第35章「別嬪お町の花の綻び(仮題)」

295.【ち】 『知音(ちいん)』
 (2005.08.01)
『知音』
1.心の底を打ち明けて話すことができる友。心の通じ合った親友。 類:●無二の友高山流水
2.友人。知り合い。知人。
3.男と女が親しくすること。恋情を通じること。遊女の馴染み客となること。また、愛人。 用例:浮・風流曲三味線−四「彼奴も相応に飯焼(ままたき)に知音して」
出典:「三国志−魏志・王粲伝」「昔伯牙絶絃於鍾期、仲尼覆醢於子路、痛知音之難遇、傷門人之莫逮也」
故事:
列子−湯問」 中国の春秋時代、琴の名手伯牙(はくが)が弾く曲を、その友人の鍾子期(しょうしき)はよく理解していた。鍾子期の死後、伯牙は自分の音楽の真髄を理解して呉れる友は他にはいないとして、琴の弦を切ってしまった。 →参照:絶弦
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夏の土用(どよう=現在の7月下旬〜8月初旬の18日間)が明けるのを待って、熊五郎たちの新居の手直しが始まった。
万吉と千吉にはまだまだ無理だからということで、三吉と四郎が手伝いに来て呉れていた。

>熊:済まねえな。あっちだってやることが一杯あるってのによ。
>三:そうでもありませんって。こんな暑い最中(さなか)に家(うち)を建てようなんてのは、そうそういるもんじゃありませんよ。
>四:大女将(おおおかみ)さんも、請(う)ける仕事を控(ひか)えてるみたいですけど。
>熊:そうか。なんだか、面倒の掛けっ放(ぱな)しだな。
>三:良いとこありますね。日頃は怖いだけですけど。
>四:しっ。滅多(めった)なことを言うもんじゃないよ。その辺で聞いてるかも知れないんだから。
>三:真逆(まさか)。幾(いく)ら地獄耳だからって・・・
>熊:どうかしたか?
>三:え? ええ。今、お出(い)でになったようです。静(しずか)嬢(じょう)ちゃんと源太坊ちゃんを連れて。
>熊:いやはや、噂をすればなんとやらか。

>雅:なんだい。まだ朝っぱらだってのに、もう休んでんのかい? 今どきの若いもんときたら、怠(なま)けることばっかり考えてるんだから嫌(や)んなっちまうねえ。
>熊:そ、そういう訳じゃねえんですよ。今、段取りをどうするか話し合ってたとこでして。
>雅:そうかい? なんだか「地獄耳」とかなんとか言ってたようだったがね。
>三:そ、そんなことありませんって。め、め、め、滅相もないことでやして・・・
>雅:ふんっ。まあ良いさね。・・・ときに、熊。
>熊:へ、へい。
>雅:頼みがあるんだがね、聞いて呉れるかい?
>熊:へい。おいらにできることでしたら。
>雅:そりゃあ良かった。・・・あんたの間抜けな大食らいのことなんだがね。
>熊:八のことですかい?
>雅:他にいるかい?
>熊:いえ。八しかいません。
>雅:その頓痴気(とんちき)の長屋の隣に、あんたんとこの万吉と千吉を住まわせてやっちゃ呉れないかい?
>熊:六さんの住んでるとこにですかい?
>雅:あんた、義理の父親(てておや)のことを「六さん」なんて呼んでるのかい? 情けないねえ。
>熊:まだ祝言(しゅうげん)前ですから、あの、まだ早いかと思いまして。
>雅:そんなことあるかい。祝言前だろうが後だろうが、これから一緒に住もうって人のことは、ちゃんとそう呼ぶもんだ。
>熊:へい。これからはそうします。
>雅:分かりゃぁ良い。・・・それからね、もしどっかに、長屋を探してるって奴がいるようだったら、あんたの後釜に据(す)わるように丸め込んでお呉れ。
>熊:そいつは、長屋が空き家にならないようにしてから引っ越せってことですかい?
>雅:ほう。飲み込みが早いじゃないか。そういうことさ。・・・甚兵衛の爺さんから頼まれちまって往生(おうじょう)してるんだから。こっちはね、あんたたちの祝言の世話までで、もう沢山(たくさん)なんだよ。
>熊:そういうことでしたら、当たっておきます。
>雅:そうしと呉れ。・・・三吉に四郎。
>三吉・四郎:は、はいっ。
>雅:あんたらも心掛けてみるんだよ。「見付かりません」なんてったら承知しないからね。

