277.【た】 『多芸(たげい)は無芸(むげい)』 (2005.03.28)
『多芸は無芸』
多芸であることは、一つの芸に深く通じることができ難(にく)いから、結局無芸に等しいということ。
類:●器用貧乏何でも来いに名人なし
*********

酔い潰(つぶ)れた六之進を負(お)ぶいながら、熊五郎は、お咲から問われたことについて考えていた。
「どういう女になって欲しいの?」
それは、熊五郎が望(のぞ)めばそういう風(ふう)になろうと努めて呉れるということなのだろうか。
それとも、唯(ただ)単に、参考意見として、聞いてみただけということなのだろうか。

>八:・・・それにしても、お夏ちゃんが鴨の字とねえ。参(まい)ったね、こりゃ。
>咲:八つぁんは不服(ふふく)なの?
>八:そんなことあるかよ。見たことも会ったこともねえ馬の骨に取られるくらいなら、却(かえ)って、鴨の字の方が良いに決まってら。
>咲:そうかもね。・・・でも、稚児(やや)までできちゃってるとは思わなかったわ。
>八:半次んとこだってまだだってのにな。
>咲:八つぁんのとこだって。・・・今からだって遅くないわよ。慌(あわ)てて拵(こさ)えれば、お夏ちゃんとこと同い年になるわ。
>八:そんなの、慌ててどうかするもんじゃねえだろう。
>咲:でも、心強いじゃない。お役人の子と幼馴染みになるのよ。
>八:役人ってったって、へっぽこ同心(どうしん)だろ? 役に立たねえよ。それよりも、偉いお医者になって帰ってくるお夏ちゃんによ、餓鬼が患(わずら)ったら看(み)て貰うってのが良いに決まってら。
>咲:成る程(なるほど)。一理あるわね。小さい子って、直(す)ぐに熱を出すのよね。
>八:お、良く知ってるな。四郎んとこの元吉(げんきち)が、何かってえと、飲んだ乳(ちち)を吐いちまうんだとよ。ちっとも元気じゃねえな。
>咲:ふうん。・・・それじゃあ、あたしも稚児を産(う)むんだったら、お夏ちゃんが帰ってきてからにしようっと。

そんな話が聞こえたのか、熊五郎の背中の六之進が「ううっ」と唸(うな)った。

>八:おっと、危(あぶ)ねえ危ねえ。元坊が吐いちまうなんて話をしたのがいけなかったかな?
>咲:聞こえちゃいないわよ。ぐっすり眠ってるんだから。
>八:ほんとか? まあ、熊の背中だったら、ちっとくらい汚(よご)れても構(かま)わねえけどよ。
>熊:お前ぇなあ。負んぶしてるこっちの身にもなってみやがれってんだ。
>八:そうでかい声を出すなよ。目を覚ましちまうだろ?
>熊:覚ましゃしねえよ。何遍(なんべん)負んぶしてると思ってるんだ?
>八:そうか。そうだったな。六さんを負ぶってくのは、お前ぇが一番だ。ああ、一番だ。
>熊:訳もなく繰り返すなってんだ。
>八:ちゃんと寝かせてやれよ。おいらはお花の奴にお夏ちゃんの話をしなきゃならねえから、先に帰るぞ。
>熊:なんだと?
>八:お咲坊と、さっきの話の続きでもしながら帰りやがれ。じゃあな。

八兵衛は、すたこら走って帰ってしまった。
丁度、帰路(きろ)の半(なか)ば辺りである。

>熊:まったく、なんて友達甲斐(がい)のねえ野郎だ。背負(しょ)うの替わってやろうかの一言ぐれえ言えってんだ。
>咲:ご免ね
>熊:なあに、毎度のことだから、構わねえよ。
>咲:父上のことじゃないの。「だるま」で、取り乱しちゃったこと。
>熊:ああ、そっちのことか。・・・こっちだって、どぎまぎし過ぎたな。好い年扱(こ)いた男がよ。
>咲:そりゃあ、どぎまぎもするわよね。逆上(ぎゃくじょう)されちゃね。泣く子と地頭には勝てない、だもんね。
>熊:そういうんじゃねえんだよ。・・・なんだ、その、もう小娘なんかじゃねえってのは、前っから分かっちゃいるんだがよ、みんながいる前だと、つい、なんて言うか・・・
>咲:分かってるわよ。分かってるのよ。熊さんの気持ちだって気が付いてない訳じゃない。あやさんがそういう風になるのを望んでるのも知ってる。
>熊:そうか。女の勘(かん)て奴にゃ勝てねえな。・・・でもな、身分ってもんがある。
>咲:確かに、それもないことはないの。でも、そんなのは方便(ほうべん)よ。それほど肝心なことじゃないの。・・・あのね、肝心なのは、父上が何を望んでいるのかなのよ。今のあたしには、それを面と向かって聞いてみる勇気はないの。
>熊:そりゃ、そうだよな。六さんは苦労のし通しだもんな。
>咲:だから、・・・だから、今は待って。あたしはお夏ちゃんみたいに、自分の考えで動けない。
>熊:待ってりゃどうにかなるってんなら、良いんだがな。
>咲:うん。どうにかなると良いなって、あたしも思う。
>熊:そうか。

