200.【こ】 『子(こ)ゆえの闇(やみ)』 (2003/09/29)
『子ゆえの闇』
子を愛するあまり、親が理性的な判断を失うこと。
類:●子故に迷う親心●子を思う心の闇●子の道の闇
参考:後撰−雑一」 藤原兼輔の「人の親の心はやみにあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」
出典:後撰和歌集(ごせんわかしゅう) 平安中期の2番目の勅撰集。20巻。天暦5年(951)、村上天皇の勅命で和歌所が置かれ、藤原伊尹が別当に、大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城のいわゆる梨壺(なしつぼ)の5人が撰者となり、天暦10年(956)前後に成立した。紀貫之伊勢、凡河内躬恒ら220人余りの歌約1420首を、四季、恋、雑など10部に分類し収録したもの。私的な贈答歌が多く、歌物語的な傾向が見られる。「後撰集」。
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櫛引(くしひ)きの弥兵衛の家は、飯田町にあるということだった。
あやとお咲は、連れ立って、弥兵衛が住むという長屋に向かっていた。

>咲:櫛だったら飾り職の松つぁんが知ってるんじゃないかと思って聞いたみたのよね。そしたら、大当たりよ。半次さんにお八重さんを引き合わせたのって、松つぁんなんだって。
>あや:そういうことだったの。あのがらっぱちの半次さんが誰かを口説(くど)くなんて、ちょっと巧く結び付かなかったのよ。
>咲:あたしも。・・・でも、「案外お似合いだったぜ」って言うのよね。「だった」なんて言わないでよねって、叱(しか)っちゃった。
>あや:松吉さんと半次さんって、仲が良かったものね。きっと、逐一(ちくいち)返り申ししてたんじゃない? 半次さんって、ああ見えて律儀(りちぎ)だから。
>咲:だからって、「だった」ってことはないでしょう? 自分で仲立ちしたんだったら、最後まで、巧く行くように助けてあげるべきよ。
>あや:菜々ちゃんに稚児(やや)ができたって聞いて、それどころじゃなかったのよ、きっと。
>咲:それにしたってよ。友達甲斐(がい)ってものもあるでしょう?
>あや:でも、教えて呉れたんでしょう、弥兵衛さんのこと。どういう風に言えば
耳を貸して呉れるかって。
>咲:とんでもない。「世話になってる人だから、あんまり煩(わずら)わせねえで呉れよ」だって。
>あや:まあ。
>咲:唯(ただ)ね、「『俺は娘の育て方を間違ってるのかな』って、時々ぼそっと言うことがあるんだよな」、なんて言ってたわ。
>あや:やっぱり、お八重さんに気を使っちゃってるのね。それなら、益々お八重さんのためになるようにしてあげなきゃね。
>咲:・・・ねえ、あやさん。八つぁんとより、半次さんとの方が幸せになれると思う?
>あや:さあ、どうかしら? ・・・でも、それはお八重さんが決めること。そうじゃない?
>咲:そうね。弥兵衛さんじゃなくって、お八重さんが決めることなのよね。

弥兵衛は近所まで出掛けていると、お八重本人が2人に答えた。
お八重は、一見、控え目な質(たち)であり、とても大喧嘩をやらかすようには見えない。

>あや:わたしは大工の源五郎の女房のあやという者です。
>八重:まあ、それじゃあ・・・
>あや:この娘(こ)は、お咲ちゃんといって、うちの八兵衛と同じ長屋に住んでいる娘さんです。
>咲:お咲です。今日(こんにち)は。
>八重:今日は。八兵衛さんの名代(みょうだい)? あたしのこと見に来たの?
>咲:名代? ・・・とんでもない。後ろ見役みないなものよ。それにね、こう言っちゃうのはなんだけど、あたし、八つぁんとの見合いを潰(つぶ)しに来たのよね。
>八重:潰しに? どうして?
>あや:ご免なさいね、お八重さん。説明はわたしの方からします。でも、その前に聞いておかなきゃいけないことがあるの。
>八重:あたしじゃ、不似合いってことですか?
>あや:そうじゃないの。うちの八兵衛には勿体無いくらいなのよ。源五郎もそう言ってたでしょ?
>八重:じゃあ・・・
>あや:引っ掛かってるところはね、半次さんがお咲ちゃんと同じ長屋だってことなのよ。つまり、八兵衛と半次さんは長い付き合いだってこと。
>八重:あっ・・・
>咲:半次さん、物凄(ものすご)く落ち込んじゃってるのよね。あの口の悪い半次さんが、「見合い話となっちゃ口出しできねえじゃねえか」なんて、しんみり言うのよ。見ちゃいらんないわよ。
>八重:知ってらしたんですか・・・

