287.【た】 『蓼(たで)食(く)う虫(むし)も好(す)き好(ず)き』 (2005.06.06)
『蓼食う虫も好き好き』[=は辛きを知らず]
辛(から)い蓼を好んで食う虫がいるように、人の好みというものは、様々で、一概には言えないものだ。
類:●十人十色兎は好きだば苦木も噛む
用例:狂言・縄綯「蓼食う虫も好き好きと申せども、あの様なお内儀によう連添うてはお居やる事ぢゃ」
★『蓼虫(たでむし・りょうちゅう)」は、一般に、ホタルハムシなどの甲虫とされる。
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万吉と千吉は、生来(せいらい)の綺麗好きらしく、驚くほど要領(ようりょう)良く掃除(そうじ)をする。
そして余った時間を、熊五郎と五六蔵の仕事振りを見ることに費(つい)やす。実に、理想的な見習いである。

>熊:なあ五六蔵、あいつら、中々見所(みどころ)がありそうじゃねえか。見ろよ、あんなに綺麗に片付けやがるぜ。
>五六:そうでやすね。散らかってねえと、仕事が楽でやす。
>熊:次の段取りに行くのが直(す)ぐ出来るからな。捗(はかど)りが違うよな。
>五六:あっしなんか、もっときちんとしやがれって、良く親方から怒られたもんです。
>熊:お前ぇは、あんまり上手(うま)くできなかったもんな。四郎と違ってよ。
>五六:へへ。面目(めんぼく)ねえ
>熊:しかしなんだな、ああいう風にてきぱきやられちまうと、早いとこなんかを教え込まなきゃならねえかなって思っちまうよな。
>五六:そこをぐっと我慢するのが、親方の大変なとこなんじゃねえんですか?
>熊:そうかも知れねえな。なんでもほいほいと教えると、付け上がり易くなっちまうもんな。
>五六:そうかと言って、今日日(きょうび)の若いもんときたら、叱(しか)り付けながらだと、物を覚えねえってとこもありやすからね。難しいところでやすよね。
>熊:弟子を鍛(きた)えるのに、宥(なだ)めたり賺(すか)したりしなきゃならねえのかね。
>五六:あっしらのことは、上手い具合いに扱ってくださいやしたよ。
>熊:弟子も3人目くらいにならねえと、一人前の親方とは言えねえのかも知れねえな。
>五六:直(じか)の弟子の下にってことでやすか? そりゃあ、いつになるか分かったもんじゃねえですね。
>熊:それでも、なるべく急いで、そういう風にしなくちゃならねえ。そのためには、あいつらには早く仕事を身に付けて貰わなきゃならねえ。

>五六:2年ってとこでやすかねえ。
>熊:そんなに年月をやっちゃいらんねえのさ。3人きりの熊五郎一家ってことでやってかなきゃならねえんだからな。
>五六:親方は、そんなご無体(むたい)なことはなさらねえと思いますけどね。
>熊:そうだと有り難えんだがな。だからって、順繰りに三吉や四郎を借りる訳にもいかねえだろ? そっちにだって色んな仕事が舞い込むんだろうしよ。
>五六:そうですねえ。大女将(おおおかみ)さんは、益々(ますます)がめつくなってきてますしね。
>熊:はっは。その通りだ。「人が減って身軽になっただろう」くらいのことを言い出しそうだぜ。そんなとこに、誰か貸してくださいなんて行けやしねえやな。
>五六:でもやっぱり、半人前と熊兄いだけじゃ、あんまりにも無理が掛かりやすぜ。
>熊:そんときは、親方の下請(したう)けだけで食い繋(つな)ぐしかねえな。今のまんまじゃ一軒全部ってのは無理だもんな。
>五六:そうですねえ。下請けってことなら、どうにかやっていけるかも知れやせんね。
>熊:でも、それにしたって、良いとこ1・2年だな。それ以上になると、こっちが甘えちまう。
>五六:それまでに、万吉と千吉をなんとかしなきゃならねえってことでやすか。

昼近くに、お咲が握(にぎ)り飯をぶら下げて現れた。
熊五郎とまともに喋(しゃべ)るのは、半月振りである。

>咲:おーい。お握り持ってきたわよ。はい、お昼にしてちょうだい。
>五六:おっ、お咲ちゃんじゃねえですか。どうしたんです?
>咲:「どうした」じゃないでしょう? 聞かなきゃいけないのは、「ここ半月何をしてたんだ?」でしょう?
>五六:そりゃあ、そういうことも聞いてみてえけど、そういう立ち入ったことは熊兄いが聞くのが筋って・・・
>熊:そうだな。・・・お前ぇ、姐(あね)さんと2人きりで、こそこそと何やってやがったんだ?
>咲:何って、大工の女房の見習いじゃない。他に何があるっての?
>熊:そういうことを聞こうってんじゃねえって。どこへ行ってたとか、誰かと何を話したとかってことだよ。
>咲:そういうことは、教えてあげられないの。全部はね。言えることだけなら、少しずつ小出しにして教えてあげる。
>熊:勿体(もったい)振るんじゃねえってんだ。
>咲:別に勿体振ってる訳じゃないの。女将には女将だけが分かってなきゃならないことがあって、それは親方には教えちゃいけないことになってるんだって。
>熊:そんなことってあるのか?
>咲:あやさんがそう言うんだから、信じるしかないんじゃない? 少なくとも、あやさんと親方は見事(みごと)に釣り合ってるんだから。