お雅はそれだけ言うと、静と源太の手を引いて行ってしまった。
そんなにぐいぐい引っ張ると可哀想だと言おうとしたが、2人は却(かえ)って、嬉々(きき)とした叫声(きょうせい)を上げながら、お雅に纏(まと)わり付いている。
成る程、源五郎とあやの子だけのことはあって、大物になりそうである。

>三:なんですか、ありゃ?
>熊:八のことを心配してくだすってるんだよ。
>三:甚兵衛の爺さんのことじゃなくって、ですか?
>熊:そうだ。今度のことじゃ、おいらばっかり良い思いをさして貰っちまってからな。あいつが剥(むく)れちまってるんじゃねえかって思ってなさるんだろう。
>三:そんならそうで、自分から八兄いに言えば良いじゃないんですかねえ?
>熊:あのお人が自分の口からそんなことを言うか?
>三:そう聞かれると、・・・確かに言いませんね。ええ。口が裂(さけ)けても言いません。
>熊:な? そういうこった。・・・まあ、おいらとしても、八のことはなんとかしとかねえと拙(まず)いと思ってたとこなんだ。

そういう微妙(びみょう)な話は、慌てず騒(さわ)がず、何度も何度も面と向かいながら懐柔(かいじゅう)していかなければならないものである。
熊五郎はお咲に経緯(いきさつ)を話し、暫(しばら)くの間八兵衛と「だるま」通いを続けるからと言って、了解を得た。
そんなこととは露知らず、八兵衛は、酒と聞けばほいほい乗ってくるのである。
お町に会いたい三吉だけが、付いてきている。

>八:どうだ進み具合いはよ? ちょいちょいっとやりゃあ、直(す)ぐに仕上がっちまうんだろ?
>熊:そんなに直ぐにできるかってんだ。うちの長屋の3軒分くらいはあるんだぞ。
>八:なんだと? そんなにでかいのか?
>熊:でかいって言えるかよ。稚児(やや)でも生まれてみろ、そんだけで一杯一杯だぞ。どっちかって言えば、長屋の方が狭(せま)過ぎるの。
>八:違(ちげ)えねえ。3軒分ってったって、親方んとこの半分にもならねえんだもんな。
>熊:まあ、当分そんなことにはならねえから一安心だがな。
>八:なに言ってやがる。とっとと作っちまえって。お夏ちゃんと一緒で丁度良いじゃねえか。
>熊:そうもいくかってんだ。弟子だって、まだまだ新米(しんまい)なんだからな。・・・それで? お前ぇんとこはどうなんだ?
>八:どうなんだって言われてもなぁ。そんなことは、お花に聞いてみねえと分からねえじゃねえか。
>熊:母(かあ)ちゃんはなんとも言ってねえのか?
>八:「早く孫の顔が見たいねえ」なんてことは時たま言うけど、どうだかな。近頃じゃ別になんとも言わなくなっちまったな。諦(あきら)めちまったんじゃねえのか?
>熊:そうか。ちっとは、見込みがあるかもな。
>八:そんならおいらに真っ先に言うだろうよ。
>熊:分からねえぞ。なんてったって、静嬢ちゃんの時だって、親方が一番後だったもんな。
>八:そりゃあ、親方が鈍(にぶ)過ぎるの。
>熊:お前ぇだって、相当だと思うがね。