六之進がまた「うっ」と唸った。本当に意識がないのかと疑いたくなる。

>咲:あたし、今のこのまんまでいるのって、嫌いじゃないわ。
>熊:そうか。こっちとしちゃ、ちょっとばかし辛(つら)いな。
>咲:心変わりしちゃう?
>熊:さあ、どうかな? おいらは鴨太郎みたいに一途(いちず)な男じゃねえかも知れねえからな。
>咲:似てるわよ、鴨太郎さんと。昔馴染みだけのことはあるわ。
>熊:あんまり買い被(かぶ)らねえでおいて貰わねえとな。
>咲:買い被ってるんじゃないの。あたし自身に、自信があるの。だってほら、溢(あふ)れんばかりの若さと美貌(びぼう)は、これから鰻(うなぎ)登りなのよ。上昇一途(じょうしょういっと)って奴かしら?
>熊:へっ、良く言うぜ。こっちだって働き盛(ざか)りの男盛りだ。
>咲:下り坂の癖に。

長屋の明かりが見えてきた辺りで、漸(ようや)く、話し振りが軽口(かるくち)めいてきた。
お咲は戸を開け、行灯(あんどん)に火を入れ、六之進の床(とこ)を延(の)べた。
六之進は、蒟蒻(こんにゃく)のようにぐんにゃりと布団(ふとん)に収(おさ)まると、やがて穏やかな寝息を立て始めた。

>咲:今日は話を聞いて呉れて有難う。
>熊:いや。こっちこそ、黙ってたことを言えて、随分楽になったよ。・・・じゃあな。
>咲:お休みなさい。
>熊:・・・ああそうだ。さっき考えてたんだけどよ。
>咲:何を?
>熊:「どういう女になって欲しい」って聞いただろ?
>咲:ああ、そのこと? 良いわよ、もう。どうせあやさんの名前が出てくるんでしょ?
>熊:そうじゃねえよ。・・・あのな、おいらも、そういう風に聞かれて初めて考えてみたんだがよ、誰かの良いとこを寄せ集めてみたところで、何一つ巧(うま)くできやしねえんじゃねえかってことなんだよ。
>咲: どういうこと?
>熊:お咲坊は、どっちかってえと、あれもこれも一通りこなすだろ? そういうのって、大変なんじゃねえかなと思ったのさ。
>咲:それで?
>熊:あれもこれもできる姐(あね)さんみたいのだと、おいらにはでき過ぎで、なんだか気詰(きづ)まりがしちまうかも知れねえってことさ。・・・だから、お咲坊は今のまんまで構わねえってのが前置きでよ、その中の何か1つが、とっても上手(じょうず)にできると良いんじゃねえかと思う。・・・おいらの言ってること、分かるかな?
>咲:うん。分かる。「何か1つ」ってのは、要するに人任(ひと)せだけどね。
>熊:自分で決めるのが一番だろ?
>咲:どうかな? 女はね、そんなことまで、亭主が決めて呉れると楽だなって思ったりする生き物なのよ。
>熊:知るかよ、そんなこと。・・・そんじゃな。

熊五郎は、床に就(つ)いても頭が冴(さ)えてしまって、中々(なかなか)眠ることができなかった。
(あんなことを言っちまったけど、ちょっと図々しかったんじゃねえのか?)
こちらは一介(いっかい)の大工でしかなく、人に誇(ほこ)れるほどの芸も特技も持ち合わせてはいないのである。
ちょっとくらい古い言い習わしを知っているからといって、所詮(しょせん)、学問所に通った者には敵(かな)わないのだ。
そして、それよりも何よりも、やはり、六之進が拘(こだわ)るであろうことは、「身分」なのだ。
つづく)−−−≪HOME