第36章「しっかりお咲の用意周到(仮題)」

301.【ち】 『朝三暮四(ちょうさんぼし)』
 (2005.09.12)
『朝三暮四』
1.表面的な違いにだけとらわれて、結局は同じであることに気付かないこと。
2.詐術(さじゅつ)を以って人を騙(だま)し、愚弄(ぐろう)すること。
3.転じて、命を繋(つな)ぐだけの生計・暮らし。 用例:
太平記−三八「朝三暮四の資(たすけ)に心有る人もがなと」
類:●狙公橡(とち)を賦(くば)る
故事:荘子−内篇・斉物論」「列子−黄帝」など 狙公(そこう=猿回し)が手飼いの猿に嶌(とち)の実を与えるのに、朝三つ暮れに四つとしたところ、少ないと猿が怒ったので、朝四つ暮れに三つとしたら喜んだ。
用例の出典:
太平記(たいへいき) 軍記物語。40巻。小島法師作と伝えるが不明。応安年間(1368−1375)の成立か。正中の変・元弘の変、建武中興とその挫折、新田義貞と足利尊氏との確執から南北両朝の対立、室町幕府内の軋轢(あつれき)など、文保2年(1318)から正平22年(1367)までの動乱期の様態を和漢混交文で記述する。
*********

野分(のわき)が駆け抜けた後、江戸では4日間ほど夏の名残(なご)りのような暑い日があったが、それもあっという間に過ぎた。近頃では、朝晩は、肌寒くさえ感じられる。
葉月(はづき=八月、太陽暦の9月上旬)に入って、程なく半月が過ぎようとしていた。
熊五郎が、いよいよ長屋を出て行くことになった。2・3日内に1日暇を貰いたいと、親方に願い出た。
源五郎から、「祝言(しゅうげん)はどうする」と聞かれたが、もう少し延ばして欲しいとだけ頼んである。
八兵衛は、お花の悪阻(つわり)のお陰で、今朝(けさ)も熊五郎の長屋で朝餉(あさげ)を食べている。

>八:なあ。出てくんなら、お咲坊も連れてっちまったら良いんじゃねえのか?
>熊:祝言も挙げてねえのにそんなことできるかってんだ。
>八:おいらんとこなんか、祝言前から一緒に住んだぞ。今どきじゃ、そういうのって当たり前だぞ。
>熊:当たり前だろうが、流行(はや)りだろうが、おいらは嫌なの。折り目はきっちり付けておきてえの。
>八:そんなこと言ってると、最後の最後で逃げられちまうぞ。
>熊:今更(いまさら)そんなことあるかって。
>八:せめてよ、そうならねえように、契(ちぎ)っちまうってのはどうだ?
>熊:ば、馬鹿なこと言い出すんじゃねえってんだ。朝っぱらから何を言い出すかと思ったら、好い加減にしやがれ。
>八:ははあ。慌てるとこを見るとまだなんだな?
>熊:そんなこと詮索(せんさく)するな。
>八:いやあ、済まねえ済まねえ。・・・だがよ、ほんとのとこ、おいらお前ぇに出て行かれると、困っちまうんだよな。
>熊:何を困ることがある。仕事の方は、変わらずそっちへ行くんだからよ。
>八:そういうことじゃねえの。おいら、明日っからどこで飯を食えば良いのかってことだよ。お花の奴があんなことで、糠漬(ぬかづ)けが食えねえんだぜ。糠漬け無しじゃ、夜も日も明けねえの。
>熊:なんだよ。また飯の都合(つごう)かよ。まったく、お前ぇって奴は。

>八:頼むから、あと三月(みつき)くらいいて呉れよ。な?
>熊:そうは行くか。あっちでの暮らしが波に乗ったら、祝言を挙げなきゃならねえんだからな。あんまり延ばしてたら、六さんからも怒られちまう。
>八:でもよ、空き家に誰が住むかだって決まってねえんだろ? 「決めてから出てけ」って大家(おおや)の爺(じい)さんから言われてるんじゃねえのか?
>熊:そうか。そんな話もあったっけな。
>八:な? 決めてからにしろって。
>熊:しかしな。こっちはもう決めちまったんだ。親方にもそう言ってる。
>八:そりゃあ、親方の手前ってことだろ? おいらが話してやるって。甚兵衛爺さんに頼まれちまったんだから仕方ねえんだってよ。
>熊:良いよ。そんなこと言うなって。
>八:じゃあ、どうして呉れるんだよ、おいらの糠漬け?
>熊:うーん。そうだ。万吉と千吉をここに住まわせるようにするから、それでどうだ?
>八:何ぃ? あの恐縮千万(せんばん)をここに住まわせるだと?
>熊:そういう呼び方をするなってんだ。・・・だがな、そうすりゃここは埋まるだろう? 大家さんへの顔は立つ
>八:そんなの、小手先の誤魔化(ごまか)しじゃねえかよ。
>熊:そんなことあるか。何も店賃(たなちん)をちょろまかそうってんじゃねえんだから。
>八:するってえと何か? おいらはあいつらと一緒に朝餉を食わなきゃならねえのか?
>熊:そういうことだ。頼むぞ。
>八:「頼むぞ」ってお前ぇ・・・
>熊:さ、出掛けようじゃねえか。な?

