178.【け】 『怪我(けが)の功名(こうみょう)』 (2003/04/28)
『怪我の功名』
当初は過失や災難と思われたことが、思い掛けなく好結果を齎(もたら)すこと。また、なにげなくしたことが、偶然にも好結果となること。
類:●過ちの功名●怪我勝ち●怪我の頓作(とんさく)●捻じれた薪も真っ直ぐな焔を立てる
★「功名」は、古くは「高名」<国語大辞典(小学館)>
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熊五郎と八兵衛を出迎えた市毛大路郎は、ほとほと困り果てたという風情(ふぜい)である。

>大:そもそも幼名(ようめい)などというものは、元服までの名で、それほど重要なものではないというのにな。
>熊:幼名にしてはご立派過ぎやすねえ、軍師の渾名(あだな)なんて。
>大:ほう、熊五郎殿は「三国志」をご存知か?
>熊:知ってるって程のもんじゃありませんが、「三顧の礼」とかくらいなら、聞いたことがありやす。
>大:ほう。それは大したものです。拙者の目に狂いはなかったようですな。
>八:なんだいその「散歩の幽霊」ってのは?
>熊:お前ぇに説明したって始まらねえよ。
>八:なんだよ、冷てえな。おいらにも教えろよ。
>熊:「三顧の礼」ってのはだな、劉備玄徳が諸葛孔明を軍師に迎えたがって、3回も頭を下げに行ったってことだ。
>八:なんだいその「竜の元服」ってのは? ・・・あ、分かったぞ。それが「寝てる竜」ってやつだな?
>大:ははは。面白い人だな、八兵衛殿は。
>熊:済いやせん。こんな盆暗(ぼんくら)を連れてきちまいやして。
>大:いや、八兵衛殿には八兵衛殿の取り柄というものがありますから。
>八:そうでやしょうとも。・・・で、おいらは、内房のご隠居でも呼びに行けば良いんでやすかい?
>大:まあ、そこまで大事にならずに済めば、それに越したことはないのだが・・・

>熊:竜之介さんはどんな様子なんでやすか?
>大:弟子たちに八つ当たりしておる。怪我人が続出して、もう、見るに堪えないといった状態ですよ。
>熊:そりゃあ大変だ。早く止めなきゃいけないじゃないですか。
>大:なあに、怪我といっても精々打ち身が良いところ。まあ、そのくらい真剣にやった方が、弟子たちのためには良いのかも知れぬよ。案外、良い稽古になっているようだし。
>熊:そんな悠長な。
>八:へえ、思ってもみねえご利益(りやく)があったってことでやすね? ・・・どれ、どんな具合いになってるのかな? ちょいと見さして貰っても構わねえですかい?
>大:
とばっちりを食わぬように気を付けてくださいねえ。手当たり次第っていう感じですから。
>八:平ちゃらですって。あの人は、おいらにだけは一目置いてなさいやすからね。
>熊:どうだか。

成る程、道場の至るところに怪我人が転がっている。
知らない人が見たら、道場破りの後の惨状かと勘違いするほどである。
対抗できる者がもういなくなったのか、竜之介は、正面の額縁の下にどっかと腰を下ろして、1人1人を睨め回していた。

>八:竜之介さん、稽古はもう終わったんですかい?
>竜:まだ足りぬわ。どうだ、八兵衛殿も手合わせせぬか?
>八:おいら一介の大工ですぜ。木刀なんか持ったこともねえんです。相手なんかできる道理がありませんや。
>竜:そうか。では、義父(おやじ)殿はいかがかな?
>大:私はもう隠居じゃ。それに、お主から1本たりとも取れた例(ためし)がない。
>竜:ふむ。それは残念。・・・仕方ない、「臥竜」の顔でも見て参るとするか。
>八:おや? もう名前を決めちまったんでやすかい?
>大:そんな訳はなかろう。それぞれが勝手に呼ばわっているだけのことだ。
>熊:それぞれって? 聡(さと)さんはなんだって呼んでなさるんですかい?
>大:「菖蒲丸(あやめまる)」だそうだ。
>竜:そのような女々しい名を、この銚子竜之介の後継ぎに付けられるものか。
>大:幼名など一時(いっとき)のものであろうと説得しておるのだが、耳を貸そうとせんのだ。
>竜:それを言うなら、聡とて同じこと。こちらの意向など聞く耳持たぬと言わんばかりだ。そもそも「臥竜」という名のどこがいけないというのだ?
>八:いけなかねえですが、なんだか、難し過ぎるような気がしちまいますねえ。
>竜:それこそ一時の幼名なれば、難しかろうがなんだろうが構わぬではないか。

>熊:そうは仰いやすが、近所の人たちが聞いたらなんと思いやすかねえ。
>竜:どういうことだ、熊五郎殿?
>熊:「臥」は、伏せると同じで、病気になって寝ているって意味にも受け取れるでしょう? 病弱に育ちそうで、ちょいとばかし不安になりやしませんかねえ。
>大:確かにな。熊五郎殿の言(げん)にも一理あるな。
>竜:うむ。それは困る。元服して「飛竜」になるまでは元気でいて貰わぬとな。
>八:後の名前まで決まってるんでやすかい?
>竜:決まっておろう。時至れば、竜は大空に昇るものと相場は決まっておる。
>熊:難癖を付ける訳じゃありやせんが、銚子飛竜だと、略して「張飛」になっちまいますぜ。孔明が張飛になるのは可笑(おか)しいんじゃありやせんか?
>竜:それこそ難癖である。・・・しかし、そう言われてみると、上の者が下の者になるようで、心地好いものではないな。
>熊:あ、いや、こんなのは高(たか)が大工の戯言(たわごと)でやすから、お忘れくださいやし。
>竜:うーむ。これはもう1度考え直さねばならぬかな? ・・・義父どのはどうお考えになる?
>大:私は「諸葛亮」も「張飛」も同等に好きであるから、文句は言わぬ。唯、聡が承服するかどうかは、話が別だ。実の母親の意も汲(く)んでやらねばな。
>竜:うむむ。厄介(やっかい)なことになってきたな。

