205.【さ】 『左袒(さたん)』 (2003/11/04)
『左袒』
左の肩を肌脱ぎにするという意味で、味方すること。また、同意して肩を持つこと。
類:●肩を持つ
出典:「礼記−檀弓・下」「既封左袒、右還其封、且号者三、曰、骨肉帰復于土命也〈略〉」 春秋時代、賢者の誉(ほま)れが高かった呉の季札(きさつ)が、我が子を葬(ほうむ)ったとき、左の肩を肌脱ぎにし、右回りに墓を回って三度(みたび)号泣した。そうするのが呉国の礼だったという。
故事:史記−呂后本紀」「為呂氏右タン[衣+亶]、為劉氏左タン 中国、前漢。専横を続けていた呂后が死んだ後、劉邦の側近の周勃・陳平らが呂氏を討とうとした時、呂氏に付く者は右袒せよ、劉氏に付く者は左袒せよと言ったところ、軍中ことごとく左袒した。
参考:「戦国策−斉下・閔王6」「[サンズイ+卓]歯乱斉国、殺閔王、欲与我誅者、袒右」 王孫賈(か)は、加勢する者を右肩を脱がせたが、意味は同じ。
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2日目になったお花は、それなりに手馴れてきたらしく、黙々と銚子や肴(さかな)を運んでいる。
表情こそまだ硬いが、馴染(なじ)むのもそう遠いことではないだろう。

>花:お夏さん、お咲さんを紹介しておいて貰えません?
>夏:あ、そうだったわね。お咲ちゃん、あたしの後釜(あとがま)。お花さんっていうの。
>咲:お夏ちゃんに
見込まれちゃったの? こりゃあ、大変だ。
>花:はあ。
一所懸命頑張ります。宜しくご指導くださいませ。
>咲:そういう話し方は駄目よ。ここはね、どっちかっていうと、下品な縄暖簾(なわのれん)なの。「宜しくね」くらいにしとかないと、周りの人が緊張しちゃうでしょう?
>花:はあ。そ、そうですね。
>咲:「そうですね」じゃなくって、「そうよね」。・・・「です」とか「ます」とか使っちゃ駄目よ。相手がお役人さんだって、道場の師範代だって関係なしよ。そうよね、鹿之助さんに猪ノ吉さん。
>鹿:夏がそうしていたのであれば、それで良かろう。
>咲:あっはっは。「良かろう」だって。まるで、とっても偉いお役人様みたい。
>鹿:そこそこに偉い役人ではあるのだが・・・
>咲:それじゃあ駄目よ。だから飲めない人って困るのよね。お酒を飲むところでは、無礼講(ぶれいこう)なの。特に、こういう下品な飲み屋ではね。

>亭主:なんだなんだ、さっきから聞いてりゃ「下品下品」って。他の客だっているんだぞ。本気にするじゃねえか。
>咲:あら、本気にされて困るようなことなんかないじゃない。事実なんだから。ねえ、八つぁん。
>八:その通り。これでお夏ちゃんがいなくなっちまったら、火の消えた掘っ立て小屋と変わりねえ。
>亭主:何をーっ? その掘っ立て小屋に、毎晩のように来てる奴ぁ誰だってんだ。
>八:儲(もう)けがなくなって、骨と皮になって、そろそろくたばってるんじゃねえかなって、見にきてやってるだけよ。
>亭主:お前ぇより先にくたばって堪(たま)るかってんだ。食い過ぎでくたばらねえように気を付けるんだな。山盛りのおからでも供(そな)えてやるよ。
>八:供えるおからがあるんだったら、今ここに出しやがれ。おいらの腹はここの肴を食ったって壊れねえくらい頑丈なんだからよ。
>亭主:抜かしやがったな? 良いだろう。おい、お花ちゃん、大盛りで出してやれ。
>花:は、はい。
>咲:ね? こんな調子でやるのよ。
>花:はあ。分かったような・・・
>熊:酔っ払い娘に教えられたって、納得はできねえわな。・・・でもま、ここはよ、肩肘張らねえで良いから客はまた来るんだ。そうだろ?
>花:そうですね。ちょっと分かりました。

