208.【さ】 『触(さわ)らぬ神に祟(たた)りなし』 (2003/11/25)
『触らぬ神に祟りなし』
関わり合わなければ、禍(わざわい)を招(まね)くことはない。
類:●It is ill to waken sleeping dogs.寝ている犬を起こすのはよくない<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
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お花が追加の酒を運んできた。
伝六は訝(いぶか)しそうな顔で、じろじろとお花を見詰めていた。

>花:あたしの顔に何か付いてる? ええと・・・
>伝:伝六ってもんです。不躾(ぶしつけ)なんでやすが、どっかで会っていやせんか?
>花:いいえ。見覚えないです、じゃない、見覚えないけど。
>伝:そうかなあ。確かにどっかで・・・
>咲:何よ、伝六さん。新手の口説き文句?
>伝:そんなんじゃねえや。・・・ああ、おいらはよ、この間まで桃山の旦那んとこで下っ引きをやってたんだがね。小石川界隈(かいわい)もしょっちゅう歩いたりしてるから、そんときにでも見掛けたのかな?
>花:おっ母さんが足を挫(くじ)いちまったんで、ここ1月ばかし通ってるから。
>伝:・・・1月か。そんなに最近のことなのに覚えてねえとはな。俺も焼きが回ったな。
>八:お前ぇもか。ここのおからごときで腹を壊すくらい衰えてきちまったって、おいらのことばっかり言ってられねえな。
>伝:一緒にするな。
>八:先月のことくらいおいらだって覚えてるぜ。それを忘れちまってるってんなら、相当呆(ぼ)けてるぜ。
>伝:何を言いやがる。普請奉行のことで、頭が一杯だったんだよ。仕方ねえだろう。

>花:お夏ちゃんも話してたけど、その普請奉行って、藤木なんとかっていうお爺ちゃんですよね、じゃない、お爺ちゃんよね?
>咲:知ってるの、お花ちゃん?
>花:いいえ。ご当人じゃないの。その息子っていう人。
>咲:普請奉行の跡取りってこと?
>熊:嘉剛(よしたけ)の親父ってことか、猪ノ吉?
>猪:そうなんだろうな、きっと。
>咲:一体何があったの?
>花:そ、そんなこと・・・
>八:言いたくねえんだったら、言わなくたって良いんだぜ。
>花:いえ。言えない訳じゃないんだけど、恥ずかしいから。・・・でも、おっ母さんの足を挫(くじ)いた原因ってのが、そいつの家の早駕籠(はやかご)だったのよ。
>咲:そうなの? じゃあ、治療代を貰わなくっちゃ。
>花:そんなこと・・・。こっちは商売だから、お武家様を相手に回したりしたら、潰(つぶ)されちゃうかも知れないもの。
>八:そうかい。そりゃあ、難儀なことだったな。
>熊:弱い方ってのは、長いものに巻かれてるしかないのかね。やんなっちまうぜ。

八兵衛は、すっかり同情してしまっていた。
熊五郎たちの方は、一体そのどこに恥ずかしがることがあるのかと、思案顔のままであった。

>咲:それで、その奉行の息子で、弱い弟子の父親ってのは、・・・ああ面倒臭い、名前はなんていうの?
>猪:確か、嘉道(よしみち)だったかな。
>咲:その嘉道からは、なんの音沙汰もないの?
>花:それが、遣いの者だとかいうのが3人ほどきたんだけど・・・
>咲:見舞い金でも持ってきた?
>花:いいえ。駕籠が遅れたのはお前のせいだって、お店に怒鳴り込んできたの。
>八:なんだそりゃ。とんだ難癖(なんくせ)じゃねえか。
>咲:どうしろって?
>花:5両(約40万円)出せって。そんなの、出せる訳ないじゃない。
>熊:そりゃあ酷(ひで)え。
>八:自分の方からぶつかっといて、銭を寄越(よこ)せなんての聞いたこともねえぜ。許しちゃおけねえな。なあ熊、懲(こ)らしめてこようぜ。
>咲:駄目よ。相手はお武家様でしょう? 逆にこっちがやられちゃうわ。
>八:こっちには、千場道場の師範代が付いてるんだぜ。なあ、若先生。
>猪:そう簡単に言うなよ。こっちは、他流試合は駄目だの、謂われなき果たし合いは駄目だのって、却(かえ)って雁字搦(がんじがら)めなんだからよ。
>八:そうなのか? それじゃあ、もうちょっと作戦を練(ね)らなきゃ駄目だな。