竜之介の憤(いきどお)りも、すっかり治(おさ)まってしまった。
「いっそのこと3人産んで、劉備・関羽・張飛とでも付けるか」、「或いは、曹操・劉備・孫権の方が良いのかな」などと、ぶつぶつ呟(つぶや)き始めていた。

>八:なあ、熊よ。「張飛」ってのはなんなんだ? 酒を入れるやつか?
>熊:「し」じゃなくって「ひ」だよ。
>八:こちとら江戸っ子だぞ。自慢じゃねえが、「し」と「ひ」の違いなんか分かって堪るかってんだ。
>熊:勝手なことを言ってるなってんだ。竜之介さんが聞いてたら、また悩んじまうじゃねえか。

その遣り取りも、竜之介はしっかり聞いており、益々頭を抱えてしまっていた。

>竜:・・・む。決めたぞ。
>八:おっと、魂消るじゃありやせんか。急にでかい声なんか出さねえでくださいよ。
>大:して? 何をどう決めたのだ?
>竜:長子が元服するまで待つ。それまでの名前は聡と義父殿、義母(はは)上殿に任せる。元服の段になって、男子が3人ならば、劉備・関羽・張飛の3将に縁(ゆかり)のありそうな名をそれぞれ付けさせていただく。4人なら、そこに孔明も含める。・・・うむ。我ながら明快な結論である。これならば聡も文句は言うまい。
>大:良くぞ申された。これでこの件は落着だな。
>熊:先延ばしにしただけのような気もしやすが。
>大:良いではないか。時が経つうちに婿殿も柔軟な気性に変わるやも知れぬ。然(さ)すれば、話し合いで解決もしよう。
>八:でもよ熊、おいら思うんだけどよ、男の子が2人とか5人とかになったらどうするんだろうな?
>熊:こら、八。余計なことを言うんじゃねえ。
>竜:うーん。2人のときは・・・
>熊:見ろ。また考え込んじまったじゃねえかよ。
>八:へへ。おいらってば、結構細かいとこまで気が回っちまうもんだからよ。頭の回りが良いってのも罪なもんだよな。
>熊:気を回すよりも気を遣えってんだ。

竜之介は頭を悩ませ続けているようだったが、当面の問題は解決したようだった。
どうやら、内房正道という奥の手を使わずに済みそうである。

と思いきや、である。
それまで黙っていた義母の純(じゅん)が、竜之介に食って掛かったのである。

>純:これまでは幼名ということで黙って聞いておりましたが、元服後の名前まで話が進んでいるとあらば、口を挟まずにはおられません。
>大:なんだ唐突に。お前が肩肘張る場面ではなかろう。
>純:いいえ、言わせていただきます。代々、我が水野家の男子は、その名に必ず「忠」か「義」の文字を使うことと、定められてきております。わたくしもそれに倣(なら)うべきであると、言わせていただかなければなりませぬ。
>大:純、お前は今では市毛の家の者であろう? 水野家は確かに名家である。だが、その仕来(しきた)りは家の中のこと。この市毛家には及ばぬものであろう。
>純:いいえ。わたくしも水野の本家の長女。仕来りに従うのが当然のことと思います。
>竜:待たれよ、義母上殿。市毛の家ならまだしも、この子は銚子の家の子である。当家にそのような決まりがない以上、名は我(われ)の勝手にさせていただきとう御座る。
>純:なりませぬ。上総の田舎武士の家などに、わが水野家の孫の名を勝手にさせる訳にはゆきませぬ。
>聡:母上、それじゃああんまり横暴が過ぎるわよ。それに、竜之介様の家を貶(けな)すなんて、この子を貶すも一緒じゃない。
>純:お黙りなさい。あなたも水野の血を引くのですから、甘んじて仕来りに従いなさい。
>聡:そんなの無理よ。

>八:おい熊よ、なんだか雲行きが怪しくなってきたぜ。こりゃあいよいよご隠居を呼ばなきゃいけねえかな?
>熊:そうさな。このまんまじゃ親子関係まで可笑しくなっちまう。
>八:水野さんって家はそんなに立派なとこなのか?
>熊:そんなのおいらに聞くな。ご隠居さんならどういう事情なのか知っていなさるかも知れねえがな。
>八:そうだな。やっぱり来て貰おうか。・・・いや、待てよ。頼みごとをするんだったら、こっちから行かなきゃならねえかな?
>熊:そりゃあ、筋から言ったらそうなるだろうな。
>八:ようし。そうと決まれば、早速(さっそく)準備をして貰おうぜ。さ、とっとと出掛けようぜ。
>熊:なんだ、お前ぇ? いやに浮き浮きしてるじゃねえか。
>八:決まってんじゃねえか。・・・ここのお八(や)つが悪いとは言わねえが、なんてったって旅籠(はたご)のお八つに敵(かな)う訳がねえじゃねえか。それによ、話が拗(こじ)れれば拗れるほど夕飯の刻限が近くなってくるって寸法よ。
>熊:またそれかよ。
>八:最初はどうなることかと思ったけどよ。こう考えてみると、どんどん揉(も)めて呉れって気になってくるよな。
>熊:こっちのみんなにとっちゃ、大事なんだぞ。もう少し親身になってやれってんだ。
>八:おいら、筍(たけのこ)御飯が良いな。・・・うっひょう、こりゃあ楽しみだ。
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