148.【き】 『九死(きゅうし)に一生(いっしょう)を得(え)る』 (2002/09/30)
『九死に一生を得る』
殆ど死ぬかと思われたような危険な状態を脱して、辛うじて命が助かる。奇跡的に生き伸びる。
類:●九死を出でて一生を得る[=保つ]
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お杉と蔵助はそれぞれ神妙(しんみょう)な面持(おもも)ちで帰っていった。
お咲と太助が、念のため送り役になった。
お咲はもっと「謀略」に混ざっていたかったようだが、源五郎から「今日のところは帰った方が良い」と言われて大人し引き下がった。

>八:ねえ親方、あの2人満更でもねえでしょう? 巧(うま)く行ったらおいらの手柄ですよね?
>源:あの2人ってのは駄目だな。
>八:どうしてですか? 油と行灯(あんどん)ですぜ?
>源:蔵助にはこれからしなきゃならねえことがたくさんあり過ぎるから、暫(しばら)く女房どころじゃねえだろう。それに、お杉ちゃんにとっちゃ、蔵助は弟の影だ。夫婦(めおと)にはなり難(にく)いな。
>八:それじゃあ、おいらの苦労は水の泡ですかい?
>熊:お前ぇが何を苦労したってんだ。全部太助の骨折りじゃねえか。
>源:それと、お咲ちゃんのな。
>八:お咲坊にも負けですかい? そりゃあ辛(から)過ぎやしませんか?
>源:甘かろうが辛かろうが、御破算なのには変わりはあるめえ? また明日以降だな。さて、俺は帰るぜ。
>八:へ? もう帰っちゃうんですか? まだ宵の口ですぜ。
>源:安心しろ。どうせ太助が戻ってくるんだろう? おからを食い尽くしても良いくらいのお足は置いてってやる。
>八:やりいっ。それなら文句はねえです。
>源:まったく、現金な野郎だぜ。仕事に差し支(つか)えるほどはやるなよ。
>八:分っかりました、親方ぁ。

源五郎が帰って、殆(ほとん)ど入れ違いのようにして太助が戻ってきた。

>太:蔵助どんのところまで2回も往復しちまったんで、腹が減っちゃいました。何か食べても良いですか?
>三:凄(すげ)え。おいらもちょいと肖(あやか)りてえ。
>五六:お前ぇは無理だ。先祖代々そういう身体(からだ)になっちまってるんだからな。ほれよ、味噌でも舐(な)めてろ。
>三:へーい。
>八:なあ太助、次の目当てはもういねえのか?
>太:いくらおいらが、読売りをやっててあちこち回ってるからって、そうそうどんぴしゃりな男は転(ころ)がっちゃいませんよ。
>八:そうか。困っちまったな。
>熊:まあ、本人もそう慌(あわ)ててる訳じゃねえんだから、のんびりといこうや、な?
>八:それじゃあ駄目なんだよ。ほれ、「鉄は赤いうちに打て
」って言うじゃねえか。
>熊:おや、お前にしちゃあ立派なことを言うじゃねえか。
>八:当たり前ぇだ。早いとこお杉坊のことを片付けねえと、次に行けねえじゃねえか。
>五六:八兄いは、なんだってそんなに急いでなさるんでやすか? 女の一人くらい嫁(とつ)ごうが嫁ぐまいが良いじゃねえですか、真逆(まさか)生きる死ぬじゃぁあるまいし。
>八:おいらにとっちゃな、生きる死ぬくらい大変なことなの。お杉坊の祝言(しゅうげん)に命を賭けてるんだからな。
>熊:それはいくらなんでも言い過ぎだっての。

>八:おいらはな、「縁結びの八兵衛」になるのさ。世のため人の為に生きるのよ。どうだ五六蔵、参ったか?
>五六:ほんとですかい? こりゃあ、お見逸(みそ)れしやした。
>熊:何を言ってやがるんだか。・・・五六蔵よ、騙(だま)されちゃ駄目だぞ。こいつはな、「縁結びの八兵衛」って呼ばれるようになれば、そのご利益(りやく)で、自分にも縁が巡(めぐ)ってくるに違いねえって思うからこそ、躍起(やっき)になってやがるのよ。
>五六:そういうことでやしたか。なんの見返りもなく八兄いが働くなんて、有り得ねえことでやすからね。
>八:なんだと? それのどこが悪いってんだ。
>五六:おっ、開き直りやしたね?
>八:開き直ってどこが悪いってんだ。おいらだって思うところがあってのことなんだぞ。お前ぇたちも、大事な兄貴分のために、もうちっと親身になろうって思わねえのか?
>五六:あいや、そう言われちまいやすと・・・
>熊:まあ、目論見(もくろみ)はどうあれ、お杉坊には幸せになって貰いてえからな、精々(せいぜい)力になってやるべえかねえ。

とは言ったものの、思わしい目当てなどそうそう簡単に見付かるものではない。
あれなんかどうだこれは駄目かと検討を繰り返している内に、暦(こよみ)は長月(=現在の10月の中旬)になってしまった。朝晩が涼しくなり、堪(こら)え性(しょう)のない者は、そろそろ火の気(け)を持ち出したくなるような季節である。
選(よ)りにも選って、あの、朝寝朝湯好きの奈良屋の寝所(しんじょ)で、小火(ぼや)騒ぎが起きた。