>あや:あなたの気持ちを確かめたいの。このまま半次さんとのことを終わりにしちゃっても良いの?
>八重:・・・。もう、遅いんです。お父つぁんからも「忘れろ」って言われちゃいましたし。
>咲:でも、お父さんは事情を知ってるの? 椎茸(しいたけ)と占地(しめじ)でしょ?
>八重:そんなこと、言える訳ないじゃない。
>咲:言えば良いじゃない。今からだって遅くないわよ。
>八重:だけど、あの人は5日経(た)っても迎えに来て呉れなかった。会いに来て呉れなかった。・・・謝って欲しかったんじゃないの。あんなことなんでもないよっていう顔で、顔を見せて欲しかったのよ。
>咲:だからって、お見合いして、お嫁に行っちゃっても良いっていうの? そんなことで、もう会えなくなっちゃっても良いの? 金輪際言葉を交わせなくなっちゃっても良いの?
>八重:そんな聞き方をしないで。やっと気持ちに方を付けたところなんだから。
>咲:そんなので、気持ちって方が付いちゃうものなの? お八重さんの半次さんに対する気持ちって、そんなもんなの?
>八重:あたしを責めないでよ。兎や角言われるのは、お父つぁんだけでたくさん。
>咲:間違ってる。・・・お八重さんも、お父さんも間違ってる。
>八重:あたしだって、そんなこと分かってるの。でも、世の中なんて、思うようになることばかりじゃないもの。
>咲:駄目よ、駄目駄目。・・・そんなこと言ったら、幸せになれない。
>八重:でも、お父つぁんを説得するなんて、あたしにはできそうにない。
>咲:でもでもでも。でもばっかりじゃなんにも変わらない。・・・あたしが八つぁんとのお見合いを破談にしてあげるからね。ね、あやさん、破談よね?
>あや:いいえ。破談にはしません。
>咲:どうして?
>あや:弥兵衛さんと、うちの親方の顔が立たなくなるもの。間に元締めまで絡(から)んじゃってるんだもの、おいそれとは段取りを変えられないのよ。
>咲:そんなあ。

「お客さんか?」と言いながら、弥兵衛が戻った。

>弥:あんたたちは?
>あや:源五郎の女房のあやと申します。留守中にお邪魔して申し訳ありません
>弥:ああ、源五郎さんのかね。今度のことじゃ、こっちの都合(つごう)でばたばたと決まっちまいましたんで、慌てさせちまいましたか?
>あや:いいえ。こちらにも独り身の若い衆がごろごろいますので、願ってもない良いお話です。
>弥:そう言っていただけりゃこっちも気が休まりますわ。・・・それで? 今日はお八重のことを見に?
>あや:それもあるんですが、お父様とお話をしに。
>弥:あっしに? そりゃあ一体どういうこって?
>あや:弥兵衛さんの子育てについて、兎や角申し上げようと思いまして。
>弥:なんだって? あっしの、いや俺の子育てがなんだって?
>咲:あやさん・・・
>あや:弥兵衛さん、あなたは「躾(しつけ)」というものを勘違いしてらっしゃいます。
>八重:お内儀(かみ)さん・・・
>弥:お前ぇは黙ってろ。・・・俺の躾のどこが間違ってるって言うんだ。
>あや:あなたは、お八重さんが大人になろうとするのを押さえ付け過ぎてます。
>弥:なんだと? 俺の娘だ。他人からそこまで言われる筋合いはねえ。
>あや:相手が婿(むこ)の家の者だとしても、そう言い切れますか? 弥兵衛さん、わたし共のところでは、子離れしていない父親が付いた娘など、欲しいとは思いません。
>弥:子離れしてねえだと? 俺のどこが子離れしてねえってんだ?
>あや:お友達と集まって世間話をするのも、町衆に惚(ほ)れてお昼を一緒に食べるのも、あなたは認めようとしないでしょう? それって、本当に正しいことですか? 「勝手」だとか「気侭(きまま)」だとか「
ふしだら」だとか言いますけど、それって本当にいけないことですか?
>弥:良くないことだ。そうだろう?
>あや:一辺倒(いっぺんとう)なのは良くないでしょう、確かに。でも、一切許されなかったらどうです? 偶(たま)に好きなことをするくらいのことも、許されなかったらどうします?
>弥:・・・
>あや:そういう育てられ方をした人は、いざ縛(しば)りが解(と)けたとき、何もできない人になるんです。誰かから指図(さしず)されないと何もできない能無しになるんです。お分かりですか? あなたは、お八重さんをそういう人に育てようとしているんだって、気付きませんか?
>弥:だったらどうしろってんだよ? 一生嫁にやるなってことか?
>あや:いいえ。・・・でも、それを決めるのはあなたです。

弥兵衛は考え込んでしまった。思い当たる節があったのであろう。
けれども、とうとう巧い考えは思い浮かばなかったらしい。

>弥:なあ、源五郎のお内儀さん。一体あんたたちはお八重をどうしたいんだ?
>あや:お見合いの相手を半次さんに擦り替えさせていただきたいと思います。
>弥:なんだと? あの
減らず口の半次の野郎にか? そんなことは許さねえ。
>あや:決めるのはお八重さんです。あなたはそれを認めるだけ。
>弥:なんでそんなことになる。
>あや:一生のうちで一番大事なことを親が決めたのでは、ゆくゆく、恨(うら)まれることになりますよ。あなたが言うところの「子育て」の、見事(みごと)な遣り損(そこ)ないです。そうじゃありませんか?
>弥:・・・そういう、ことなのか? ・・・なあ、お八重、そういうことなのか?
>八重:あたし・・・
>咲:言っちゃいなさいよ。半次さんと一緒になりたいって。
>弥:そうなのか? つまらないことで喧嘩になって、謝りにも来ねえあの
碌でもない半次が良いのか?
>八重:うん。そうなの。減らず口の碌でもない、だけどちゃんとあたしのことを分かろうとして呉れる半次さんが好きなの。
>弥:そうなのか・・・。そうか、俺も、馬鹿だよな。お八重に
言い寄る男共なんてのは、下心ばっかりだって思ってた。・・・そうだよな。お八重の方から選ぶなんてこと、これっぽっちも考えてみなかったなんてな。俺は一体、何をやっていたんだか。縁者でもねえあんたたちから言われて初めて気付くとはな。まったくよ。
>八重:お父つぁん・・・
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