325.【て】 『天(てん)高(たか)く馬(うま)肥(こ)ゆる』 (2006.03.06)
『天高く馬肥ゆる』
秋という季節は、空が澄み渡って高く晴れ、気候が良いので食欲も増進し馬もよく肥える。
★「秋」を修飾する慣用句<国語辞典(旺文社)>
類:●秋高く馬肥ゆ●天高くして気清し
出典:杜甫の祖父の杜審言(としんげん)の詩「蘇味道に贈る」「雲浄妖星落、秋高塞馬肥<雲清くして妖星落ち、秋高くして塞馬肥ゆ>
★昔の中国では、秋は匈奴(きょうど)が作物を狙(ねら)って押し寄せる季節であった。辺境の守備軍は、馬を肥えさせて匈奴対策を始めなければならない季節である。

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「喉(のど)が渇いたでしょう、お茶でも飲んでいきませんか」と内房老人から誘われた。
お咲は、ここまで走ってきたせいで、確かに喉がからからである。
それに、老人がお町の後釜(あとがま)探しのことをどうやって知ったのかに、気を引かれてもいた。

>咲:ご隠居様? 「だるま」の話は誰からお聞きになったんですか?
>内:そういうことは、教えないのが決まりなんですがねえ。
>咲:それは狡(ずる)いわよ。だって、あたしたちのことなんですもの。
>内:そうですね。外(ほか)でもないお咲さんですからね。
>咲:教えて貰えるの?
>内:はい。どうせ名を言ったところで、お咲さんには分からないでしょうからね。
>咲:え? 太助どんの知り合いとか、そんなところじゃないの?
>内:違いますねえ。
>咲:やだ。それってちょっと気持ち悪い。
>内:ほっほっほ。いやいや、間者(かんじゃ)を差し向けているというようなもんじゃないですよ。
>咲:それじゃあ・・・
>内:なんのことはありません。源五郎親方のお内儀(かみ)さんに、時折り、塩煎餅(せんべい)の差し入れをしているだけです。聞いたことがありませんか? 辻村屋という煎餅屋です。
>咲:ああ、いつもあやさんがお茶請(う)けに出して呉れるあれ? ご隠居様からの差し入れだったの?
>内:はい。いつも八つぁんと熊さんをお借りしていますから、親方にもお礼をしておきませんとね。
>咲:ふうん。その序(つい)でに嗅(か)ぎ回っているのね?
>内:はい、そうです。お内儀さんも、心得たもので、困りごとがあればあたしに話してくださいます。
>咲:なあんだ。やっぱり、あやさんには敵(かな)わないわね。
>内:いえいえ。お咲さんも、中々どうして、捨てたもんじゃありませんよ。

お世辞(せじ)と分かっていても、そう言われて悪い気はしない。
それではと、お須美(すみ)とおみなのことまで聞いていないかと尋ねてみた。

>内:そうですね。おみなさんという方のことは、あたしの方にはなんにも分からないんです。ただ、お内儀さんは気に入っていたようだと、悟郎(ごろう)どんは言っていました。
>咲:その「悟郎」って人が、あやさんと話を交(か)わす人?
>内:そうですよ。若いのに気の利く男です。
>咲:いくつくらいの人?
>内:気になりますか?
>咲:そ、そんなんじゃありませんよ。あやさんのことがちょっと心配になったの。惚(ほ)れられちゃってるんじゃないかって。
>内:はは。ご尤(もっと)もですね。「お綺麗な人ですね」と言っていましたね。
>咲:やっぱり。
>内:ですが、悟郎どんには思い人がありましてね。
>咲:あら、そうなの。それじゃ、良かったじゃない。
>内:そこで、話を戻しますが、実は、その思い人というのがお須美さんなのです。
>咲:え? それって、偶々(たまたま)なの?
>内:いいえ。悟郎どんから頼まれてしまったことなのです。
>咲:どういうこと?

>内:2年前の秋だったといいます。その娘さんが虫売りをしていて、辻村屋さんの前を通り掛ったそうなんです。
>咲:ふむふむ。
>内:もう夕方で、なんだか雲行きも怪(あや)しい。それなのに、虫は売れ残っていて帰ろうにも帰れない。
>咲:ありそうなお話ね。そこで悟郎さんが虫を買い取ってあげたってことでしょう?
>内:いえ。悟郎どんにはそんな銭の持ち合わせがなかったんです。ただ、可哀想だなって思って、旦那さんに頼んだそうです。見ていられないから、少しでも良いから買ってやって貰えないでしょうかとね。
>咲:それで? 買ってあげたのね?
>内:いいえ。生憎(あいにく)辻村屋さんのところの子は皆大きくなっていて、小さい子がなかったんです。虫を買っても、仕方がありません。
>咲:それじゃあ、そのまんま?
>内:いいえ。それでは、それっきりになってしまったでしょう?
>咲:じゃあ、どうしてあげたの?
>内:旦那さんも哀(あわ)れに思ったのでしょう、しかし銭を恵(めぐ)んでは、娘さんの気持ちを傷付けてしまうかも知れない。そこで、近くにあった団子屋で月見団子を包ませて、雨傘と一緒に持たせたそうなんです。
>咲:まあ、良い人なのね、辻村屋さんも悟郎さんも。
>内:お須美さんは恥ずかしそうに悟郎どんの顔を見て、「1つだけここで食べちゃっても良いですか」と聞いたそうです。前の晩から何も食べてなかったんだそうです。
>咲:まあ。それじゃあ、虫が売れなかったら大変じゃない。