>八:おいらのどこが鈍いってんだよ。目が覚める前に「あっ、今朝は目刺しだな」とか「今日は糠漬(ぬかづ)けだけかよ、湿気(しけ)てるな」なんてことも分かっちまうんだぞ。
>熊:そりゃあ、食い意地が張ってるってだけの話じゃねえか。
>八:それはそれで立派な取り柄(え)だろ?
>熊:そんな取り柄、誰のためにもなりゃしねえじゃねえか。もうちっと、人様のためになる取り柄くらい持てってんだ。
>八:そうか? そりゃあ、中々難しい話だぞ。
>熊:なんだよ。随分とあっさりしちまったもんだな。
>八:こう毎日毎日暑いとよ、何を食って一日(いちんち)乗り切るかってだけで精一杯なの。人様のことまで構ってられるかってんだ。
>熊:情けねえことを言うんじゃねえよ。三吉だって四郎だって泣き言1つ言わねえで働いてるぞ。なあ、三吉?

>三:へ? ああ、おいらは、酒も暑さもちっとも堪(こた)えませんから。
>八:厭味(いやみ)ったらしい言いようだな。
>三:へへ。・・・それより、なんとかなりませんかね? おいらの恋の成就(じょうじゅ)って奴の方は?
>八:なんだと? お前ぇ、まだお町(まっ)ちゃんに未練(みれん)があるのか?
>三:未練も何も、まだなんにも始まっちゃいねえじゃありませんか。
>八:あれ、そうだったっけ?
>三:もうちっと親身(しんみ)になってくださいよ。仲間じゃねえですか。
>八:いつから「仲間」なんかになったってんだよ。お前ぇらは、親方の弟子(でし)。おいらは、間もなく弟子を取っておん出て行く身。そうなりゃ、仲間も何もねえわな。
>熊:お前ぇのそういうとこが駄目だってんだ。おんなじ親方の弟子じゃねえか。兄弟弟子って言うんだぞ。立派な仲間じゃねえか。
>八:そうか? そんならそういうことにしといてやっても良いが、嫁のことばっかりは自分でなんとかするべきだと思うぞ。
>三:分かっちゃいますけど、ちっとくらい助けてくださいよ。
>八:知るか。

喋(しゃべ)っている言葉だけだと、八兵衛がなんにも思っていないようにしか聞こえないが、意外に良いところもある。
「なあお町ちゃん、今度の大川(おおかわ=隅田川)の花火、行ってきちゃあどうだ? お花に代わるように言っといてやるからよ」などと言う。「なんだったら、用心棒代わりに三吉を付けてやるからよ。まあ、あんまし用はなさねえだろうがな」。

>町:ほんと? 行っても良いの?
>八:良いともよ。おいらは花火なんてものは見飽(あ)きちまってるから、ここで飲んでた方がなんぼ良いか分からねえ。
>町:みんなで一緒に行きましょうよ。源五郎の小父(おじ)ちゃんも一緒に。
>八:親方にゃ、そんな粋(いき)なとこなんかねえのさ。・・・でもま、2人じゃつまらねえってんなら、熊の野郎とお咲坊を付けてやっても良いぜ。
>熊:おい。おいらたちは・・・
>八:良いの良いの。お前ぇはこの2人に仲睦(むつ)まじいとこでも見せ付けてやってりゃ良いの。な?
>熊:何を言い出しやがるかね、こいつは。
>町:行きましょうよ、熊さん。あたし、ああいうのって大好きなのよ。「たーまやーっ」て、大声で言うんでしょ? 面白(おもしろ)そうじゃない。
>熊:でも、大川までは遠いぞ。
>町:早めに出掛けて、早めに帰ってきちゃえば良いじゃない。上手(うま)くすれば、まだここが開いてる頃合いに帰ってこられるわ。
>八:それには及(およ)ばねえよ。こっちはお花と2人の方が、何かと都合(つごう)が良いからよ。
>町:だって、それじゃあ申し訳なくって・・・
>八:お前ぇたちがいなければ、銚子の2・3本ちょろまかせるだろ? 見られてると困るんだよな。
>熊:なんだよ、つまるところはそれかよ。卑(いや)しさもここまで来ると、もう立派な取り柄だな。
>八:な、そうだろ? おいらの取り柄も中々どうして、捨てたもんじゃぁねえ
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