307.【つ】 『月夜(つきよ)に釜(かま)を抜(ぬ)かれる』 (2005.10.24)
『月夜に釜を抜かれる』
明るい月夜に飯(めし)の入った釜を盗まれるということで、甚(はなは)だしい油断をすることの喩え。また、油断のために失敗することの喩え。
参考:「月夜」は、〔古くは「つくよ」〕<大辞林(三)>
類:●月夜に釜
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「竜(りゅう)」だけでなく「秀(ひで)」まで引っ越してくることになって、やることが2層倍(そうばい)になってしまった。
どちらの大八車も山のように荷が乗っていて、坂を上がるのも楽ではなさそうである。
特に、秀の方は途方もなく重い。

>熊:漬(つ)け物石でも積んでやがるのか? 妙に重いぞ。
>秀:なあ竜よ、なんだい、このおっさんは?
>竜:「おっさん」ってことはねえだろう。大工の親方なんだってよ。そんでもって、若いのが弟子たちだとさ。
>秀:へえ、偉(えら)いんだ。そんなのに手伝わしちまうのか? 凄(すげ)えな、お前ぇ。
>竜:そんなんじゃねえよ。・・・でも秀よ、なんでも、お町ちゃんとは相当な馴染(なじ)みらしいから、無下(むげ)にはしねえ方が良いぞ。
>秀:そ、そうなのか? そりゃ、大変(てえへん)だな。・・・こりゃこりゃ、失礼をばいたしやんした。実(じつ)ぁですね、鉄敷(かなしき)とか玄翁(げんのう)とか、飾りの道具が乗っかってやしてね。
>熊:鉄敷かぁ。そりゃそうだな。松つぁんのとこにもあるもんな。
>秀:よっ。あんた、松の字とも親しいのかね。よっぽど顔が広いんだねえ。
>熊:なんだなんだ? 随分と調子の好い奴が出てきやがったぞ。・・・おんなじ長屋に住んでたんだから、顔が広いも何もねえと思うぞ。
>秀:・・・松の字は元気にやってますかい? 聞くとこによると、稚児(やや)ができたってことだが。
>熊:お津留(つる)坊か? 丸一年くらいになって、「うう」とか「ああ」とか言うようになってるぜ。
>秀:そうかい。おいらも肖(あやか)りてえもんだねえ。・・・後で、お町ちゃんのことも教えてお呉れよなぁ。
>熊:「教えてお呉んなさい」だろ? ・・・まったく、妙な話し言葉が流行(はや)っちまって困るな。
>秀:まあ、細かいとこになんか拘(こだわ)るなってんで御座んすよ。

竜の方に万吉が、秀の方に熊五郎と千吉が付くことになった。
最初の上り坂さえ越してしまえば、あとはもう大したことはない。

>秀:なあ、若いの。親方にばっかり押させてねえで、お前ぇもしっかり押しなよ。
>千:押して、ます、って。
>秀:そうかい? ちっとも軽くならねえんだけどな。
>熊:お前ぇの、方こそ、しっかり、引っ張って、呉れてん、だろうな?
>秀:そりゃもう、金時の火事見舞いみてえな真っ赤な顔んなって引っ張ってまさぁ、親方。
>熊:そうは、聞こえねえん、だがな。
>秀:そんなこたぁ、ありませんって。ほら、あとちっとで、上り切りますぜ。
>千:まだ、半分を、過ぎたばっかり、なんですけど。
>秀:そう考えるからそう見えちまうだけさ。ほれ、竜の大八車はもう上り切ったぜ。
>熊:お喋(しゃべ)りは、上ってからに、しろよ。力が、抜けるだろ?
>秀:大丈夫大丈夫。こちとら、鍛(きた)え方が違うからな。

飾り職のような手先の仕事をしている奴が、どうして鍛えている筈があろう。
明らかに手を抜いているのだ。太い奴である上に、質(たち)が悪い。
それにしても、初対面で、それも年上だと分かっている相手に、堂々とやれる仕業(しわざ)だろうか?
直前には、「教えてお呉れよなぁ」などという言い方ながら、頭まで下げている相手にである。

