第40章「未定(仮題)」

329.【と】 『灯台(とうだい)下(もと)暗(くら)し』
(2006.04.17)

『灯台下暗し』[=燈台〜]
「灯台」は、昔の室内照明具のこと。灯台のすぐ下は却(かえ)って光が届かず暗いことから、身近な事情に疎(うと)いこと。身近な事は、案外分かり難(にく)いものであるという喩え。
類:●近くて見えぬは睫秘事は睫の如し遠きを知りて近きを知らず傍目八目
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八兵衛の娘は「お芳(よし)」と名付けられた。早いもので、程なく1月(ひとつき)になろうとしている。
例年より十日近くも早く咲いた桜は、旋風(つむじかぜ)と花散らしの雨のせいで、あっという間に散ってしまった。
ほんの少しの花冷えの日はあったものの、押し並(な)べて穏やかな毎日が続いている。

「だるま」で働くようになったお須美とおみなは、元々客あしらいが上手(うま)く、それぞれに馴染みの常連を抱えるようになりつつある。
今宵は、お須美の出番である。

>須:親爺(おやじ)さーん、お銚子2ほーん。
>亭主:あいよ。・・・あ、そうだ。破落戸(ごろつき)の五六蔵んとこに蕗(ふき)でも出してやんな。
>須:え? だって、蕗なんか頼まれてませんよ。
>亭主:良いんだよ。八の野郎が来ねえもんだから、いっつも余っちまう。ちっと古いが、あいつらだったら大丈夫だろう。
>須:古くなんかないですよ。昨日作ったばっかりじゃありませんか。
>亭主:良いってことさ。どうせ余るんだからよ。・・・まったく、稚児(やや)が生まれたからって、ぱったりと来なくなっちまうってのはどういう了見(りょうけん)だ?
>須:寂しいんですか?
>亭主:寂しいだと? とんでもねえ。清々(せいせい)してらぁ。
>須:でも、親爺さん、ここんとこ、誰か入ってくるたんびにそっちを見るじゃない。
>亭主:どこのどいつが来たかを確かめるのは、いつものこった。
>須:それに、なんだかちょっといらいらしてるみたいだし。
>亭主:そんなことはねえって。・・・ほらよ、銚子2丁。序(つい)でだ、五六蔵んとこに鰊(にしん)も持ってってやれ。
>須:はーい。・・・それじゃ、八兵衛さんがどうしてるのか聞いてみるわね。
>亭主:余計なことしなくっても良い。黙って置いてくりゃ良いんだ。
>須:はあい。

お須美は、蕗と身欠(みが)き鰊の盛られた器を五六蔵たちの卓へと運んできた。

>三:どうしたんだい、お須美ちゃん? なんだか怒られてたみたいだけど。
>須:そんなんじゃないのよ。・・・親爺さんったら、八兵衛さんが来ないもんだから剥(むく)れちゃってるみたいなの。
>三:そうか、やっぱりそれか。
>五六:それについちゃ、俺たちも妙に思ってるとこなんだよな。2日に上げず来てたってのにな。
>四:どうしちゃったんですかねえ?
>須:お芳ちゃんが可愛くって仕方がないんじゃないの?
>三:きっと、酒の方が可愛いと思ってるって。
>四:確かに、八兄いなら、そう言い兼ねないな。
>五六:あの八兄いがこんなに我慢(がまん)できるとは思えねえんだがなぁ。もう4日になるんじゃねえか?
>須:5日よ。前の前にあたしが来た晩からだもの。
>三:そりゃあ、どう考えても長過ぎるな。
>須:お仕事のときにはそんな話はしないの?
>三:仕事んときは、ちっとも変なとこはないんだけどなあ。
>五六:「くいっと行っときますかい?」って聞くと、「今日はちょいとな・・・」って言うんだよな。

>須:ちゃんと家(うち)に帰ってるんでしょうね?
>三:そりゃそうさ。
>四:言い切れるか?
>三:うーん。そう問い詰められるとな。後を追い掛けてったって訳じゃねえから。
>五六:でも、ここの他に寄るとこなんかねえだろ?
>三:分かりませんよ、兄貴。そういうことにかけちゃ、鼻の利くお人だから。
>五六:違うとこに入り浸(びた)ってるってことか? 考えらんねえな。
>四:かといって、5日ですよ。飲みに行かないって方が考え難(にく)いですよ。
>五六:そうだよなあ。家に酒やら肴(さかな)やらが届けられてるってんなら話は違うんだろうがよ。
>四:誰から?
>三:そりゃあ、「一黒屋(いちこくや)」のご隠居様なんじゃねえのか?
>四:でも、あそこからは豪勢な品が届いてただろ?  そう何回も何回も届かないでしょ?
>五六:普通は届かねえよな。・・・普通ならってことだがよ。

>須:ねえ。一緒の長屋に見習いの兄弟かなんかがいるって言ってなかったっけ?
>五六:万吉と千吉のことか?
>須:なんか知ってるんじゃないの?
>三:それがさ、「真面目(まじめ)に帰っているようですよ」の一点張りなのさ。
>須:・・・そうなの。まあ、おんなじ長屋なら全部分かるってもんでもないもんね。
>四:戸が閉まってたら、中で何をやってるかなんか分からないもんね。
>五六:世知辛い世の中になっちまったもんだな。

