317.【て】 『亭主(ていしゅ)の好きな赤烏帽子(あかえぼし)』 (2006.01.10)
『亭主の好きな赤烏帽子』[=赤鰯(あかいわし)]
主人が好むなら、どんな異様なものでも、どんな悪趣味なものでも、家族はその趣味に従わなければならないということの喩え。
★烏帽子は普通黒塗りであり、赤塗りの烏帽子は珍妙なものとされた。変なものを好む性質、または、そのような人の喩えとされた。
★「赤鰯」は、赤く錆びた鈍(なまく)ら刀のこと。
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万吉と千吉は、鈍(のろ)いながらも着実に仕事を仕上げていく。
元々生真面目(きまじめ)な質(たち)なのである。

>八:よう、「気の毒千万」。
>万:なんですか、八の兄(あに)さん?
>八:おっ? こんな呼び方をされても怒らねえのか?
>万:そんな暇ありませんよ。こっちのことで手一杯ですから。
>八:そうか。・・・なんだかつまらねえな。
>熊:八よ、あんまり気を散らすようなことを言うんじゃねえぞ。
>八:だってよ、手足なんかがちがちじゃねえか。見てるこっちが疲れちまう。
>熊:しっかりやろうって気持ちの表われなんだからよ。仕方ねえだろ?
>八:そりゃ、分からねえでもねえんだけどよ。だがよ、あんまりこつこつやってると、反対に心が篭もらねえような気がするんだよな、おいらは。
>万:そんなものなのでしょうか?
>千:そう言われるとそういう気もしますが。
>八:な? そうだろう?

>熊:こら、好い加減なこと教えるなよ。
>万:嘘なんですか?
>八:嘘なもんかよ。・・・なあ、お前ぇたち、この家(うち)にはどんな人が住むのかってのを考えたことあるか?
>万:い、いえ。
>千:お侍(さむらい)ですか?
>八:こんなとこにお侍が住むかってんだ。どこぞの商家の隠居だよ。まったく豪勢(ごうせい)なもんだよな。
>千:知ってたんですか?
>八:知るかってんだ。そういう造(つく)りなの。覚えとけ。
>千:は、はい。
>八:誰が住むのかとか、どういう風に使うんだろうかってことを考えながら造るってのが、「大工の心」ってもんじゃねえのか?
>万:成る程。八の兄さんの言う通りです。
>八:分かったか? 釘(くぎ)を打つことばっかりに一所懸命になったって、良い仕事にゃならねえってことだ。
>千:き、肝に銘(めい)じます。
>熊:まあ、そういうことではあるな。・・・だがよ、初めっからそれをやれってったって、そいつは無理な相談ってもんだぜ。
>八:心掛けだよ、心掛け。・・・だからだ、もうちっと肩の力を抜け。分かったな?
>万・千:は、はい。

分かったような、丸め込まれたような話ではあったが、万吉と千吉は、極意(ごくい)の1つを教(おそ)わったように気になっていた。
ほんの少し、八兵衛を見直してもいた。

>八:それにしても、この家の主(あるじ)ってのも変わってるよな?
>熊:どこがだ?
>八:こんだけ広い場所があるってのに、なんでまたこんな馬鹿でかい犬小屋なんか造るんだ?
>熊:なんだと? 犬小屋だ?
>八:違うのか?
>熊:どこの道楽もんが畳(たたみ)に囲炉裏(いろり)まで埋め込んで犬を飼うってんだよ。
>八:だって、出入(ではい)りの口が小さ過ぎるだろう? あれじゃ、人なんか出入りできねえじゃねえか。
>熊:お前ぇ、なんにも知らねえんだな。ありゃあな、「躙(にじ)り口」っていうもんなの。
>八:なんだそりゃ? 平目(ひらめ)なんかを煮た奴の残りか? 冷めると煮凝(にこご)りになる?
>熊:煮汁(にじる)じゃねえっての。「躙(にじ)り口」。茶室の戸のことだ。
>八:茶室ってなんだ?
>熊:茶を飲む建物のことだよ。
>八:へえ、変わってるな。犬と一緒に茶を飲むとこなのか。
>熊:違うってんだ。犬なんか入れるか。客を招(まね)くとこなの。
>八:犬の客か?
>熊:人に決まってるだろ。・・・大方、取り引き先の人かなんかを呼んで、ご馳走(ちそう)するんだろうよ。
>八:ご馳走を並べるのか? 凄(すげ)えな。そんでもって、芸妓(げいぎ)かなんかも揚(あ)げるのか?
>熊:そんなことするか。茶の作法(さほう)ってのはだな、お茶1杯に茶菓子1つって決まってるの。
>八:それっぱかしで終わりか? おいら、そんなご馳走だったら怒って帰っちまうけどな。
>熊:そういうのを無作法(ぶさほう)ってんだ。もうちっと世知(せち)ってものを覚えやがれ。
>八:そんな知恵なんか要(い)るもんか。そんなとこ呼ばれたって断っちまうからよ。
>熊:そうだな。どうやら、その方が身のためのようだな。