お花がにっこり笑った。
また、である。八兵衛は、お花の笑顔を眩(まぶ)しそうに見ながら、自分の動悸(どうき)の音が聞こえたように思った。

>猪:なあ、熊ちゃん。
>熊:なんだ?
>猪:俺も偶(たま)にここに来ても良いかな?
>熊:なんだよ、そんなこと自分で決めろよ。おいらがどうしろっていうことじゃねえだろ。
>猪:それはそうなんだがよ・・・
>熊:真逆(まさか)、相談事があるなんて言い出すんじゃねえだろうな?
>猪:その真逆なんだ。
>熊:だって、あいつのことはもう済んだんだろ?
>猪:別のことだよ。
>熊:まだあるのか? おいおい。沢山(たくさん)の弟子を抱えて大変なのは分かるが、一介の大工にゃ、出来ることと出来ねえことってのがあるんだぜ。
>猪:分かってるって。却(かえ)って大工の方が良いくらいなんだ。だから相談に乗って貰おうってんじゃねえか。

>夏:ねえ、その前に、兄上に相談した件はどうなったの?
>猪:ああ。あいつは、この熊五郎名人に二本取られて卒倒しちまいやがった。
>夏:何、それ? 猪ノ吉さんでも手に負えなかった人なんでしょ? その人に勝っちゃったの?
>猪:ものの見事にな。面を二本だぜ。
>夏:へえ。見直しちゃったわ。凄いじゃない、熊お兄ちゃん。・・・ねえ、お咲ちゃん、鼻が高いでしょう?
>咲:なんであたしが? そりゃあ、同じ長屋の住人としては・・・
>夏:照れない照れない。これであたしも、お咲ちゃんを熊お兄ちゃんに、安心して任(まか)せて行けるわ。
>熊:何を言ってやがる。それに、今生(こんじょう)の別れじゃねえってんだ。

>夏:ねえ、その人って、どういう剣の使い手なの?
>猪:ああ。そうさな、武者小路千家辺りかな?
>咲:それって凄いの?
>夏:馬鹿ね、あんたも武家の娘ならそのくらい知っときなさいよ。お茶の流派じゃない。・・・猪ノ吉さんも猪ノ吉さんよ。ちゃんと説明しなきゃ、駄目じゃないの。
>猪:だがな、そういう奴なんだから仕様がねえ。
>夏:どういうこと?
>猪:箸(はし)より重いもんを持ったことがねえって感じなんだ。竹刀(しない)を持つのもやっとってとこだ。
>咲:それじゃあ、何? 千場道場じゃ、そんな弱いもんを入門させて、
見込みがないとなると、大工と立会いさせるって訳?
>猪:そういう訳じゃ・・・
>熊:曰く付きだったのさ。そう食って掛かるなよ。
>咲:熊さんも熊さんよ。鼻高々って顔しちゃってさ。唯の弱い者苛(いじ)めじゃない。
>熊:ま、まあな。・・・面目ねえ
>猪:俺がどうしてもって頼んだんだよ。熊ちゃんが悪いんじゃねえさ。
>夏:そうよね。凄い遣い手なんじゃないかって、勝手に思い込んでたのはこっちなんだもんね。熊お兄ちゃんを持ち上げたあたしも悪い。・・・だから、訳を聞かずに、寄って集(たか)って2人を責めるのは止(よ)しましょう。ね、お咲ちゃん。
>咲:今日の主役のお夏ちゃんにそう言われちゃ仕方がないわね。・・・じゃあ、もうちょっと事情を聞かせてよね。

>猪:そいつはな、藤木嘉剛(よしたけ)っていってだな・・・
>夏:え? あたし知ってる。
>咲:知ってるの?
>夏:うん。よーく知ってる。普請奉行の孫でしょ?
>猪:なんで知ってるんだ、そんなこと?

