231.【し】 『上知(じょうち)と下愚(かぐ)とは移(うつ)らず』 (2004/05/10)
『上知と下愚とは移らず』
生まれながらの賢明さや愚かさは、境遇や環境によって左右されたり変化したりするものではない。生まれながらの賢人は常に賢く、生まれながらの愚人は常に愚かである。
出典:「論語−陽貨」 「惟上知下愚不移
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およねが産気(さんけ)付いたという話を聞いたせいなのか、お三千(みち)も「もうそろそろみたいな気がする」と言い出したという。
五六蔵は「今日1日は何があっても仕事をします」と熊五郎に約束して呉れた。

>源:無理することはねえんだぞ。傍(そば)に付いててやれ。
>五六:なあに、男がいたってなんの役にも立たねえですから。
>源:しかしな、罷(まか)り間違ったらっていうこともあるぞ。今でこそ少なくはなってるがな。人1人を産み落とすってことは並大抵のことじゃねえんだ。
>五六:大丈夫ですよ。お三千は足こそ悪いが、ああ見えて頑丈(がんじょう)でやすから。
>源:そうは言ってもだな。
>熊:親方、頼(たの)むから今日だけは五六蔵をいさせてくださいよ。幾らなんでも1人じゃきつ過ぎます。おいらを殺す気ですか?
>源:お前ぇのきつさなんか、赤ん坊を産むのと比べたら屁(へ)みてえなもんだ。泣き言ばっかり言ってるんじぇねえ。
>熊:そりゃあ、お三っちゃんとかおよねちゃんとかと比べられちまったらなんにも言えませんけど。ですがね、今日は親方も友さんもいなくなっちまうんでしょう? 今日だけは頼みますよ。
>源:いつ産まれるかなんてのは巡り合わせだからな。こればっかりは仕方ねえ。・・・五六蔵、お前ぇ、やっぱり長屋に帰ってろ。その方が良い。
>五六:そうは言っても「はいそうですか」って帰れるような状況じゃありませんぜ、こいつは。
>源:駄目だ。これは命令だ。お前ぇは帰れ。それから、序(つい)でで済まねえんだが、四郎んとこに顔を出して、様子を見てきちゃ呉れねえか?
>五六:へい。分かりやした。・・・熊兄い、済いやせんが、そういうことですんで。
>熊:親方が決めたことなんだからな、仕方がねえな。ちゃんと付いててやれよ。
>五六:四郎のところが無事に済んでるようなら、昼過ぎまでに来られねえかどうか聞いておきやすよ。

五六蔵は表情とは裏腹に、疾風(はやて)のようにすっ飛んで帰っていった。
熊五郎は、半(なか)ば投げ遣りで、もうどうとでもなれと腹を決めた。

>熊:そうとなりゃ、朝の内にばりばりやりますからね。親方、しっかり働いてくださいよ。
>源:お前ぇが指図(さしず)するなってんだ。さて、出掛けるとするか。

そんなところに、四郎が眠そうに目を擦(こす)りながら現れた。

>四:おはよう御座います、親方。
>源:無事産まれたのか?
>四:はい。男です。今朝方まで掛かっちゃいましたが、元気みたいです。
>源:およねちゃんも元気か?
>四:大丈夫なようです。流石(さすが)に疲れてるみたいですが、稚児(ややこ)の顔を見たら疲れなんか吹っ飛んじまったって言ってました。
>源:そうかい。そりゃあ良かったな。早速(さっそく)親父に言って名前を付けて貰わなきゃならねえな。・・・ちょっと話してくる。
>四:宜(よろ)しくお伝えください。
>熊:・・・なあ四郎、お前ぇ、もしかして寝てねえんだろ?
>四:い、いえ、1時(とき)ばかり寝ました。大丈夫です。
>熊:そんなんじゃ寝た内に入らねえじゃねえか。今日も休んだ方が良いんじゃねえか?
>四:とんでもない。2日続けて休んだりしたら、およねにどやされます。「これからは3人分稼(かせ)がにゃなんねんだど」なんて言ってますんで。
>熊:五六蔵がいねえだけじゃなくって、昼からは親方と友さんまで出掛けちまうってんだ。寝不足のお前ぇじゃ持たねえぞ。
>四:その話はそこで兄貴から聞きました。だからこそ仕事をしなきゃならないんじゃありませんか。
>熊:2人っきりなんだぜ。相当きついぞ。
>四:でも、熊兄いが1人で働いてるのにぐうすか寝てなんかいられません。今夜十分に寝れば元に戻りますから。
>熊:そうか。そう言って貰えると、正直(しょうじき)有り難えよ。・・・決して逞(たくま)しくもねえ四郎が、今日は頼もしく見えるぜ。
>友:父親になると、そういうところもどこか変わるんでしょうね。羨(うらや)ましいですよ。
>四:へ? ・・・熊兄い、友さん、どうしちまったんですか?
>熊:まあ、その話は昼飯のときにでも聞かしてやるよ。

