334.【と】 『登竜門(とうりゅうもん・とうりょうもん)』 (2006.05.22)
『登竜門』
立身出世に繋(つな)がる難しい関門。難関。また、運命を決めるような大切な試験。
参考:「竜門」は中国の黄河上流の急流。そこに集まる多くの鯉のうち、もし登るものがあれば竜に化するとの言い伝えがあり、元来は出世の糸口を掴(つか)むの意。
出典:「後漢書−党錮・李膺伝」「士有被其容接者、名為登竜門
参考:点額(てんがく)・鯉の滝登り
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豊島(としま)のお店(たな)というのは、生地(きじ)の絵柄を考える、いわば「絵師」のようなことをしているところだった。
主(あるじ)も、商人(あきんど)というより職人に近く、「一黒屋」と「越前屋」の文(ふみ)を押し頂(いただ)くように受け取ると、じっくりと内容を読んで、一言「ようがす」と答えた。

>八:へ? 良いんですかい?
>主:ようがすとも。元々、家(うち)には過ぎた話なんじゃないかと思っていたんです。
>八:だって、奉行所からのお達しなんじゃねえんですか?
>主:それはそうでしょうが、「できるだけ値の張らぬように」なんて言われちゃ、こっちだってやる気が失せるってもんでしょう?
>八:そんなこと言われちまったんですかい?
>主:そうですとも。それに、話を持って来たのは下っ端(ぱ)も下っ端。いけ好かねえ威張った野郎でしょう? ちっともやる気が起きなかったとこですよ。
>八:するってえと?
>主:渡りに船ってやつですよ。そういうことは、「越前屋」さんに任(まか)しといた方が良いに決まってるんです。
>八:そうですか。そんじゃ、そういう風に話しちまって良いんですね?
>主:それには及びませんよ。・・・ほれ、この文にも書いてありまさ。「承知して貰えるようなら、別の話があるので、訪(たず)ねて来られたし」ってね。こっちの方が、よっぽど儲(もう)けの出る仕事ですよ。
>八:そうなんですか。そんなら、おいらの手間も省(はぶ)けるってもんです。
>主:そりゃあ良かったですな。

4軒のうち2軒を難なく済ませることができた。
三吉はここでお役御免である。
この調子なら暮れ6つ(=18時ころ)までには片付けられるなと高を括(くく)った八兵衛も、反物(たんもの)を三吉に預けて神田方向へ歩き出した。

神田のお店は、竜(りゅう)の組み紐(ひも)を預かったところである。
出来上がった被布(ひふ)に飾り紐を縫(ぬ)い付けるだけの詰まらない仕事である。
この店の主も、「越前屋」からの申し入れを読んで、一も二もなく応じた。

(うっしっし。この調子なら最後の1つもちょちょいのちょいだな。さっさと帰って、「だるま」にでも繰り出すとしますかね。)

などと安易に考えていた八兵衛だったが、最後の1つが問題だった。

>八:こんちはー。旦那さんはいるかい?
>丁稚:どちら様で御座いますか?
>八:八兵衛ってぇ大工なんだがよ。「越後屋」さんと「一黒屋」さんから文を預かってきたんだ。
>丁稚:そうで御座いますか。・・・生憎(あいにく)なのですが、主は出掛けておりまして、5つ(=20時ころ)にならないと戻って参りません。
>八:なんだと? 5つだ?
>丁稚:一先(ひとま)ず、番頭が居りますので、呼んで参ります。お待ちください。
>八:5つまでなんか待てるかってんだ。番頭に押し付けて帰っちまおう。・・・そうだ、それが良い。

程なく、丁稚が番頭を連れて戻ってきた。

>番頭:あなたがお使いの方ですか?
>八:そうですよ。ほれ、この通り、文が2つ。どうです?
>番頭:ふむ。真偽はどうあれ、それらしいものではありますね。
>八:そんじゃ、おいらの役目はそれを渡すことですから、この辺でお暇(いとま)しますよ。
>番頭:お待ちなさい。
>八:なんですかい? 届けたから良いでしょう?
>番頭:預かっただけで帰してしまっては、あたしが旦那様に叱(しか)られてしまいます。どこのどなたで、どういう素性(すじょう)の使いが来て、どういうことに纏(まつ)わる文なのか、どういう返事をすべきかなどなどを伝えなければなりません。
>八:そんな細かいことをここで話さなきゃならねえんですか? 日が暮れちまいますぜ。
>番頭:構いません。
>八:おいらが構うのさ。今から帰れば縄暖簾(なわのれん)が丁度始まる頃合いだし・・・
>番頭:私どもの主はとても細かいお人でして、まあ、だからこそ身代(しんだい)をここまで大きくなさったのですが、私どもに少しの落ち度があると給金を削られてしまうのです。
>八:そんなお人なんですかい?
>番頭:戦々恐々です。だから、事情をお話ください。・・・あ、ちょっと待ってください。今、紙と矢立てを持ってきますので。
>八:そんな、大袈裟な。
>番頭:大袈裟なもんですか。
>八:そんなことなら、番頭さんが文を読んじまえば良いじゃないですか。
>番頭:そんなことができますか。気付かれたら暇を出されてしまいます。
>八:そんなに厳しいの?
>番頭:とっても。