八兵衛のことに関しては、熊五郎もお咲も、少しも知らないことだった。
が、実は、万吉と千吉は知っていたのである。
というか、八兵衛から堅(かた)く口止めされていたのである。

>万:ねえ、八の兄さん。いつまでこんなこと続けるんですか?
>千:今日も、三吉さんと四郎さんから問い質(ただ)されちゃいましたよ。
>八:まあ良いじゃねえか。お陰でお前ぇたちも相伴(しょうばん)に与(あず)かれるんだからよ。
>万:でも、「だるま」の方に顔を出さないこ
とは、悪いとは思わないんですか?
>八:別に。・・・あんな不味(まず)いもんばっかり食ってたら、おいらのべろが痩(や)せ細っちまって、終(しま)いにゃなくなっちまわ。
>千:酷(ひど)い言いようですね。
>八:だってよ、こいつと比べりゃ天と地、月と鼈(すっぽん)、ご馳走(ちそう)と猫跨(また)ぎときたもんだ。なあ、竜(りゅう)の字?
>竜:あん? ・・・まあね。
>八:なんだよ。元気ねえじゃねえか。
>竜:だってよ。こう毎晩毎晩酒盛(さかも)りなんかしてて良いのかよ?
>八:良いに決まってるじゃねえか。そうだろ、秀(ひで)の字?
>秀:そりゃまあ、竜の奢(おご)りだからさね。おいらはなんにも口出しできねえってことだぁよ。
>八:それ見ろ。・・・なんてったってよ、あんな組み紐(ひも)10本に5両(=約40万円)だぜ。
>竜:「あんな」ってことはねえだろ? これでも、腕には自信があるんだからよ

>八:そうだったな、お大尽(だいじん)。済まねえ済まねえ。・・・しかしよ、あるとこはあるもんだよな。ぽーんと出しやがるんだもんな。

>竜:・・・それにしてもよ、あんた、どうして寺社(じしゃ)奉行所の与力なんかと知り合いなんだ?
>八:まあまあ、そう責(せ)っ付くなって。話せば長いことなの。明日話してやるよ。
>秀:なんだって? 明日もここで飲むってんですか?
>八:いけねえかい?
>秀:そりゃ、おいらにだって仕事ってもんがあってだね、酔っ払ってばかりいると、なんだ、細かいとこが巧(うま)くできねえのよな。
>八:大した仕事でもやってるのかい?
>秀:近頃じゃ、近所の誼(よしみ)で松吉っつぁんが仕事を回して呉れてるからさ。悪いようにはしたくねえのだよ。
>八:そうか? そりゃそうだよな。・・・
なんだか、おいらばっかり悪いことしてるみてえな気になっちまうな。

すると、秀が膝(ひざ)を進めて語り始めた。
少し酔っているのかも知れないし、そうでないのかも知れない。

>秀:そう言ってる訳じゃねえんだよ。おいらだって美味(うま)いもんは食いたいし、酒だって嫌いじゃないんですわ。駆け出し者を構(かま)うのだって存外(ぞんがい)嫌じゃねえ。でも、こいつらを見てると、のらくら者に見られるのが恥ずかしいのさ。情けねえのよな。分かるかい?
>八:なんだか長ったらしくて良く分からねえが、真面目が一番ってことか?
>秀:そうさよ。あんただって、稚児(やや)が生まれたばっかりだってのに、全部任(まか)せっ切りで、こんなとこに時化(しけ)込んでて良いのかね?
>八:行方(ゆくえ)知れずって訳じゃねえんだから、良いんじゃねえか?
>秀:もうちっと、お花さんのこと大事にしてあげなよ。可哀想だよ。
>八:おいおい、泣くなってんだよ。・・・困った奴だな。泣き上戸(じょうご)かよ。
>秀:そんなんじゃねえですよ。

>竜:・・・なあ、八の兄さん。銭を惜(お)しむ訳じゃねえんだけどよ、もう終いにしようや。なんだか、おいらもちゃんとした仕事をしたくなってきちまった。
>八:なんだなんだ。もうこれっきりなのかよ。おいらまだ筍(たけのこ)の刺身ってのを食ってねえぞ。
>万:兄さん。これ以上続けていたら、唯(ただ)の集(たか)りですよ。
>千:そうですよ。止(よ)しましょうよ。
>八:あーあ。明日っから不味い「だるま」へ逆戻りか。・・・ま、仕方ねえか。
>竜:お陰で、良い勉強になったよ。人ってもんは、自分の足元を見て生きなきゃなんねえってこったよな。言い方を変えりゃ、地に足を着けるってこった。
>八:ちぇ。熊みてえなことを言い出しやがる。そんな言われ方しちまうと、ついつい正しいと思っちまうからいけねえよな。・・・さてと、お前ぇたち、ほんとの「迷惑千万(せんばん)
」になる前に引き上げるぞ。
>万・千:はいっ。
つづく)−−−≪HOME