>内:団子のお陰で、どうにか生き延びられましたね。・・・そんなことがあって、お須美さんは辻村屋さんの旦那のところに、時折り顔を見せるようになったのだそうです。
>咲:そうこうしている内に恋仲になっちゃったのね?
>内:いえ。そうでもないようです。物売りをしてどうにか食い繋いでいるようなお須美さんには、そういうゆとりがなかったのでしょうね。親しいですが、恋仲というのではないそうです。
>咲:・・・なんだか、助けてあげたくなっちゃうようなお話ですね。

これはお須美の方に分がありそうだ、という気になってきていた。
そんな表情を見て取ったのか、内房老人は話を継いだ。

>内:それでですね。「だるま」の件につきましては、ちょっとばかし障(さわ)りがありましてですね。
>咲:どうしてですか? 働きたいって言ってるんでしょう?
>内:まだ聞いていないようなのです。
>咲:お須美さんが言い出したことじゃないの?
>内:悟郎どんの独り決めなのです。
>咲:じゃあ、あやさんも会ってないのかしら?
>内:それは分かりません。その後は聞いてないのです。
>咲:お十三(とみ)さんの知り合いだってことが分かってるんだから、お十三さんには聞いてみたと思うのよね。
>内:そうですか、友助さんの・・・
>咲:こっちがどこまで進んでるかまでは、知らなかったのね?
>内:はい。これは良いことを聞きました。悟郎どんも喜ぶことでしょう。
>咲:でも、おみなさんの方もいますから。早合点はしないでください。
>内:はい。分かっておりますよ。お咲さんの見立てで決めてください。
>咲:いずれにせよ。会って話してみないことには決められませんからね。けど、きっと良いようにしますから。
>内:お任(まか)せします。
>咲:じゃ、あたしはこれで。お茶、ご馳走様でした。

>内:なんのお構いもしませんで。
>咲:あ、そうだ。源五郎親方は、しょっぱいものより甘いものが好きなのよ。知ってました?

「あはは、それは知りませんでした」と笑い、内房老人は「金太楼の大金餅(おおがねもち)で良ければいつでも届けますよ」と言った。

お咲は、あやから聞いていたお須美の長屋へ足を向けた。
昼時分になっていた。

その頃、八兵衛は「腹減ったぁ」と喧(やかま)しいくらいに騒(さわ)ぎ出し、仕方なく皆も手を休めた。

>熊:お前ぇって奴は、いつんなったらそんな餓鬼(がき)みてえな騒ぎをしなくなるんだ?
>八:餓鬼だろうがなんだろうが、腹が減るんだから仕方ねえだろう。
>熊:そりゃあ、飯どきになりゃ誰だって腹が減るもんだ。だがな、人様って生きもんは、我慢するってことができるから人様なんだぞ。犬や猫じゃねえんだからよ。
>八:そんならおいら、犬や猫で構わねえ。
>熊:何を頓珍漢(とんちんかん)なことを言ってるかねえ。
>八:なんだ? 犬よりも大食いだから、牛か馬だって言いてえのか?
>熊:そんなことを言ってるんじゃねえ。人様らしくしろって言ってんだ。

>八:馬は良いよなあ。馬丁(ばてい)が付いててよ、飼い葉は食わして呉れるし、身体(からだ)は洗って呉れる。馬になりてえなあ。
>熊:お前ぇみてえな根性をしてる馬は、二六時中鞭(むち)でびしびし打(ぶ)っ叩かれるのが落ちだろうよ。
>八:それは困る。おいら痛(いて)えのは願い下げだな。

>三:八兄い、そんなことより、お花さんの方はどうなんです? 帰らなくっても良いんですかい?
>八:おいらがいたって仕方ねえだろう? 母ちゃんの話だと今夜あたりじゃねえかって言ってたな。
>三:それじゃ、飲みに行ってるとこじゃないですね。
>八:なんだ? お前ぇはお町ちゃんと一緒に飲んでるってのにおいらは除(の)け者か?
>三:酒は一晩くらい我慢(がまん)できるでしょう? なんてったって我が子なんですからね。
>八:うーん。難しいとこだな。
>熊:何を言ってやがるかね? とっとと飯を食って、ちょいちょいっと片付けて帰りやがれ。
>八:お、良いのか? おいらがいねえでもちゃんとできるのか?
>熊:当たり前じゃねえか。「今度はお八つが食いてえ」なんて騒がれる方が、よっぽど邪魔だぜ。

>八:そんなこと言うかってんだ。
>三:言いそうですね。
>四:多分言うでしょう。
>五六:間違いなく言いやすね。
>八:なんだ手前ぇら、それじゃあまるで、おいらが犬並みの腹減らしみてえじゃねえか。
>熊:その通りだろ?
>五六:きっと、生まれてくる稚児(やや)も大食いですぜ。家(うち)の鉤坊(かぎぼう)みてえに。
>三:それ以上でしょう。馬並みに食いますね。
>四:まず、間違いないでしょう。
>八:なんだと? するってえと何か? やがておいらの飯にまで手を付けるようになるって言うのか?
>三:誰もそんなことまで言ってませんって。
>熊:ま、その前に、ちゃんと乳が出るように、お花ちゃんに良いもんを食わしてやらねえといけねえな。しっかり働いてよ。

>八:これ以上こき使われるってのか?
>熊:ちっともこき使われてねえじゃねえか。もう良いから、とっとと帰りやがれ。
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