276.【た】 『多岐亡羊(たきぼうよう)』 (2005.03.22)
『多岐亡羊』
1.枝道が多いため逃げた羊を見失うという意味で、学問の道があまりに色々に分かれているため、容易に真理を得難(がた)いこと。
2.転じて、方針があまりに多いために、どれを選んだら良いのか思案に余ること。
類:●岐路亡羊
故事:列子−説符」「大道以多岐亡羊、学者以多方喪生」 漢の楊子の隣家で羊を逃がし、追いかけたがあまり分かれ道が多くて、その羊を見失った。同様にものを学ぶ者は、根本の理を求めず多方に拘(こだわ)ろうとすると、結局一つも得るところなく終わる。
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鹿之助は、碌(ろく)に飲めない酒を2合ばかり飲んで、ほろ酔い機嫌(きげん)で帰っていった。
問題は、六之進の方である。
途中まで水であった筈(はず)のものが、酒に切り替わっていたのである。

>六:あの夏殿が人の親か。早いものだな・・・
>八:なんだい、六さん? 鹿の字の話を聞いてて、孫の顔が見たくなっちまったんじゃねえだろうな?
>六:孫の顔? そりゃそうさ。私がこんな体(てい)たらくでなければ、どこか適当な嫁入り先が決まっていてしかるべきであるところなのだ。今頃は孫を抱いていても良い年だ。それだというのに・・・
>咲:良いのよ、父上。あたしは、却(かえ)って、武家の嫁なんかじゃない方が有り難いの。仕来(しき)たりだ躾(しつけ)だなんて、押し付けられるのは真(ま)っ平(ぴら)御免よ。
>六:八つぁん。咲はこのようなことを言うのだよ。武士の娘の幸せは、立派な武士に嫁(とつ)ぐことではないのか?
>八:どうだろうなぁ? おいらはお武家に生まれたことがねえからな。
>咲:あたしが、立派な武家に生まれてたらそう思ったかもね。でも、現(げん)に、家(うち)は立派じゃないんだもんね。
>六:結局はそこに行き着くのか。私の不甲斐(ふがい)なさに。

>咲:そういうことを言ってるんじゃないの。父上は立派な人よ。立派じゃないのはあたしの方。縄暖簾(なわのれん)には出入りしてるし、一番の話し相手は飾り職とか建具職のお嫁さんたちだし、ちょいちょい出入りするのは大工の若女将(わかおかみ)のとこだし、自分の方から進んでそういうところに行ってるのよ。
>八:そりゃあお前ぇ、そういうとこでの暮らしに慣れちまったんだから仕方ねえだろう?
>咲:それだけじゃないような気がするのよね。
>八:どういうこったい?
>咲:性(しょう)に合ってるのよ。あたしには、武士よりも職人の方が合ってるの。
>八:商人(あきんど)は駄目なのかい?
>咲:うーん。算盤(そろばん)の方はあんまり得意じゃないの。学問所でも、からっきしだったもの。お夏ちゃんと違って医学も駄目、ご法度(はっと)とかそういうことに至っては、論外(ろんがい)よね。
>八:それによ、商人はよ、ぺこぺこ頭を下げなきゃならないしな?
>咲:そっちの方はどうってことないんだけどね。
>六:・・・そうであるな。そのような商人にまで頭を下げる傘貼りよりは、職人の方が余程(よほど)褒(ほ)められるな。
>咲:そんなのを比べてるんじゃないの。何かを作り出すってことが好きなのよ。そして、そういうのを見てるのが好きなの。父上が傘を仕上げるのを見てるのだって好きよ。
>六:そのようなおべっかを言わんでも良い。こう見えても武士の端くれ、非難は甘んじて受ける。
>咲:非難なんかしてないって。・・・さっきも言ったでしょう? 感謝してるのよ。
>六:うむ。・・・そうか。・・・お前も大人(おとな)になったな。そろそろ、本気になって嫁(とつ)ぎ先を当たらねばならんな。

