第33章「慎重居士熊五郎の急転直下(仮題)」

283.【た】 『多々(たた)益々(ますます)弁(べん)ず』
 (2005.05.09)
『多々益々弁ず』[=善し]
1.手腕や才能にゆとりがあり、仕事が多ければ多いほど、立派にやってのける。ものごとが多いほど巧みにこなす。
2.多ければ多いほど良い。
故事:漢書−韓信伝」「如臣、多多益辯耳」 漢の高祖が韓信(かんしん)に「お前は何人くらいの兵の大将となり得るか」と尋ねたとき、彼が答えた言葉。
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如月(きさらぎ=2月、太陽暦では3月中旬)の一件で、進展するかに思えた熊五郎とお咲の話だが、実質的には、一向に進んでいなかった。
初めの晩に熊五郎から言われたことでしゅんとなったお円は、何やら思うところがあったのであろう、朝から晩までお咲に纏(まと)わり付き、長屋暮らしとはどういうものかと根掘り葉掘り問い質(ただ)す毎日であった。
ほとほと草臥(くたび)れ果てたお咲が、もう我慢ならないと爆発する寸前に、但馬屋三右衛門からお許しが出た。
そういう風にして、熊五郎とお咲の「仮初(かりそ)めの夫婦(めおと)生活」は幕を下ろしたのであった。
その後の角之進はといえば、但馬屋の口利きで「伊勢屋」という小さな呉服商に預けられ、地道(じみち)に商人(あきんど)への道を歩み始めているようだった。

>八:なあ熊、お前ぇたちは、一体(いったい)どうなってるんだ?
>熊:あん? なんのことだ?
>八:そんなの決まってんじゃねえか。お咲坊とのことだよ。
>熊:そんなもん、どうもこうもねえじゃねえか。
>八:だってよ、5日も一つ屋根の下で寝起きしてたんだぞ。そういうことの話も出ただろう?
>熊:まあな。でもなあ・・・
>八:武家がどうのとかそういうことを、まだ言ってる訳じゃねえだろうな?
>熊:だってよ、そういうことってのは、拘(こだわ)っちまうと切りがねえもんだからよ。
>八:あの六さんが拘ってるってのか? そんなことはねえと思うぜ、おいらは。
>熊:さあな。
>八:「さあな」ってことはねえだろう。手前ぇのことなんだぞ。
>熊:そりゃあそうだが、こればっかりはどうしようもねえだろ?
>八:そんなことあるか。六さんのとこへ行ってよ、お咲坊を嫁にしてえってきっぱり言ってやりゃ良いじゃねえかよ。
>熊:そう簡単に行くかよ。
>八:行くに決まってんだろ? お咲坊だって、お前ぇのことを憎からず思ってるんだろ?
>熊:どうかな? おいらには、はっきりとは分からねえ。
>八:今更(いまさら)何を言ってやがるんだか。お前ぇはどこまで石頭なんだ。好い加減にしやがれ。
>熊:そんなこと言ったってよ。お咲坊はまだ18(=数え年)なんだぞ。
>八:十分じゃねえか。「まだ」なんて言ってたら、いつんなったってけりが付きゃしねえ。
>熊:まあ、そんなに急(せ)かすなよ。おいらたちのことなんだからよ。

八兵衛からお咲との間を問われても、以前のように有耶無耶(うやむや)に誤魔化(ごまか)して見せるということはしなくなっていた。
自分の気持ちに整理が付いたようではある。
とは言え、実のところ、熊五郎も心配になってきていた。
あれからのお咲は、あやと何やらひそひそ話をしているだけで、熊五郎の方へは碌(ろく)に話し掛けてこなくなっていたのだ。

>五六:菜々の奴にでも、それとなく聞かせてみやしょうか?
>熊:止(よ)せよ。変に事を荒立てたくねえんだ。六さん抜きで話を進める気には、どうしてもなれねえのさ。
>五六:そうでやすね。余計なことを言っちまいやした。
>八:でもよ、このまんまじゃ、二進(にっち)も三進(さっち)もいかねえじゃねえか。
>熊:仕方ねえだろ? こういうことは、無理圧状(むりおうじょう)ってのが一番良くねえからよ。
>八:嗚呼(ああ)、またそれかよ。・・・こんなことだったら、あんとき、勢いに任(まか)せて押し倒しちまえば良かったんだよ。
>熊:な、なんてこと言い出しやがる。誰がそんなことするかってんだ。
>八:今どき、そんなの当たり前だぞ。
>熊:おいらは嫌なの。折り目とか筋目とか、そういうのってのは大事(だいじ)だろう?
>八:そんなこと言ってやがるから、いつまで経(た)っても決まりが付かねえんじゃねえか。
>熊:どうしようもねえだろう? そういう性分(しょうぶん)なんだからよ。
>八:けっ。下(くだ)らねえ性分だこと。見てるこっちの方が、意地が焼けるぜ。・・・おーい、お町(まっ)ちゃん、銚子3本追加しとくれ。