>熊:ふうん。そういうもんかね。まあ良いや。姐(あね)さんがそう言うんなら、そういうことなんだろうよ。・・・だがな、それはそれとしてだ。なんでこそこそとやってたんだよ。
>咲:それはあれよ。あやさんの悪い癖。人を驚かすのが好きなのよ。
>熊:それだけか?
>咲:そうよ。それだけ。
>熊:たったそれだけのために、おいらは蚊帳(かや)の外に置かれちまったってのか?
>咲:まあそんなとこ。
>熊:お咲坊も六さんも「ご存知居(お)り」ってのに、おいら1人だけが、なんにも知らねえで、馬鹿みてえに「おはようさんです」なんて挨拶(あいさつ)してたって訳か?
>咲:父上も、少しは溜飲(りゅういん)が下がる思いだって言ってたわ。
>熊:やっぱり反対してたのか?
>咲:反対はしてないのよ。聞いたら、もう去年あたりから、もう良いかなって思っていたんだって。
>熊:なんだと?
>咲:そりゃ、一縷(いちる)の望みって奴で、仕官の口をなんてことも考えていたみたいなんだけど、それももう諦(あきら)めちゃったみたい。というよりも、断ち切るための切っ掛けが欲しかったみたい。
>熊:諦めちまったのか?
>咲:そう。・・・だから、あたしたちが養(やしな)っていかなきゃならないのよ。
>熊:でもよ、隠居するにはまだ早いんじゃねえのか?
>咲:だからって、今更傘貼り以外の何ができるって言うの? 客あしらいなんかできる訳ないの分かってるでしょ?
>熊:そりゃそうだ。
>咲:身内なら、木(こ)っ端(ぱ)拾いくらいやらせても構わないけどね。
>熊:それはもう間に合ってる。
>咲:え? そうなの?

>熊:万吉と千吉の手際の良さを見せてやりてえぜ。あっという間に綺麗にしちまうのさ。
>咲:へえ。誰にでも取り柄(え)はあるものなのね。
>熊:そういう言い方ってねえと思うぜ。中々どうして、武家の倅(せがれ)が大工になろうって思うだけのことはある。
>咲:でも、変わってるわよね。何が悲しくて大工になんかなりたがるのかしら? 同じ職人でも、飾り職くらいの方が、まだ格好(かっこう)が付くと思うんだけどな。
>熊:お前ぇ、経緯(いきさつ)は聞いてるんだろ?
>咲:ああ、お爺(じい)様の話? それは分かるけど、2人ともってのはどうかしら? 大体(だいたい)年子(としご)の男兄弟ってったら、片一方が違うことをしたがるもんなんだけど。
>熊:そういうもんなのか?
>咲:そうじゃない? 千ちゃん。
>千:へ? わ、私ですか?
>咲:普通、臍(へそ)曲がりなのは弟の方だもの。
>千:そ、そんなことはありません。
>咲:そうかしら? どうしても仕口(しくち)を極めたいって言うんなら、建具(たてぐ)の箪笥(たんす)とか長持(ながもち)とかあるんじゃない?
>千:い、いえ。やっぱり大工の方が良いです。・・・それに私は、是非(ぜひ)とも、熊五郎の兄(あに)さんに付いて仕事を覚えたいんです。
>咲:「兄さん」って呼ばれてるの? ・・・なんか変な感じ。
>熊:仕方ねえだろ。まだ親方になった訳でもねえし、こいつらにしたって、ほんとに長続きするかどうか分かったもんじゃねえんだからよ。

>咲:そんじゃ、あたしのことはなんて呼んで呉れるのかしら? もしかして、「姉(ねえ)さん」ってのかしら? ・・・うーん、中々良い響きよ。うん、決まり。万ちゃんに千ちゃん、あたしのことはこれから「姉さん」って呼んでね。
>万:は、はい。分かりました。
>熊:何が「姉さん」だよ。お前ぇの方が年下じゃねえか。
>咲:こういうもんはけじめが大事なの。こっちは雇(やと)いの側、万ちゃんと千ちゃんは雇われの側。ずっと言われてれば、直ぐに慣れるわよ。
>熊:おいらはどうにも慣れねえがな。
>咲:千ちゃんもそれで良いわね?
>千:はい。私に異存(いぞん)はありません。
>咲:それじゃあ、飾り職や建具職に鞍替(くらが)えするってのもなしね?
>千:はい。・・・実のところ、なんだか、姉さんにちょっとばかし興味を持ちまして、付いてってみるのも面白(おもしろ)いかなって思ってたところです。
>熊:お前ぇ、変わってるな?
>千:別に変わってるとは思いませんが。
>咲:ありゃ、そういうことなの? ・・・うーん、まあ、そういうこともあるかな。でもね、あたしはもうここの「兄さん」と一緒になることになっちゃってるから、もう遅いわよ。
>千:そ、そういうことじゃなしに、素直に興味を持っているってだけのことで・・・
>咲:あら、そういうことなの? なんだ、詰まんない
>熊:またこれだ。まったく、女のお頭(つむ)ん中はどうなってんのか、さっぱり分からねえ。
>咲:気の利(き)いた言葉の1つも言えない盆暗(ぼんくら)と一緒になろうってんだから、まともなお頭じゃやってられないわ。
>熊:なんだと?
>咲:良いじゃない。あたしはもうあんたのもんなんだからね、そうでしょ、「兄さん」?
>五六:・・・あの、もうそれくらいにしといてくださいやし。くらくらしてきちまいましたよ。
>咲:あら。五六ちゃんったら、相変わらずで、見掛けに拠(よ)らぬ初心(うぶ)なのね。

万吉と千吉は、そんな熊五郎とお咲を、眩(まぶ)しそうに見ていた。
威厳があるのとは違うのだが、なんだか、妙に懐(なつ)かしい居心地の良さを味わっていた。
(第33章の完・ つづく)−−−≪HOME