折角(せっかく)さっき万吉と千吉が見直して呉れたというのに、八兵衛は自分でそれを台無しにしてしまった。
八兵衛の方では、一切(いっさい)頓着(とんちゃく)していないところではあったが。

>八:どこの隠居だか知らねえがよ、そんなもんおっ建てて、奥方とかは文句を言わねえもんかねえ?
>熊:どうだかな。まあ、これで良いってことだから、おいらたちが造ってるんだろうがよ。
>八:こんな犬小屋のせいで、母屋(おもや)が鎹(かすがい)みてえな格好になっちまうんだぞ。
>熊:だから、犬小屋じゃねえっつってるだろ?
>八:ああ、「茶飲み小屋」か。おいらが家主だったら、こんなへんちきりんなものなんか造らねえで、四角い母屋を建てるけどな。
>熊:良いじゃねえかよ。それだけのお足を呉れるってんだからよ。こっちは言われる通りに造ってりゃ良いの。
>八:銭のことを言われちまうとその通りなんだがよ、なんだか造る気も失せるよな。
>熊:そう言うなって。もしかすると、ここで大取り引きが決まるかも知れねえんだからよ。
>八:大取り引きって?
>熊:例えばだな、京の反物(たんもの)を山ほどとか、南蛮の薬種(やくしゅ)を山ほどとか・・・
>八:京の漬(つ)け物を山ほどとか、灘(なだ)の酒樽(さかだる)を山ほどとかか? そりゃ凄えや。
>熊:そればっかりだな、お前ぇは。
>八:でも、お陰でようく分かったよ。ちっとはやる気が出てきたぜ。
>熊:そうかよ。まったく、意地汚(きたね)え野郎だな。
>八:宇治(うじ)の茶と京の和菓子だぜ、きっと。うっしっし。
>熊:何が分かったかと思や、また下らねえことを。
>八:良いじゃねえかよ。立派な「茶飲み小屋」を造ってやる気になったんだからよ。
>熊:やる気の元が間違ったとこにあるがな。
>八:良いの良いの。行き着く先は一緒なんだからよ。

昼時分になって、源五郎が家主(やぬし)らしい夫婦を連れてやってきた。
隠居と呼ぶにはまだ若そうである。

>源:お前ぇら、ちっと手を休めて、家主(いえぬし)さんにご挨拶(あいさつ)申し上げろ。
>八:へい。・・・あの、序(つい)でに飯にしちまっても良う御座んすか?
>源:まったく、お前ぇって奴は食うことばっかりだな。
>八:へへへ。すいません。
>夫:私どもの終(つい)の住処(すみか)ですので、懇(ねんご)ろにお願いしますよ。
>八:あ、へい。釣りの墨烏賊(すみいか)でやすね? 良い趣味ですねえ。
>夫:分かりますか?
>八:へい、そりゃもう。・・・そんでもって、宇治の茶に京の菓子でやしょう? 言うことなしでやす。

>夫:そうですか? 家内(かない)はちっとも分かって呉れないのです。
>妻:私は止(や)めてくださいと言っているではありませんか。
>夫:何を言うんだい。それじゃあ、あんまり人聞きが悪いじゃないか。
>妻:だって、そうじゃありませんか。「身代(しんだい)は全部俺のものだから、お前には口を挿(はさ)む余地はない」って。
>夫:それくらいになさい。この方たちに聞かせてどうなるものではないでしょう。
>妻:それはそうですが、なんで茶室などを建てねばならないのですか?
>夫:それは、弟子を取ってだな、老後の楽しみにでもしようとだな・・・
>妻:お楽しみなのは女のお弟子さんで御座いましょう?
>夫:そ、そ、そんなことが、あるもんですか。
>妻:ほうら、図星(ずぼし)じゃありませんか。何が「老後の楽しみ」ですか。
>夫:この年になって、そのような下心を持つ道理がないでしょう。
>妻:それでは、なぜ若隠居などしようと言い出すのですか? お店(たな)ごと譲(ゆず)ることはなかったのです。
>夫:私はどうにも商(あきな)いには向かないのだよ。お前も見ていて分かるでしょう?
>妻:分かりません。一度だってやる気を出したことなどないではありませんか。
>夫:なにを? 良くもそのような口が利けたものです。お前はね・・・
>源:・・・あの。今日のところはそれくらいにしておいていただけませんか? 弟子どももおりますので。
>夫:お、おお。そうでしたな。どうも、見苦しいところをお見せしてしまいました。
>源:い、いえ。・・・そんなことより、何か手を加えたいところが出てきましたら、今のうちに仰(おっしゃ)ってくださいやし。
>夫:いえいえ。どうやら、お弟子さんに茶の湯にお詳しい方がいらっしゃるようですので、お任せしても良さそうです。宜しくお願いいたしますね。それでは。

家主はさっさと帰っていってしまった。

>源:誰が茶の湯に詳しいんだって?
>八:・・・おいら、ですかい?
>源:選りにも選って、良くもまあ、懸け離れたもんを選んで呉れたもんだな。
>八:そんなこと言わないでくださいよ、親方。大船に乗ったつもりで任してください。
>熊:茶室を犬小屋と間違えた奴にか?
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