>三:八兄い、飲み過ぎじゃねえんですかい?
>八:お前ぇには分からねえだろうよ。飲まなきゃやってられねえこともあるの。
>三:お言葉ですがね、おいらにだって、そういうことくらいありますよ。
>八:だってよ、お前ぇは幾ら飲んだって酔(よ)っ払(ぱら)わねえんだろ?
>三:そんなことはありませんよ。それなりに気持ち良くなりますって。
>八:そんじゃよ、仕事でへまを仕出かして、親方からこっ酷(ぴど)く怒られたとき、その憂(う)さを晴らすのにはどうするんだ?
>三:そんときは、いつもより早く寝ちまいますね。そういうときに酒を飲んだって美味(うま)くないですからね。
>八:やっぱり変わってるな、お前ぇはよ。
>三:でも、それ以前に、おいらには「憂さ」なんてものがありませんから。どうです、得な性分でしょう?
>八:そういうのをな、「すっからかん」って言うんだよ。
>三:そりゃぁ幾らなんでも言い過ぎってもんですぜ。
>八:良い杉も良い檜(ひのき)もあるかってんだ。・・・どうでも良いから、熊なんかより先に嫁を貰っちまえ。
>三:そんなこと言ったって、肝心要(かんじんかなめ)の相手の方が・・・
>八:お町ちゃんで良いじゃねえか。もう一遍親方に頼んでみろ。・・・なあ、お町ちゃん?
>町:え? なんの話?

銚子を運んできたお町が、すっ呆(とぼ)けて答えた。
どうやら、今のお町には、誰かの嫁になろうという気持ちが薄いようである。
「あーあ。まったくどいつもこいつもやきもきさせやがる」と言って、八兵衛は大振りの筍(たけのこ)に齧(かぶ)り付いた。

季節は間もなく梅雨(つゆ)入りを迎(むか)えようとしていた。
去年は皐月(さつき=5月、太陽暦では6月中旬)のうちから真夏のような暑い日が3月も続いたが、今年はそうでないことを祈るばかりである。
そんなある日、現場に向かおうとするみんなを源五郎が呼び止めた。

>源:間もなく雨の季節になるから、その前に片付けなきゃならねえ。ちょいとばかし忙(いそが)しくなるぞ。
>八:分かってますって。毎度のことでしょう?
>源:それがな、母(かあ)ちゃんがとち狂っちまって、いつもより余分に仕事を請(う)けちまったんだ。
>八:ちょいとばかしって、どのくらいなんですかい?
>源:都合(つごう)5軒だ。
>熊:なんですって? 早けりゃ半月後には雨が降り始めるってのにですかい?
>八:そりゃあ凄(すげ)え。
>熊:他人事(ひとごと)みてえに言うな。

>源:大変なのは分かる。ちょいと気合いを入れてやって呉れ。
>熊:そんじゃあ、また二手(ふたて)に分けることになるんですか?
>源:そうだ。今日っから分かれて貰う。友助には、昨日のうちから手配りに回って貰ってる。
>八:そりゃまた念(ねん)の入(い)ったことで。・・・そんじゃひとつ、ばりばりと遣(や)っ付けちまいますかねえ。
>源:ほう。お前ぇにしちゃ珍しくやる気満々だな。
>八:何を言ってるんですか。やがて弟子を持って一本立ちしようってもんが、急ぎ仕事の5つや6つにおたおたなんかしてられますかってんです。
>源:ほう。見上げた根性だ。それじゃあ、お前ぇと三吉と四郎で3つこなして呉れ。
>八:なんですって? その3人で3軒ですか? そりゃあ・・・
>源:そのくれえこなしてこそ一丁前ってもんだろう? どうだ、やる気が出て仕方ねえだろう?
>八:そ、そうでやすねえ。うーん・・・
>源:立派な親方ってのはだな、仕事が多けりゃ多いほど良い仕事をするもんだからな。
>八:分かってますって。分かってますけど、もう1人、なんとかなりませんか?
>源:そんなことしたら熊の方が1人になっちまうじゃねえか。なあ?
>熊:親方ぁ、そいつはもう勘弁(かんべん)してくださいよ。いくらおいらが頑丈(がんじょう)でも、仕舞いにはぶっ倒れちまいます。
>源:冗談だよ。五六蔵と2人でやれ。

八兵衛たちに割り当たった3軒というのは、同じ一角にあるもので、先般(せんぱん)の火事で焼けてしまった家だという。
それならば、3人でもどうにかこなせそうだった。
今日で出来上がるところは、熊五郎と五六蔵の2人で仕上げることになった。
さて出掛けようかという段になって、源五郎は熊五郎を呼び止めた。

>源:熊、ちょっと待て。
>熊:へい、なんですかい?
>源:こんなときにちょいと厄介(やっかい)なことなんだが・・・
>熊:まだなんかあるんですかい?
>源:ああ。明日っからなんだが、大工になりてえって若いもんが2人来ることになった。お前ぇが面倒を見ろ。
>熊:なんですって? こっちは目が回るような忙(いそが)しさだってのに、若いもんになんかを教えろってんですか?
>源:仕方ねえだろう? 母ちゃんが引き受けてきちまったんだからよ。
>熊:女将(おかみ)さんは、なんかおいらに恨(うら)みでもあるんじゃないですかい?
>源:そんなことはあるか。お前ぇを見込んでのことだ。一先(ひとま)ずは掃除(そうじ)でもさせときゃ良い。段取りを良く見とくように言い付けるんだぞ。・・・そんじゃな。しっかりやれよ。
>熊:お、親方ぁ、そりゃぁねえですよ・・・
>源:あ、それから、名前は万吉(まんきち)と千吉(せんきち)だ。年子(としご)の兄弟だ。口利きは甚兵衛の親爺さんだとよ。
>熊:またあの爺さんですか? なんだか胸騒(むなさわ)ぎがするんですが。
>源:気のせいだろ? ・・・さ、行った行った。昼時分には顔を出すからな。
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