>秀:ふう。やっと上り切りましたぜ、親方。
>熊:あと少し長かったら、腰をやってたとこだぜ。そんなことになったら、なんて言われたか。
>秀:親方も、もう若くねえってことですかいな?
>熊:お前ぇたちと5つと違わねえよ。
>秀:そうは見えねえなぁ。年を鯖(さば)を読んでるんじゃねえんですかい?
>熊:そんなことしてなんになるってんだ。
>秀:娘を騙(だま)くらかすには、年を多く言ったり少なく言ったりするもんでやすよ。きゃあきゃあ喜びますよ。
>熊:そんなことで喜ばれなくたって構(かま)わねえよ。
>秀:おやそうですか。欲がねえなあ、親方は。
>熊:そんな欲なんか要(い)らねえな。
>秀:それじゃあ、銭ですかい?
>熊:色と欲か。お前ぇはそんなことしか喜びがねえのか?
>秀:他に何があるってんですかい?
>熊:仕事の腕を上げてえとか、弟子や倅(せがれ)をしっかり育ててえとか、人様から良く思われてえとか・・・
>秀:そんなもん、その気になりゃ、いつだってできるこってしょう? 年を食ってからでも良いでしょ? 後回し後回し。
>熊:良いのかね、そんなんで。
>秀:大丈夫で御座んすって。今どきの若いもんは、みんなそうっすよ。なにもおいらが変わってるってんじゃねえんですからねえ。
>熊:気が付いたら、みんなに先へ行かれちまったってことにならねえようにな。
>秀:そんな間の抜けたことしますかって。
>熊:分からねえぞ。でっかい目を開けてたって、猫に目刺しを持ってかれちまうことだってある。
>秀:おいらが猫より間抜けだってことですかい? そいつはいくら親方だってったって、聞き捨てならねえですぜ。

さしもの熊五郎も秀の考えには付いていけず、荷下ろし以降を万吉と千吉に任(まか)せて、自分の引越しの方へと戻った。
お咲はもう戻ってきており、小物の片付けを始めていた。

>咲:おそーい。こんな刻限まで何やってたのよ。
>熊:迷っちまったの。あんな書き付けで、ちゃんと行き着けるかってんだ。
>咲:だって、何回も曲がる訳じゃないでしょう?
>熊:刷(す)り物職は雨の日は閉まってるの。雨戸まで閉めてちゃ、どこが何屋なんだか分かるもんか。
>咲:ありゃ、そうだったの。それは御免なさい
>熊:それになんだ、あの秀って野郎は?
>咲:「竜さん」でしょう?
>熊:そうじゃねえよ。もう1人の奴だよ。
>咲:会ったの?
>熊:会ったどころの騒ぎじゃねえよ。聞いたら、竜と一緒に住むことにしたんだとさ。車の尻まで押させられたよ。
>咲:あれま。ほんとになっちゃったの? 三ちゃんも大変なことになったわねえ。
>熊:三吉だけじゃねえよ。ありゃ、どう考えても八の奴を怒らせるな。
>咲:真逆(まさか)。八つぁんが怒ったりするもんですか。
>熊:それがよ、まったく口の減らねえ野郎でよ、人の諌(いさ)めなんか、耳も貸しゃしねえ。
>咲:そういう人なの? それじゃあ、お町ちゃんも断(ことわ)っといて良かったわね。
>熊:まったくだ。あんなのと一緒になったら、碌(ろく)なことにならねえ。

>咲:そうすると、万ちゃんと千ちゃんは大変よね。そういう人の面倒を見なきゃならないんだものね。
>熊:まあ、なるべく付き合わないようにさせるさ。変な考え方まで真似(まね)られちゃ敵(かな)わねえ。
>咲:そうね。そうしてあげてね。・・・あっ、あの2人、まだこれから、自分とこの引越しをしなきゃならないのよね?
>熊:そうだな。まあ、物はなんにもねえらしいから、それほどでもねえだろう。
>咲:布団(ふとん)だけでも2人分でしょう? それなりに重いんじゃないの?
>熊:そうだな。ちいとは手間取るかな?
>咲:手伝いに行ってあげたら?
>熊:おいらがか? 祝言(しゅうげん)の主役なんだぞ。
>咲:良いじゃないの。主役が来なきゃ始まらないんだから。
>熊:そりゃそうだが、雨にも濡(ぬ)れちまうし、湯屋(ゆや)にでも行って温(あった)まってきてえんだがな。
>咲:うーん、そうね。・・・初夜(しょや)だもんね。
>熊:べ、別にそういうことだからって訳じゃねえって。
>咲:ううん。熊さんのそういうとこって、好きよ。・・・でも、万ちゃん千ちゃんは手伝ってあげて。
>熊:そうまで言うんなら、そうするとするか。よくよく忙(せわ)しい祝言になっちまったな。
>咲:先が思い遣られる
>熊:そんなことはねえさ。覚悟(かくご)の上だ。
>咲:疲れちゃって眠っちゃったりするかもね。
>熊:そんな間抜けなことできるかってんだ。これでも一人前の男だぞ。
>咲:あたしはそれでも良いと思うのよ。・・・だって、先は長いんだもの。
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