そう言ってその場を収(おさ)めたものの、熊五郎は、六之進たちの後釜(あとがま)も本気になって探さねばならないなと考えていた。
熊五郎は、出掛ける前にお咲のところへ寄って、そのことを話してみた。
「そうね。あたしも、心当たりを当たってみるわ」と言って、少々意味あり気(げ)な笑みを返してきた。
気にはなったが、そのまま八兵衛を伴(ともな)って仕事に出掛けてしまった。

>八:よう。お咲坊と何を話してたんだ?
>熊:ここへ引っ越しても良いっていう奴はいねえかと思ってよ。
>八:まあ、筋から言や、六さんとお咲坊が探さなきゃならねえってことだな、確かに。
>熊:六さんにそこまではやらせられねえよ。町人に頭を下げて回れってのか?
>八:だから、お咲坊が聞いて回れば良いんだろ? 御用聞きはお手の物じゃねえか。
>熊:しかしな。あいつは、ときに突拍子もないことをしでかすからな。
>八:なんにしろ、決まりゃ良いんじゃねえのか?
>熊:それはそうだが、また騒動の種なんか持ち込まなきゃ良いんだがな。

その日の昼過ぎ、お咲は事もあろうに、竜(りゅう)という組み紐(ひも)職人のところを訪(たず)ねていた。
まだ左の頬(ほお)が腫(は)れていて、ちょっと痛々しい。しかし、腫れていなければ、確かに整った顔立ちである。

>咲:あなたが、半次さんのお知り合いの竜さん?
>竜:そうだが、あんたは?
>咲:半次さんの長屋の隣に住んでるお咲っていう者です。折り入ってお願いしたいことがあって来たの。
>竜:おいらにゃ紐を作るくらいしか能はねえ。頼みなんて聞けねえな。
>咲:そう言わないで。秀(ひで)さんが、お町ちゃんから断(ことわ)られたって話は聞いたでしょう?
>竜:お前ぇ、そんなことまで知ってるのか?
>咲:だってあたし、あそこの縄暖簾(なわのれん)で働いてるんだもん。お町ちゃんのことだったら、みんな知ってるわよ。
>竜:そうなのか? おいらが行ったときには見掛けなかったが。
>咲:いつもじゃないのよ。お町ちゃんが慣れるまで教えてあげてたの。
>竜:へえ。そういう年には見えねえけどな。幾つだい?
>咲:娘に年を聞くもんじゃないでしょう? ・・・でも良いか。18(数え=満17歳)よ。序(つい)でに、お町ちゃんは22。
>竜:そうか。お町ちゃんは22か。

>咲:それでね、頼みっていうのは、家(うち)の長屋に引っ越してこないかってこと。
>竜:なんだと?
>咲:ほら、ここよりもぐっと「だるま」に近いし、半次さんもいるし、日当たりだってここよりもよっぽど良いわよ。どう?
>竜:なんでおいらんとこへそんな話・・・
>咲:秀っていう人に喧嘩で負けたでしょう? ちょっと可哀想(かわいそう)になっちゃって。それに、1回や2回じゃ、お町ちゃんの良いところも分からないでしょう? もっと知りたいでしょう?
>竜:まあな。だがな・・・
>咲:何よ、はっきりしないのね。嫌われちゃうわよ。
>竜:秀の奴は、「もう相手が決まってる」ってことで断られたんだぜ。いくら好きだって、相手のある娘にゃ手を出せねえよ。
>咲:あら。案外、意気地(いくじ)がないのね。
>竜:だって、それこそ人の道に外れることだろう?
>咲:出任(でまか)せだったら?
>竜:出任せだと?
>咲:そりゃ、お町ちゃんのお父つぁんは、「大工の源五郎親方の弟子じゃなきゃいけない」って言ってるようだけど、お町ちゃんは、どうするか決めてないのよ。
>竜:ほんとか?
>咲:あたしだって、お町ちゃんの気持ちを知ってるからこんなこと言ってるんじゃないの。信じないんなら良いわ。秀って人のところへ行ってくるから。
>竜:ま、待って呉れ。い、行くよ。引っ越しますって。だから、秀には言わねえでいて呉れよ。
>咲:そこまで言うんだったら、仕様がないわね。それじゃ、身の周りの片付けを始めてね。引越しは、家の若いもんを手伝いに寄越(よこ)すわね。
>竜:若いもん? あんたよりも若いのか?
>咲:そんな訳ないじゃない。あたしんとこの弟子(でし)よ、弟子。19と18。
>竜:あんた、一体(いったい)何もんなんだ?
>咲:だから言ったでしょう? 半次さんと同じ長屋に住んでるお咲。・・・でも、入れ違いで引っ越しちゃうんだけどね。

また来るわねと言って、竜の長屋を後にすると、お咲は源五郎の家へと向かった。
熊五郎たちは出払っているだろうが、あやかお雅がいる筈(はず)である。
丁度、話をしておきたいところだったのである。祝言の段取りなんかについても。
石橋を叩いて渡る熊五郎になど任せていたら、祝言がいつになるか分かったものじゃない。
つづく)−−−≪HOME