六之進が自分の猪口(ちょこ)に酒を注(つ)ごうとするのを目撃して、お咲はその手から銚子を取り上げた。

>咲:父上ったら、いつからお酒に替えてるの? 駄目(だめ)じゃない。
>六:なあに、今日は目出度(めでた)い日ではないか。こういう日は水など飲んでいては失礼になる。
>咲:誰に失礼になるって言うのよ。べろんべろんに酔っ払っちゃう方がみんなに失礼でしょう?
>六:酔ってはおらん。うん、酔っ払ってなどおらん。
>咲:酔っ払いほどそう言うのよ。あたしだって伊達(だて)にこんなとこで働いてる訳じゃないんだからね。
>八:良いってことよ、お咲坊。半年に1度くらいならなんてことはねえ。
>咲:半年に1度どころじゃないわよ。先月だって、お屠蘇(とそ)で酔っ払っちゃって負(お)んぶして貰ったんだから。
>六:良いではないか。誰に迷惑(めいわく)が掛かる訳でもなし。
>咲:迷惑が掛かってない? 冗談じゃないわよ。負ぶって呉れた五六ちゃんでしょう? 貰ったお年玉を余計に使った八つぁんと熊さんでしょう? それに、大声で「今年も厄介(やっかい)を掛けますよー」なんて騒がれたご近所さんにも、ちゃんと迷惑が掛かってるわよ。
>六:そ、そんなことまでしたのか?
>咲:なんにも覚えてないんだから、困っちゃうわよ。・・・ねえ、八つぁん?
>八:おいらは別に迷惑だとは思わねえよ。騒がしいのは嫌いじゃねえもんな。
>熊:一緒んなって大騒ぎしといて何言ってやがる。「八兵衛とお花を宜しくお願いしまーす」なんてよ。
>八:お、おいらがそんなこと言ってたのか? 恥ずかしいーっ。
>熊:恥ずかしいのはお花ちゃんの方だろ。お前ぇじゃねえの。
>咲:そういうこと。一番恥ずかしかったのはあたしなのよ、父上。だから、もう飲んじゃ駄目。
>六:そ、そうか? ・・・だが、今日の私はそのようなことはしない。大丈夫(だいじょうぶ)だ。

お咲の言う通り、酔っ払いの「大丈夫」ほど当てにならないものはない。
六之進は、追加の銚子を持ってきたお町が、三吉と2言(こと)3言話して戻っていく間に、卓に突っ伏していた。

>咲:あーあ、やっぱり寝ちゃった。ご免ね、熊さん。
>熊:なんでおいらに謝(あやま)るんだよ。真逆(まさか)、負ぶってくのがおいらだって決まってるようなことは・・・
>八:決まってるじゃねえか。言っただろ? 五六蔵が負んぶしてくときに「次はおいらが負ぶうから頼むよ」ってよ。
>熊:あっ。そうか忘れてたぜ。
>咲:それじゃ、宜(よろ)しくね。
>熊:まあ、今日は仕方ねえか。次は八の番だからな。
>八:いっそのこと、これからずうっと熊がやりゃあ良いじゃねえか。
>熊:そうやって、面倒なことは直(す)ぐに誰かに押し付けようとする。
>八:そうじゃねえってんだ。お咲坊と一緒になっちまえってことだよ。

>熊:な、何を言い出しゃがる。
>八:だってよ、おいらと違って天涯孤独(てんがいこどく)だろ? お父つぁんもおっ母さんもいねえんだしよ。早いとこ片付いちまえ。
>熊:それはそれ、これはこれだろ? それに、なんでお咲坊じゃなきゃいけねえんだよ。
>咲:なによその言い方。気に入らないわね。まるであたしに、女として至(いた)らないところがあるみたいじゃないの。
>熊:「女として」だと? そんなもん、至らねえとこばっかりじゃねえのか?
>咲:あたしのどこが足りないってのよ。
>熊:姐(あね)さんほど淑(しと)やかじゃねえ。菜々ちゃんほど愛嬌(あいきょう)がある訳じゃねえ。お八重ちゃんほど料理が上手(じょうず)じゃねえ。お花ちゃんほど奥床(おくゆか)しくねえ。お夏坊ほど賢(かしこ)い訳でもねえ。お町ちゃんほど器量(きりょう)が良い訳でもねえ。数え上げりゃ切りがねえ
>咲:なによ。誰かと比べりゃ良いってもんじゃないでしょう? あたしはあたしなの。誰かの真似(まね)をして生きてるんじゃないんだからね。
>四:熊兄い、幾(いく)ら売り言葉に買い言葉としても、そいつは言い過ぎです。
>三:お、お咲ちゃん、酒の席での戯言(たわごと)だから、気にすることはねえよ。・・・熊兄い、ちょいと酒を過ごしてやすぜ。
>熊:うん。喋(しゃべ)っていながら、言い過ぎてることは分かってた。でも、止まらなかった。・・・す、済まねえ、お咲坊。
>咲:まったく、世の男どもときたら、なんでも酒の上での行き過ぎだで済ましちゃうんだもんな。敵(かな)わないよね。女房連中の苦労が分かるわね。