そこへ鴨太郎が入ってきた。
勢い込んで猪ノ吉に
詰め寄り、「藤木嘉秋(よしあき)がどうしたって?」と尋ねた。

>猪:ん、なんだよ、鴨太郎。お前、外で聞いてたのか?
>鴨:そんなことはどうでも良い。藤木がどうした? また誰かを脅したのか?
>八:「脅す」だと? 普請奉行ってのは、そういう悪い奴なのか? それなら話は別だぞ。・・・うん。俄然(がぜん)乗り気のなってきたぞ。
>熊:止せったら。お前ぇが出てくると碌なことになりゃしねえ。
>八:冗談じゃねえ。こんな面白い話、関わらねえとあっちゃ、八兵衛さんの名が廃(すた)るってもんだ。・・・それで、お夏ちゃん、その笑い茸(たけ)だか天狗茸だかってのは、どんな奴なんだい?
>夏:覚えてるかしら、磯次郎っていう臍曲がりのこと?
>八:ああ、あの小豆(しょうど)の旦那の養子になった・・・
>熊:薬の勉強をするんだって言ってた奴だよな? 今何をやってるんだ?
>夏:寺子屋に通いながら、とある薬種問屋で手伝いをさせて貰ってるのよ。丁稚(でっち)みたいなこと。
>八:そのお頭(つむ)の良い磯次郎と関係があるのか?
>夏:ほら、小豆様って、普請奉行所の平役人でしょう? ねちねちいびってるらしいのよ。・・・直接見た訳じゃないんだけどね。

>猪:俺は見てるぜ。
>夏:なんで、鴨太郎さんが小豆様のことを知ってる訳?
>猪:まあ、行き掛かり上ってとこだな。その磯次郎っていう倅(せがれ)から膏薬を分けて貰ってるんだ。
>八:こりゃまた、奇遇だな。小豆さんとはだな、おいらたちは深―い付き合いでな。もう、つうと言やあかあよ。
>熊:そいつは幾らなんでも言い過ぎだろう。
>八:似たようなもんだろう? あの人が真っ当になったのはおいらたちのお陰なんだからよ。
>猪:そうなのか? それなら話が早えや。その藤木っていう普請奉行の悪さの証(あかし)をどっかから聞き出してきちゃあ呉れねえか?
>熊:相談ごとってのはそれなのか?
>猪:そうだ。・・・俺はよ、なんだか、あの親子のことを放っちゃおけねえんだよ。

>鴨:待て待て。そいつは俺らの仕事だ。
>熊:何を言ってやがる。明日っから長崎に行こうって奴が、意気込んだって仕方がねえんだよ。
>鴨:それにしたって、あの藤木の野郎には、俺も頭にきてるんだ。只じゃ済まさねえぞ、あの野郎。
>熊:そう熱くなるなって。聞いちまった以上、何とかやってみるからよ。
>猪:やって呉れるか?
>熊:仕方ねえだろう。鴨太郎はいなくなるし、猪ノ吉は孫の方の面倒を見なきゃならねえ。鹿之助は関係なしだもんな。
>鹿:な、何を言う。拙者とて、仲間の端くれ。・・・それに、そういう調べごとなら、何かと役人の方が便利に決まっておる。
>熊:お前ぇ、酔っ払ってるのか? 素面(しらふ)になったとき後悔したって知らねえぞ。
>鹿:冗談ではない。妹ばかりに格好の良いところを見せられて、兄たるものが黙って居られようか。
>夏:そう来なくっちゃ。頼りにしてるわよ。熊お兄ちゃん、八兵衛さん、お咲ちゃん。それに、猪ノ吉さんと、お負けに兄上。
>鹿:なんだ、拙者はお負けか?
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