四郎の倅(せがれ)のために、源蔵が付けて呉れた名前は「元吉(げんきち)」だった。

>熊:元気そうな好い名前じゃねえか、なあ四郎。
>四:ええ。とっても好いと思います。
>熊:「元気」から取りなすったんですか、棟梁は?
>源:それがな、言い難(にく)いんだがな・・・
>四:なんだったんですか?
>源:うちの倅が「慶二」だろ? そんで、慶長小判の慶だっていうから、次は元禄小判の「元」だろうだってよ。まったく、好い加減なことを考えやがる。
>熊:それって本当のことなんでやすか?
>源:どうやら本当らしい。
>友:そうすると、その次は宝永(ほうえい)の「宝」で、その次が享保(きょうほ)の「享」だってことですか?
>四:流石に詳しいですね、友さんは。
>熊:感心してる場合か? そんなもんで名前を決められちまっても良いのか?
>四:ええ、良いですよ。元吉って、好い名前だと思いませんか?
>熊:理由を聞かなきゃな。
>源:俺もそう思うぜ。およねちゃんには「元気」の元だって説明してやれ。

>四:実のところ、訳なんてどうだって良いんです。棟梁が付けてくだすったってだけで十分なんです。おいらのような百姓上がりに仕事を教えて呉れて、生まれた倅に名前まで付けて呉れる。・・・勿体無いことです。
>源:朝っぱらからそんなに神妙になんかなるな。
>四:ですが、ずぶの素人(しろうと)のおいらたちを、ここまで鍛(きた)えていただいたことは間違いないことですから。
>源:何も俺や親父だけが面倒を見た訳じゃねえんだぞ。お前ぇら3人が頑張ったお陰でもある。
>四:おいら、親父から、百姓の倅は百姓になるしかないって言われ続けていました。餓鬼(がき)だったおいらは、勝手に決め付けないで呉れって逆らってばかりいましたが、今は違う意味だったんじゃないかって気が付きました。
>熊:どういうことなんだ?
>四:分を弁(わきま)えろってことだったんです、きっと。「俺の子供なんだから、人の上に立つようなもんになれる訳はねえ。せめて人様に迷惑を掛けないようなもんになれ。」 ・・・そういうことです。
>熊:ふうん。そういうもんかね。
>四:だから、おいらは弟子を持つほどにはなれないけど、ちゃんとした仕事ができる大工になりたいと思うんです。そして、元吉にも、そんなことを教えるつもりです。元気なのだけが取り柄だなんて言われて暮らすのって、一番合ってるのかも知れません。
>熊:なあ、それって、八みたいになれってことだぞ。
>四:へ? あ、いや、八兄いまで能天気だと流石に参っちゃいますが・・・

身の程を弁えるか・・・) 友助はそれとなく、四郎の言葉を反芻(はんすう)していた。
果たして、自分は大工を続けていけるのであろうか。生まれ付いての商人(あきんど)は、大工にはなり切れないのであろうか。

>源:どうかしたのか、友助。
>友:え? いえ、ちょっと考えさせられてしまいまして。
>源:何をだ?
>友:蛙の子は蛙と言いますが、商人の子として生まれた私が大工になろうなどというのは、分を超えているということなのでしょうか?
>源:そうでもねえさ。大工が商人になるのは大変だが、その逆だったらできないこともあるめえよ。
>友:こっちができなくて、あっちならできるなんてことあるんですか?
>源:場合に拠(よ)っちゃな。
>友:でも・・・
>源:お前ぇさんにはな、材木の仕入れとか家主さんとの手当ての話とか、そういうことをやって貰おうかと思うんだが、どうだい?
>熊:昼過ぎに角蔵さんとこに行くってったのは、そういう事情なんですかい?
>源:そうだ。・・・なあ友助、四十(しじゅう)を過ぎた男がいつまでも見習いなんかしてられねえだろう?
>友:だって、それって親方がやってたことじゃないんですか?
>源:俺より巧(うま)くできるんならそれに越したことはあるめえ? 1人1人の手当ても良くなるだろうしよ。
>熊:ほんとですかい? そんなに巧く運びますかい?
>源:そりゃあ大丈夫だろう。何しろ、友助は生まれ付きお頭(つむ)の出来が良いんだからな。俺たちとは材料が違うんだからよ。・・・任せたからな。
>友:そんなこと言われましても、材木なんか扱ったこともないんですよ。それに、折衝(せっしょう)ごとなど私には・・・
>源:生まれたばかりの元吉や間もなく生まれてくる五六蔵の稚児やらを、干上がらせる訳にゃいかねえだろ? やるしかねえんだ。
>友:はあ。そういうことなら頑張ってみますが・・・。でも、1つだけ確認させてください。今までみたいに皆さんと一緒に現場仕事をするのも、やらせて貰って良いんですよね?
>源:ああ。勿論だ。

友助はにっこりと頷(うなず)いた。
五里霧中だった自分の将来に、日が射し始めたのだ。

>熊:ときに親方。これまで親方がやってた仕事を友さんに譲(ゆず)っちまった後は、一体何をするってんです? 真逆(まさか)隠居するとか言わないですよね?
>源:隠居か。それも悪くないかも知れねえな。
>熊:じょ、冗談でしょう?
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