早朝の七つ(4時頃)過ぎである。住み込みの女中どもはそんなこととはつゆ知らず、まだ高鼾(いびき)を掻いていた。
放って置いたら大惨事になっていたかも知れない。
だが、いたのである。偶然に見回りをしていた町火消しで、その名を丈二(じょうじ)という。

>丈:火元はどこでえ。おいお前ぇら、寝惚(ねぼ)けてねえで、水を汲(く)んできやがれ。
>女中:あの、これは一体・・・
>丈:煙が上がってんだよ。奥の方だ。
>女中:ええっ。た、大変。旦那様ぁ・・・
>丈:旦那はどこだ。ぼやぼやしてると焼け死ぬぞ。

奈良屋主人の庄助は、危ういところで助け出された。
掛け布団の綿に火が点(つ)いたというのに、奇跡的にも、庄助自身は足先をちょっと火傷(やけど)しただけで済んだ。
襖(ふすま)と欄間(らんま)、鴨居(かもい)は見るも無残に焼け落ちていたというのにである。

>庄:あちちちち。なんだってこんなことになったんで御座いましょう?
>丈:こっちが聞きてえよ。油問屋が火事になったらどんなことになるか、分かってんだろう?
>庄:ええそりゃあ良く燃えるでしょうねえ。正(まさ)に「火に油を注ぐ」ですからねえ。はっはは。
>丈:笑い事じゃねえぜ。四半時(=約30分)遅れてたら、この界隈(かいわい)が焼け野原になってたとこだ。頼むぜ。
>庄:はあ。・・・で、あなたは?
>丈:町火消しの丈二ってもんだ。あとで、頭(かしら)と一緒に改めに来るからよ。頭は口煩(うるせ)えお人だから、こってりと搾(しぼ)られるからな、覚悟しとけよ。じゃあな。

女中たちからの報(しら)せは、お杉のところにも来た。
長屋の井戸端でぴーちくとやられては、住人も起きてしまう。
半歩遅れて八兵衛が起き出した頃は、お杉が慌てて辻を曲がっていくところだった。

>八:おい、定吉、何事だ?
>定:あ、八つぁん、お早う御座います。
>八:のんびりと挨拶(あいさつ)してる状況じゃねえような騒ぎだったけどな。
>定:はあ。奈良屋さんから火が出たそうでして・・・
>八:火か? 日が昇ったじゃなくって、火が出たんだな? こりゃあ見に行かなねえと。「火事と喧嘩は江戸の華」だもんな。
>熊:待ちやがれ。こっちの仕事はどうなるんだよ。
>八:ちょいとだけ遅れるって、親方に言っといて呉れ。頼んだぜ。
>熊:まったく、朝飯食わなきゃ動けねえって、いつもの言いようはどうしたってんだよ、なあ?
>定:火は小火のうちに消されたそうです。旦那さんの火傷も大したことないそうです。・・・それにしても、油屋で火の気ってのは恐いですよね。
>熊:まったくだ。

お杉や文吉が着いたときには、女中たちの動揺も完全に収(おさ)まっていた。
「あの町火消しの人、格好(かっこ)良かったわよね」「独り身かしらね」などと、囀(さえず)っていた。

>杉:ねえ、旦那様は? 大丈夫なの?
>女中:大丈夫も何も、足の小指をちょこっと火傷しただけよ。大騒ぎすることないわよ。・・・それに、火消し頭に会うのが面倒だって、もう、いつもの朝寝に行っちゃったんだからね。
>杉:そう。大したことなくって良かったわ。
>女中:そんなことよりさ、火を消し止めて呉れた人がね、そりゃあきびきびして良い男なのよ。
>杉:へえ、そう・・・
>女中:何よ、あんた興味ないの?
>杉:全然。それで、被害の状況は?
>女中:呆(あき)れたわね。あんた、そんなだからいつまで経(た)っても、嫁の貰い手がないのよ。この朴念仁
>杉:なにその朴念仁って?
>女中:あんたのことよ。・・・あーあ馬鹿らしい。分かったわよ、あの町火消しの男は、あんたに譲(ゆず)るわ。精々色目を使ってやるんだね。
>杉:なんのこと?
>女中:蒲魚(かまとと)じゃああるまいし。火消しの名前はね、「丈二」って言ってた。あんたの好みにぴったりよ、あたしが太鼓判を捺(お)してあげる。
>杉:なんなのよ、その言い種(ぐさ)は。
>女中:だけどね、1つだけ難点があるとすりゃあね、敵さんが水で、こっちが油ってことよね。水と油は馴染まないって言うもんね、へへっ。
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※ご注意:
時代考証が定かではありません。
「鉄は熱い[=赤い]うちに打て」は、英語のStrike while the iron is hotの訳語のため、この時代に使われていたかどうかは、甚だ疑問です。(上へ戻る