270.【し】 『大山(たいざん)鳴動(めいどう)して鼠(ねずみ)一匹(いっぴき)』 (2005.02.07)
『大山鳴動して鼠一匹』 「大山」を「泰山」とも書く。
前触れの騒ぎばかりが大きくて、結果は大したことがないことの喩え。
ホラティウスの言葉から出た西洋の諺。
人物:ホラティウス(クイントゥス・ホラティウス・フラックス) 古代ローマの詩人。前65〜前8。その「詩論」は、アリストテレスの「詩学」と共に、後世に大きな影響を与えた。
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近頃の「だるま」はとても混んでいる。これも、看板娘・お町のお陰である。
常連(じょうれん)ということで1卓くらいは空けて貰えるのだが、友助まで入れて6人ともなると、とても座れるものではない。
5回のうち2回は、友助が気を利かせて帰っていくという始末(しまつ)である。

>三:今日はどうだい、お町(ま)っちゃん?
>町:あら三吉さん、いらっしゃい。ええとね、詰めて貰えば6人、なんとかなるわよ。ちょっと外で待ってて。今、片付けるから。
>八:よう三吉、なんだかこの頃、結構しっくり来てるんじゃねえか、お町ちゃんと?
>三:えへへ、そうですか? おいらはそうでもないと思うんですけど。
>八:なにを謙遜(けんそん)してやがる。おいらたちに遠慮(えんりょ)したってなんにも出やしねえぞ。
>三:そんなんじゃねえですって。だって、まだ2人っきりで会ったこともねえんですよ。そんなんじゃどうにかなったとは言わないでしょう?
>八:そうか? おいらんときだって、2人っきりになんかなったこともねえぞ。
>三:だって、八兄いのときは、なんの彼(か)の言ったって結局は見合いだったじゃないですか。親方と姐(あね)さんも立ち回ってくだすったし。
>八:そんなこと言ったら、お前ぇたちだって、事の起こりは見合いからじゃねえか。たいした違いはねえだろ?
>三:そう言いますけどねえ、なんだか随分違うようですよ。お町ちゃんったら、ここでの仕事が面白くなっちゃったんだかなんだか、近頃じゃ見合いの話があったなんてことおくびにも出しちゃいねえんですもんね。
>八:そうか。そう言や、親方もお前ぇのことを言わなくなっちまったもんな。すっかり忘れちまったんじゃねえのか?
>三:そりゃあねえですよ。
>熊:余(あんま)りな言い方するんじゃねえよ。

そんなことを言っていると、お咲が暖簾(のれん)を潜(くぐ)って顔を突き出した。

>咲:片付いたわよ。お待ち遠様
>熊:なんだ、今日は来てたのか?
>咲:お花さんも来てるわよ。ねえ、八つぁん?
>八:ん? ああ。
>熊:なんだお前ぇ、端(はな)っからそれを知ってて「鰊(にしん)が食いてえ」なんて言い出しやがったのか?
>八:まあな。鰊があるのも知ってたのさ。へっへーっ。
>咲:まあ残念。鰊は終わっちゃったの。
>八:なんだと? 親爺(おやじ)の野郎が一杯仕込んどくって言ってたんじゃねえのか?
>咲:一杯あったわよ。でも、終わっちゃったの。目刺しで我慢しといて。さ、入った入った。

冗談で言ったつもりだったのに、本当に鰊が目刺しになってしまい、八兵衛は渋い顔をした。
しかし、店の中に入って、直ぐに理由が分かった。
駕籠舁(かごか)き風体(ふうてい)の厳(いか)つい男が7人も来ていたのである。

>五六:うひゃあ。こりゃあ壮観(そうかん)でやすねえ。
>八:なにが壮観なもんか。お陰でおいらの鰊が・・・
>三:あれ?
>熊:どうかしたのか?
>三:ええ。あの、居やがったんで。
>八:虫か? 冬には虫なんか出ねえもんだがな、珍(めずら)しいな。
>三:虫じゃありませんよ。人に決まってんじゃないですか。
>熊:誰がいたってんだ?
>三:この前話したじゃないですか。一緒に田舎(いなか)を飛び出してきた奴ですよ。
>熊:するってえと、根塚(ねづか)のご隠居様のお店(たな)に雇(やと)われたっていう奴か?
>三:そうです。ほら、みんなおんなじ格好をしてるでしょう? あれがお仕着せなんですね、きっと。
>熊:そういうことだったら、挨拶(あいさつ)くらいして来い。知らん振りって訳にもいかねえだろ?
>三:そんじゃ済いません。ちょっくら行ってきます。

