250.【せ】 『積善(せきぜん)の家に余慶(よけい)あり』 (2004.09.21)
『積善の家に余慶あり』
善行を積み重ねた家には、必ず思い掛けない良い事が起こり、幸福になる。また、子孫にまで慶事が起こるものである。
出典:「易経−坤文言」 「積善之家必有余慶、積不善之家必有余殃」
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八兵衛は程なく気が付いたが、暫(しばら)くの間、朦朧(もうろう)としていた。
気絶している間に熊五郎とお花が話した内容については、ここでは話さないことになっていた。
別に、嫌がらせをしている訳ではない。
源五郎とあやの裁定(さいてい)を待たずには、安易なことを伝えられなかったのである。

>八:あれ? おいらどうしちまってたんだ?
>熊:気を失ってやがったのさ。お前ぇ、そんなことも分からねえのか?
>八:あ、そうか。・・・ときに、おいらなんで気を失ってたんだ?
>熊:お花ちゃんが、近々ここを辞(や)めるんだとよ。
>八:そ、それだよ。お花ちゃんはどうしちまったんだ? 真逆(まさか)もういなくなっちまったなんてことじゃねえだろうな?
>熊:まだいるって。中で酒を付けてるとこだ。そんなに急にいなくなっちまったら、ここの親爺(おやじ)が困っちまうだろう。
>八:そりゃあそうだ。・・・そんで? 本当に見合いしちまうんだって?
>熊:そういうことらしい。
>八:嫌がってるんとは違うのか?
>熊:お父つぁんの言い付けらしい。断われねえし、断わる気もねえとよ。
>八:嗚呼(ああ)、なんてこった。ここに八兵衛って男がいるってのによ。
>熊:父親(てておや)の言うことじゃ、赤の他人のおいらたちが口を挟む訳にもいかねえだろう?
>八:そりゃあそうだけどよ、その前に一遍だけでも相談して呉れてたら、おいら土下座でもなんでもしたぞ。
>熊:やってみるか? もしかすると、今からなら間に合うかも知れねえぞ。
>八:ほんとか? 間に合うって言ってたか?
>熊:そうは言ってねえが、指を咥(くわ)えて見てるだけってのよりは良いだろう?
>八:そりゃそうだな。ようし・・・

程なく、お花が銚子を運んできたとき、八兵衛は、本当に土下座して見せた。
店内にいる客が一斉にこちらの方に目を向けた。

>八:お花ちゃん。
>花:は、はい。
>八:もう遅いって言われたらそれきりなんだが、もし間に合うもんなら、どうか、おいらと一緒になっちゃ呉れねえか?
>花:そ、そんなこと言われても・・・
>八:そこをなんとか。な? 考え直してみて呉れよ。
>花:本気なんですか?
>八:本気だともよ。だからこうして土下座してるんじゃねえか。おいら、自慢じゃねえが、源五郎親方以外にこんな格好したことなんかねえ。
>花:手を、手を上げてください。そんなことされると、あたし、困っちゃいます。
>八:お父つぁんに、もう一遍会わしちゃ呉れねえか? おいらの口から頼んでみてえんだ。
>花:でも、もう、親方に頼んでしまいましたから。
>八:親方? その親方が、どこのどなたかは知らねえが、その親方にも頭を下げに行くからよ。

外野(がいや)からは、「聞いてやれよ、お花ちゃん」やら、「よ、色男」やらと野次が飛ぶ
お花は益々(ますます)顔を赤くして、戸惑っている。
見兼ねて、熊五郎が助け舟を出した。

>熊:なあ八、もうそれくらいにしとけ。明日、おいらたちも一緒になって、その「親方」のところへ頭を下げに行ってやるからよ。
>八:ほんとか?
>熊:ああ、本当だ。これだけ雁首(がんくび)を揃(そろ)えてりゃ、そのお人だって耳くらい貸してくださるだろうよ。
>八:そいつは有り難(がて)え。・・・お花ちゃん、もしも、その「親方」が良いと言ってくだすったら、おいらのことも本気で考えてみてくれるかい?
>花:は、はい。
>八:やったあ。ようし、熊、景気付けだ。今夜は飲むぞ。
>熊:お前ぇなあ。そんな風だから、本気なんだかどうか、お花ちゃんに疑われちまうんだ。
>八:だ、だってよ。ほ、ほれ、見てみろよ。手も膝も震えちまってて、酒でも入らねえと正気じゃいられねえんだ。