>花:そんなこと、しなくったって・・・
>伝:あっ。思い出したぜ。
>八:な、なんだ伝六。素っ頓狂な声なんか出すなよ。こちとら真剣なんだからよ。
>伝:やっと思い出したよ、八公。もうその必要はねえんだよ。その一件はもう解決してる。
>八:なんだと? お前ぇ、いつの間に片付けちまったんだ?
>伝:片付けたのは俺じゃねえよ。その、お花ちゃんだ。
>八:なんだって? どういうこったい、お花ちゃん?
>花:あたしの口からは・・・
>伝:その3人ってのは、藤木の屋敷のもんじゃねえよ。かといって、まったく関係ねえやくざもんってのでもねえ。嘉道が護身のために雇ってる奴らだ。
>八:それで?
>伝:こてんぱんに伸(の)されてよ、尻に帆掛けて逃げてった。
>八:誰が助けに来てくれたんだ? 鴨の字か?
>伝:生憎(あいにく)、桃山の旦那はお役目で他所(よそ)に行ってたのさ。
>八:それじゃあ、誰なんだよ。じらさねえで教えろよ。
>伝:だから言っただろ。お花ちゃんが片付けたんだってよ。
>八:なんだとお?

伝六が聞いた話では、お花は幼い時分から護身術を学んでいて、今ではいっぱしの腕前であるという。
ごろつき上がりごときが束になって掛かっても、相手にならないほどだという噂まで立っているらしい。

>八:へえ。こいつは魂消た。・・・凄いんだな、お花ちゃん。おいら、見直したぞ。
>花:そんな。恥ずかしい・・・
>熊:なるほど。お夏坊はそれを知ってて。・・・はあ、たいしたもんだ。
>花:あんまり言わないでください、じゃなくって、言わないでよね。
>熊:もう話し方なんかどうでも良いからよ、なんでお花ちゃんがそんなのをやるようになったのか、教えて呉れねえか?
>花:はあ。・・・あたし、小さい頃身体が弱くって、お父つぁんやおっ母さんに心配ばっかり掛けてたんです。それで、近所に住んでたお師匠様に、どうやったら元気な身体になれるのって聞いてみたんです。そしたら・・・
>咲:でも、名のあるお師匠様じゃ、月謝とか大変でしょう?
>花:「べったら漬け1本で良い」って言って呉れまして。
>熊:随分と安い月謝だな。
>花:大好きなんですって、お漬物が。変わった方ですから。その分はお武家様から取るからって。
>熊:それを今でも続けてるのかい?
>花:今は恩返しに、時々若い娘さんたちの相手をしてあげてるだけです。
>熊:猪ノ吉とおんなじじゃねえか。こんな小汚い縄暖簾(なわのれん)になんか来てねえで、師範代でもやってた方がよっぽど稼ぎが良いんじゃねえのかい?
>花:でも、お夏さんに誘われちゃったから・・・
>咲:そうだったの。また、悪い女に見込まれちゃったわね。

>花:でも、あたし、ここで使って貰って良かったと思ってるの。だって、とっても楽しそうだもの。
>咲:嫌味じゃなくってそう思う?
>花:勿論(もちろん)。人と話すのって苦手だったの。でも、ちょっとずつ治せそう。
>咲:それなら良かった。あと1日くらい、あたしが小姑(こじゅうと)みたいに口煩(くちうるさ)くしてあげるね。
>花:お願いね、お咲ちゃん。

隠し事を話してしまったせいか、然(さ)もなければ元々素養があったのか、お花は、一点の曇りもない笑顔を作って見せた。
八兵衛は、やっと、自分がお花に惚れてしまったのだと、気が付いた。
しかし、そんな物凄いお花に惚れてしまって良いのだろうかと、少々複雑でもあった。

>伝:なあ、お夏ちゃんが抜けちまった分、お花ちゃんに混ざって貰うってのはどうなんだ?
>咲:賛成えーっ。
>熊:おいおい、本人の事情ってものが先だろう。なあ、お花ちゃん?
>花:是非(ぜひ)、あたしも混ぜてください。お夏ちゃんみたいにはできないけど、誰かのためになりたい。・・・ううん、そうじゃない。誰かから必要にされたいの。
>咲:それならもう大丈夫。・・・ほら、八つぁんなんかもう、お花ちゃんなしじゃ駄目って感じだもんね。
>八:ん? おいらがなんだって?
>咲:ほうらね?
>花:はあ。ちょっと、嬉しいですが。
>熊:おいらがお花ちゃんだったら、八の野郎だけは遠慮しとくがな。こいつと関わると碌(ろく)なことにならねえ。
>伝:違(ちげ)えねえ。
>八:なんだとこの野郎。馬鹿にしてやがるのか。
>伝:俺じゃなくって、熊公を怒れってんだ。お門違いなんだよ。
>八:あ、そっか。そいつぁあ済まなかったな。へへ。
>咲:お花ちゃん、どうやら、八つぁんは駄目みたい。あたしもあんまりお奨めはしないわ。
>花:そんなことありません。
>咲:え?
>熊:じょ、冗談も大概にして呉れよな。寿命が縮まるじゃねえか。
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