326.【て】 『天(てん)に唾(つば)する』 (2006.03.13)
『天に唾する』[天に唾して己が面に掛かる・天を仰ぎて唾す]
他人を害しようとして、却(かえ)って自身が災(わざわ)いを招(まね)くことの喩え。
類:●天に唾(つばき)す●天に向かって唾す●風に向かって唾す●自業自得身から出た錆●悪事身に返る
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八兵衛が長屋に帰ってみると、お花はまだうんうん唸(うな)っていた。
昼ごろに様子を見に来た産婆(さんば)は、「夜遅くなりそうだねえ」と言い置いて帰っていったという。

>八:なんだと? 付いてて呉れねえのか?
>八の母:初産(ういざん)だからね。時が掛かるのさ。日が落ちてからまた来るってさ。
>八:なんだよ、折角(せっかく)帰ってきたってのに。そんなんじゃ働いてた方が良かったじゃねえか。
>母:なにも態々(わざわざ)戻ることもないでしょ。傍(そば)についてて話でもしておやり。気も紛(まぎ)れるだろうからね。
>八:そうか? そんならそうするか。・・・どうだ、お花、痛(いて)えのか?
>花:ふう。う、うん。
>八:なあ、おっ母(か)ぁ。あの婆さん、腕は確かなんだろうな?
>母:この辺りじゃ、あの人の評判が一番だよ。・・・あんた、疑(うたぐ)ってるのかい?
>八:そ、そうじゃねえが、なんだか辛(つら)そうじゃねえか。こんなまんまで夜までいろってえのか?
>母:そりゃそうさ。みんなそうやって稚児(やや)を生(な)すんだよ。恐れ入ったかい?
>八:ま、まあな。・・・しかし、なんだな。居(い)た堪(たま)れねえな。
>母:そうでしょ。お産には男は邪魔者だからね。
>八:どうやら、そうみてえだな。・・・おいら、やっぱり外に行ってくるよ。
>母:そうかい? それじゃ、何か精(せい)の付くものでも買ってきてお呉れ。水ばっかりじゃ良いお乳が出ないからね。
>八:序(つい)でに酒も買ってきても良いよな?
>母:良いですとも。・・・但(ただ)し、お前が飲むためのものじゃありませんよ。振る舞い酒です。
>八:おいらも飲んで良いんだろ?
>母:皆さんに十分飲んでいただいてからですよ。
>八:そうすりゃ良いんだな? よし、引き受けたぁ。

八兵衛は、水を得た魚のようにすっ飛んで走っていった。
真っ先に酒屋の方へと足を向けていた。
が、ふと思い立って、
手近なところにあったお稲荷様に寄って、手を合わせた。

そんなところを、お須美のところから帰る途中のお咲に見付かってしまった。

>咲:あら、八つぁん。いつからお稲荷さんなんかを信心(しんじん)するようになったの?
>八:おっ、な、なんだよ、お咲坊か。
>咲:「なんだよ」とはご挨拶(あいさつ)ね。
>八:へへ。ちょいとな、安産でありますようにってな。
>咲:ここは、お稲荷様よ。豊年満作をお祈りするところじゃない。
>八:稚児の出来具合いってことでは一緒じゃねえか。
>咲:どこが一緒なのよ。
>八:この際小さいことに拘(こだわ)るなって。・・・お前ぇこそ、どうしたんだ、こんな時分に?
>咲:ちょっとね。お町ちゃんの次の娘さんを探しにね。
>八:探すってったって、こんなとこに落っこちてる訳でもあるまいに。
>咲:友助さんが当たりを付けて呉れてたのよ。
>八:そんじゃ、もう決まっちまったのか? 三吉の奴、泣いて喜ぶぞ。
>咲:それがね、上手く決まらないのよ。
>八:酌婦(しゃくふ)なんぞは嫌だってのか?
>咲:その逆よ。2人いて、どっちも是(ぜ)が非(ひ)でもお願いしますっていうのよ。

>八:なにを? あんな小汚いとこだぞ。ちゃんと話してあるのか?
>咲:当たり前じゃない。それでも働かせて呉れって頼まれちゃってるの。
>八:どんな娘だい?
>咲:飛脚の娘と虫売りの娘。この辺りにしちゃ変わってるでしょ?
>八:へえ。珍しいな。・・・愛嬌(あいきょう)はどうだい?
>咲:その点においてはどっちも大丈夫
>八:そんなら、両方とも雇(やと)っちまえば良いじゃねえか。どうせあの業突く張りは、たんまり貯(た)め込んでいやがるんだからよ。

>咲:そんなの無理よ。
>八:構うもんか。お咲坊が言えねえってんなら、おいらが言ってやっても良いぞ。
>咲:うーん。・・・やっぱり駄目。値上げするぞって脅(おど)されるのが落ちよ。
>八:そういうことになっちまうのか? そいつは困るな。
>咲:ね? 墓穴を掘るだけでしょう?

お咲は、そのことについて、これからあやと相談しにいくのだと言った。
それなら、どうせ夜まで暇になってしまったのだからと、八兵衛も付いていくことにした。

源五郎は出掛けていたが、あやは慶二(けいじ)の子守りをしていた。

>あや:あら、珍しい取り合わせね。
>咲:へへ。お稲荷様のとこで拾ってきちゃった。
>八:物じゃねえってんだ。
>あや:お稲荷様? また妙なところにいたもんですね。
>八:熊の野郎が、稚児が生まれそうだってんなら帰れってもんだから帰ってみりゃ、産婆から夜中になるって言われたとかで、うんうん唸ってるお花の傍にいるのも居心地が悪いし・・・
>あや:そういうことですか。それじゃあ、いよいよなのね?
>咲:どんな気持ち?
>八:どんなってったって、なんだか妙な感じだってことしか言えねえよ。
>あや:それじゃあ、明日はお祝いをしないといけませんね。
>八:へい。有難う御座いやす。・・・それはそうと、精の付くもんを買ってこいって言われたんですが、どんなのが良いんでしょうか?
>あや:そうねえ。特に何をっていうのはないと思うんですけど。泥鰌(どじょう)なんかなら良いんじゃないかしら。でも、それより、矢鱈(やたら)に喉(のど)が渇(かわ)くから、蜜柑(みかん)でも持って帰ったらどうかしら?
>八:そうですかい。そりゃあ有り難え。与太郎んとこへ行って、少し余計に寄越せっていってくるとしますわ。
>咲:また与太ちゃんに集(たか)る気?
>八:「また」ってことはねえだろう。人聞きの悪い
>咲:あわよくば「一黒屋」のご隠居様にご祝儀(しゅうぎ)を貰おうなんて魂胆(こんたん)でしょう?
>八:そう上手い具合いにいくかよ。・・・でも、ひょっとするとってこともあるから、覗(のぞ)いてくるかな?

>咲:やっぱり。
>あや:ご隠居様にはお世話になってばかりだから、あまりさもしいことはしないでくださいね。
>八:は、はい。
>咲:ほうら、叱(しか)られちゃった。欲張ってばかりいちゃ駄目だってことよ。
>八:参ったねこりゃ。

八兵衛は、心為し肩を落として去っていった。
少しは薬になったかなと、お咲はその後姿を見送った。
つづく)−−−≪HOME