確かに、八兵衛の手は震えてしまっていて、猪口(ちょこ)も満足に持っていられないような状態だった。

翌朝、どこかへ直談判(じかだんぱん)に出掛けるものと意気込んでいた八兵衛を引き連れて、熊五郎たちは源五郎の待つ居間へ上がり込んだ。

>源:おう、来やがったな?
>熊:「来やがったな」じゃありませんぜ。ほんとにほんとなんでやすか?
>源:どうやら、そういうことらしいな。・・・どうだ、熊、羨(うらや)ましいか?
>熊:いやあ、羨ましいには羨ましいんですが、それより、こんなに旨(うま)い話になっちまって良いんですか?
>八:・・・やい熊、お前ぇ、親方と2人、何を訳の分からねえこと話してやがるんだ?
>熊:だってお前ぇ、昨夜(ゆんべ)言ったじゃねえか。お花ちゃんの見合いを頼んだっていう「親方」に頼みに行くんだって。
>八:おうよ。だから、こんなとこで茶飲み話なんかしてねえで、出掛けようって言ってるんだ。
>熊:だから、来てるんじゃねえか。うちの親方だよ、その「親方」ってのは。
>八:なんだと? お前ぇ、なんでそんなこと知ってやがるんだ?
>熊:お前ぇが勝手に気を失ってたんだろ? 五六蔵だって三吉だって聞いてたぞ。なあ?
>五六:へい。ちゃんと聞きやした。
>三:勿論(もちろん)です。
>八:なんだよ。そういうことならそうだって、先に
教えて呉れよな。
>熊:だってよ、親方がお花ちゃんの相手をお前ぇにするかどうか分からねえんだからな。
>源:そうだな。そこんとこはまだ決めちゃいねえ。
>八:そ、そりゃあないですよ、親方。おいら、本気なんですぜ。始めにお花ちゃんが「だるま」を辞めるって聞いたときにゃ、ほんとに目の前が真っ暗になったんですから。
>熊:親方、八の野郎、お花ちゃんに土下座して頼んだんですぜ。
>源:ほう。やるときはやるじゃねえか。

後ろで慶二をあやしていたあやが、「まあ」と言って口を押さえた。
慶二が「ぶう、ぶう」と嬉しそうな声を上げた。

>熊:それで、親方。お花ちゃんの相手ってのには、八の奴と決めてるんですよね?
>源:もう1日待て。
>八:どうしてですか?
>源:お花ちゃんに決めさせてやろうじゃねえか。
>八:と申しますと?
>源:・・・おい、あや。行ってきて呉れるな?
>あや:はい、行ってきます。目の前で八兵衛さんの土下座を見せられて、吃驚(びっくり)しちゃってるでしょうから。
>熊:却(かえ)って良くなかったってことですかい?
>あや:普通の人なら「そんな馬鹿な」って思うような考え方をするのよ、嫁入り前の娘はね。でもね、ちゃんとお話を聞いてあげると、素直になるものですからね。安心して良いわよ。わたしが巧く纏(まと)めてきてあげますから。
>源:お前ぇ、そんなこと言っちまって良いのか?
>あや:大丈夫でしょう。だって、この家はここのところ、ずっと運が向いてますから。
>源:俺はまだ後厄(あとやく)だぜ。
>あや:あら、親方らしくもない。そんな迷信(めいしん)、まだ信じてらっしゃるんですか?
>源:そう言われちゃ、なんにも言い返せねえじゃねえか。
>三:・・・ねえ親方、おいらにもそのお零(こぼ)れがいただけやすかね?
>源:そんなもんばっかり頼ってるんじゃねえ。自分で頑張ろうって気がなきゃ、巧くいくもんだって駄目になっちまう。
>三:へーい、そうでやした。もうちょいと腰を据えてやってみることにします。

>あや:でもね、八兵衛さん。話は今日纏めてきますけど、ちゃんと筋を通したところで本決まりですからね。慌てないようにしてくださいね。
>熊:そりゃそうだ。どうせ今夜も「だるま」に行かなきゃならねえんだからな。
>八:お、おいら、どんな顔でお花ちゃんと会えば良いのかな?
>熊:いつも通りにしてりゃ良いんだ。
>八:そんなことができるんだったら、お前ぇなんかに聞くかってんだ。
>熊:はっはっは。それもそうだな。

>あや:お花ちゃんの後には誰がなるのかしらね、「だるま」は?
>熊:親爺も頭を抱えてるんじゃないですかねえ。
>あや:暫(しばら)くはお咲ちゃんかしら?
>熊:じょ、冗談でしょ? あんな跳ねっ返りじゃ、客がみんな逃げちまう。
>あや:そう思う? お咲ちゃん、近頃滅法(めっぽう)色っぽくなったとは思わない?
>熊:そ、そんなことおいらが知る訳ないじゃありませんか。・・・まったく、姐さんも人が悪い

とは言いながら熊五郎は、三吉が巧くいくと残るは自分だけになるのか、などとも考えていた。
騒ぎを聞き付けて、静(しずか)と源太が、どたどたと走ってきた。

>静:ねえ、なーに? 面白(おもしょ)いことでもあったの?
>あや:そうよ。八兵衛さんにお嫁さんが来るの。
>八:あ、姐さん、そいつはまだだって・・・
>あや:良いの。ねえ、静?
>静:ハチにお嫁さん? わあ、良いな。そんじゃね、あたしもおっきくなったらハチのお嫁さんになる。
>五六:持(も)て持てでやすね、八兄い。
>静:モテモテ、モテモテェ。あっはは。

あやの腕の中では、慶二が腕を振り回しながら「ぶうぶう」と声を上げていた。

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