どこに住んでいるのかから始まって、親方の名前、妻子の名前、「一黒屋」との馴れ初めやら「越後屋」に関わった経緯(いきさつ)、そして、用件の内容とその対処法に至るまで筆記していくのである。
八兵衛が話したことを、一字一句間違いのないように復唱する念の入れようである。

>八:ねえ。もう良いでしょう? 日が暮れちまいましたよ。
>番頭:もう1つだけお願いします。・・・ええと、寺社奉行所からのお達しの被布に付いて、手前どもで扱うべきなのでしょうか?
>八:そんなこと、おいらに聞かないでくださいよ。決めるのはあんたと旦那さんでしょう?
>番頭:旦那様は、必ず私の考えをお聞きになります。どう答えればよろしいかと・・・
>八:さっきから見てたんですか、こちらさんが商(あきな)ってるのは染め物でしょう?
>番頭:そうです。
>八:それじゃあ、良いんじゃないですか? だって、「一黒屋」も「越後屋」も染め物はやらないんでしょ?
>番頭:それぞれには、染めた後のものを納(おさ)めております。
>八:あ、そっか。そんなら今までのまんまで良いんじゃないの? 「ひふ」だか「しふ」だかだからって、変わった染め方でもする訳じゃないんでしょ?
>番頭:はい。
>八: そんなら、それだけじゃねえですか。お達しがどうのといった面倒臭いことなんか忘れちまえば良いの。
>番頭:そういう訳には・・・
>八:どうしてなんで? お役人だって、どれが何のための布(きれ)かなんてとこまで分かりゃしないでしょ?
>番頭:そうでもありましょうが、それよりも何よりも、旦那様が豪(えら)い気合の入れようでして。「寺社奉行所御用達(ごようたし)」という看板まで掲(かか)げようかと言い出すほどでして。
>八:だから、それはそれで結構なことじゃねえですか。
>番頭:ですが、気付かれちゃいますと、お咎(とが)めが・・・
>八:そんなもん、誰も気付きゃしませんって。
>番頭:請け合っていただけますか?
>八:おいらなんかの請け合いで良いんでしたら、幾らでも良いですぜ。太鼓判でもなんでも捺(お)しますよ。

>番頭:本当ですか? それでは、主が戻るまでお付き合い願えますか?
>八:そんなに待てねえよ。
>番頭:そんな殺生(せっしょう)な。
>八:そう言われたって、おいらにはおいらの用ってもんがあってですね。
>番頭:そこを枉(ま)げてなんとか。私の首が飛ぶかどうかの瀬戸際なんですから。私にとっては、一世一代の賭(か)けなんです。
>八:真逆(まさか)。
>番頭:あなたは家の旦那様のお人柄を分かってないからそんなことが言えるのです。
>八:知ってたってそう言うぞ、きっと。
>番頭:そんな薄情(はくじょう)なことを言う人だとは思いませんでしたよ。
>八:おいらとあんたは、今日会ったばっかりじゃねえですか。
>番頭:後生(ごしょう)ですからお願いします。・・・どうせ、あと半時(=約1時間)のことじゃありませんか。
>八:なんだと? もうそんな刻限かよ。・・・とほほ。道理で腹が減る筈だ。
>番頭:私の分で良ければ、御飯をお出ししますから。
>八:ほんとかい?
>番頭:どうぞどうぞ。目刺しと糠漬(ぬかづ)けですが。
>八:なんだと? 大店の番頭の飯が目刺しに糠漬け? どうなんってんだい、ここは?


結局八兵衛は、番頭に拝(おが)み倒されて、一緒に旦那を待つことになった。
出された米の飯は、小さめの茶碗にこそっと装(よそ)われただけだった。
つづく)−−−≪HOME