>五六:面目(めんぼく)ねえ
>咲:なんで五六ちゃんが謝(あやま)るのよ?
>五六:そういう亭主連(れん)の1人だからで。
>咲:まったく、良い弟弟子(おとうとでし)を持ったもんよね。・・・分かったわよ。あたしもちょっと突っ掛かり過ぎたわよ。だけどね熊さん、1つ教えて呉れる? あたしは今出た人たちのうち、誰を見習うべきなんだと思うの?
>熊:そ、そんなこと聞くなよ。
>咲:じゃあ、聞き方を替えるわ。あたしにどういう女になって欲しいの?
>熊:そいつぁあ・・・
>八:それくらい答えてやれよ。
>熊:ちょ、ちょっとばかし時(とき)を呉れねえか?
>咲:なによ、日頃から考えたこともないの? 薄情(はくじょう)者。
>熊:そんなこと言われたってよ、はいそうですかってみんなの前で答えられるかよ。

>八:へへっ、一丁前に照れてやがら。
>熊:五月蝿(うるせ)えや。
>八:「お咲坊はそのまんまで良いんだよ」くらいのことを言えねえもんかね、この唐変木(とうへんぼく)は。まったく、じれったくてしょうがねえや。
>熊:そんな歯の浮くようなこと、誰が言えるか。
>三:・・・あの、差し出がましいようですが、言うときはびしりと言った方が良いんじゃねえですか?
>五六:三吉。お前ぇ、人事(ひとごと)だと思って勝手なことを言うんじゃねえ。熊兄いには、熊兄いのやりようってもんがあるんだからよ。
>八:お? 五六蔵は随分と熊の肩を持つじゃねえか。
>五六:そういう訳じゃありやせんよ。唯(ただ)、やっぱりこういうのって難しいと思いやすよ。大工と商家(しょうか)の娘ってのとは大分(だいぶ)違いやすからね。
>咲:待ってよ。さっきから聞いてりゃ、まるであたしと熊さんとが一緒になれば良いような話になってるじゃないの。
>五六:ええ。あっしはそうなって呉れりゃ良いと思ってやすよ。
>四:きっと、姐さんもそうなって欲しいと望んでます。
>咲:そんなこと、あたしの一存(いちぞん)じゃ決められないのよ。父上がどうさせたいのかだって、あるんだもの。それよりも何よりも、今、あたし自身がどうしたいのかだって、分からないのよ。

>八:そんな泣きそうな顔するなよ。なあ、お咲坊。
>四:今日は、お夏さんのあんな話があったから、皆さんちょっと我を忘れてるんだと思うんです。
>五六:そうかもな。・・・あっしも、ちょいと出過ぎたことを言っちまったようです。
>八:そうか。そんじゃ、今日はこれくらいでお開きとするか。
>熊:ああ。おいらもちょいと頭を冷やして考えるよ。薄情者なんて、もう二度と言われたくねえからな。
>八:なあ、お咲坊。お夏ちゃんに文(ふみ)でも書いてみちゃどうだ? 行って返ってくるまで1月くらい掛かるだろ? その間に色んなことを考えてみりゃ良い。
>咲:うん。そうする。
>八:・・・三吉。お前ぇはここに残ってっても良いぞ。お町ちゃんと、2人の行(ゆ)く末(すえ)について語(かた)らってけ。
>三:そ、そりゃあ、無理ってもんですよ。あっちは、今んとこ、そんな考え、ちっともねえんですからね。
>八:「言うときはびしっと言え」って言ったのは、手前ぇじゃねえか。
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