかと思うとな。
>町:それっきりなんてことにならない。
>三:そりゃ、おいらが「だるま」へ行くようになるだけだからな。
>町:違う、違う。そういうことを言ってるんじゃないの。・・・ね、もう間もなく年が明けちゃうでしょう? そうすると、あたしもう24になっちゃうのよ。
>三:そりゃあ、お町ちゃん。おいらと一緒んなっても良いってことか?

>町:あの後、ずっと考えてたの。・・・あたしって、目の前にぱっと現れた人のことなんて、どうやっても信じられない質(たち)なのよ。だから、これからどんなに好い男が出てきたって、2年も3年も掛かっちゃう。そうすると、もう27よ。そんな年になったら、誰も相手になんかして呉れる訳ない。
>三:そんなこと・・・
>町:ああ、違う。そういうことを言いたかったんじゃない。三吉さんのことを見てて、見てきて、これまで会った人の中で一番あたしに合うって思ったの。それはほんと。だから・・・
>三:おいら、人に威張(いば)れるとこなんか何一つ持っちゃいねえんだぜ。
>町:そんなことない。好い親方と、好いお仲間がいるじゃない。身代(しんだい)って、銭金ばかりじゃないでしょ? それって、もしかすると困ったときに親身(しんみ)になって呉れる人の数なのかも知れないって思ったのよ。
>三:それに掛けちゃ、おいら、自慢できる仲間を持ってるな。
>町:だから。だから、あたしも、その仲間に入れて貰いたいのよ。
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