三吉が「よう、宣太じゃねえか」と声を掛けると、相手の方も「おお、三吉、久し振りだな」と返してきた。

>三:お前ぇ、なんでこんなとこに来てんだ?
>宣:いやなにね、ここにいる2人がよ、ふらっと入ったとこに別嬪(べっぴん)がいるってもんだからよ。そんでもって、一目で惚(ほ)れちまったっていうもんだから。
>三:惚れただと?
>宣:別に良いじゃじぇえか。お前ぇこそ惚れちまってるってんだろ?
>三:そんなんじゃねえや。
>宣:まあそう突っ張るなって。それとも何か? 真逆(まさか)、お前ぇと好い仲だなんて言わねえよな?
>三:か、揶揄(からか)うなってんだ。
>宣:なんだよ、脅(おど)かすな。その慌(あわ)てっ振りは尋常(じんじょう)じゃねえぞ。真逆お前ぇ・・・
>三:止(よ)せやい。そんなんじゃねえんだって。
>宣:そうか? 怪(あや)しいな。・・・まあ良いや。それはそうと、あっちにいるのがお前ぇの兄(あに)さんたちかい?
>三:ああ。親方は来ちゃいねえがな。
>宣:こんなとこでぺこぺこ頭を下げるのもなんだから、あっちには行かねえぞ。その代わりと言っちゃなんだが、最後の身欠き鰊を持ってけ。
>三:良いのか?
>宣:だってよ、俺たちだけで、もう10枚は食ってるんだぜ。
>三:お前ぇたちかよ。・・・でも、丁度良かった。鰊が食いてえって言ってる兄いがいるから。
>宣:聞こえてたよ。あんだけでかい声で喚(わめ)いてりゃ、70の年寄りだって聞こえら。
>三:それもそうか。

あまり長話をしてはということだろう、宣太は三吉に鰊の皿を手渡した。

>三:済まねえな。・・・あ、そうだ、明日っから根塚のご隠居様の家(うち)の仕事をすることになったんだ。
>宣:なんだと? 大旦那様のか?
>三:ああ。ちょっと変わった話だったからてんやわんやの大騒ぎだったが、蓋(ふた)を開けてみりゃなんのこともなく落ち着いたぜ。ほっとしたよ。
>宣:大旦那様がか? そりゃあ気を付けた方が良いな。
>三:でも、案外(あんがい)話の分かるお人だったぞ。こっちが気抜けするくらいだ。
>宣:だから騙(だま)されるなって言ってるんだよ。粗探(あらさが)しの達人だからな。初めが巧く行ったからって、次の日も巧く行くなんて考えなら、大間違いだからな。
>三:そ、そうなのか? そりゃあ拙(まず)いな。責任を持つのが、どっちかってえと頼りねえ方の兄いなんだ。
>宣:ご愁傷(しゅうそう)様。精々(せいぜい)頑張りな。ひっひっひ。

三吉は、鰊の皿と暗い表情とをぶら下げて戻ってきた。

>八:おう、そいつは品切れになった筈(はず)の鰊じゃねえか。なんだ、おいらへの貢(みつ)ぎ物か?
>三:え? ああ、まあ、そういうところです。狭(せま)いとこで挨拶(あいさつ)も堅苦しいんでってことで。
>八:なんだ、中々良い奴じゃねえか。元雲助(くもすけ)とは思えねえな。
>三:いやあ、下品な田舎(いなか)もんに違いはねえですよ。
>熊:三吉。昔馴染みと久し振りに会ったってのに、なんでそんな辛気(しんき)臭(くせ)え面(つら)してるんだ?
>三:あいつは宣太ってんですがね、宣太の野郎が言うには、根塚のご隠居様って人は粗探しの達人で、仮令(たとえ)今日切り抜けたからって、明日もにこにこしてるって人じゃないそうなんです。
>八:なんだ、そんなんでしゅんとしちまってるのか? 安心しろってんだ。この八兵衛さんが付いてるんだからな。
>熊:おっ、大きく出やがったな。
>八:あたぼうよ。おいらを誰だと思ってるんだ? 物識(ものし)りの八兵衛様だぞ。
>熊:だから心配なんじゃねえか。お前ぇなんか、どんなに捻(ひね)り出そうってったって屁(へ)1つくらいしか出せやしねえだろってんだ。
>八:何をぅ?
>五六:まあ、そこまでにしといてくださいよ。この間みてえに、前っから兎(と)や角(かく)言ったって仕方ねえですって。
>熊:それもそうだな。
>八:まあ、おいらの手並みを見とけば良いのさ。流石(さすが)は八兄いだって拍手喝采(かっさい)するぞ。
>熊:終わってから言えっての。

やがて宣太たちは勘定(かんじょう)を済ませて立ち上がった。
帰りしな、こちらにぺこりと会釈(えしゃく)をしていった。

>八:良い奴じゃねえか。特に、鰊を寄越(よこ)すあたりがよ。
>三:まあ、義理人情だけは一人前ですから。
>八:良いねえ、義理堅いってのは。お前ぇも見習えよ。
>三:へーい。・・・唯(ただ)ね、あいつにゃ困ったところが1つだけありましてね。超(ちょう)の字が付くほどのお節介なんです。
>八:有り難(がて)えことじゃねえか。
>三:それが、空(から)回りなんですよ。あれもこれもして呉れるのは良いんですが、ちっともこっちの役に立ちゃしない。下手(へた)すると、明日の晩も来ますよ。「どうだった?」なんてって。
つづく)−−−≪HOME