188.【こ】 『高木(こうぼく)は風(かぜ)に折(お)らる』 (2003/07/07)
『高木は風に折らる』[=喬木(きょうぼく)は〜][=倒る・嫉(そね)まる・妬(ねた)まる・憎まる]
高い木は風を受け易く折れ易い。それと同様に、地位や名声が高い者は、他人から妬(ねた)まれて、困難に会いがちである。
類:●出る杭は打たれる喬木(大木)は風に折らる●桂馬の高上がり●The highest branch is not the safest roost.(一番高い枝が一番安全な止まり木ではない)<英語ことわざ教訓事典
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坂田太市が「だるま」にふらっと顔を出したのは、饅頭屋の日から5日も後だった。
今夜も、笠なしの濡れ鼠(ねずみ)である。

>八:おお、太市の旦那じゃねえですか。どうぞこっちに。さ、きゅっと1杯いってお呉んなさい。
>太:いえ、今日はお酒抜きということにさせてください。何しろ、てんで下戸(げこ)ですから。
>八:小難しい話のときはその方が良いですかね。
>熊:それにしても、随分と時が掛かりやしたねえ? あれから5日ですぜ。
>太:役人というものは、まったく、厄介(やっかい)な生き物ですね。自分の口から出たと知れると立つ瀬がないからとか何とか言って、直ぐに逃げ腰になってしまうんですから。
>八:それじゃあ、思わしい話は聞けなかったんでやすか?
>太:なんとか1人掴(つか)まえました。新しいもの好きで、甘いものに目がないという者がいましたので、鰻(うなぎ)入りの大金(おおがね)饅頭2個で丸め込みました。
>八:たったの8文でやすぜ。こりゃまた、安上がりでやすねえ。
>太:まったくです。こっちは、料亭に何人もの役人を呼んでの椀飯(おうばん)振舞いまで覚悟していたのですからね。
>八:それじゃあ、随分と余計にお足があるってことでやすね?
>太:とんでもない。勿論(もちろん)、自腹を切るんですよ。相手が悪かったら破産していたところです。
>八:なあんだ。今夜はここで椀飯振舞いかと思ってたのによ。
>熊:正月じゃねえってんだ。もう夏だぞ。
>八:良いじゃねえかよ。良い風習は、年に2度だって3度だって、多いに越したことはねえじゃねえか。・・・尤(もっと)も、「だるま」での椀飯振舞いなんて、高が知れてるがな。
>熊:お前ぇも振舞う側になってみやがれってんだ。

6つ半(19時頃)に、お夏が現れた。
梅雨時には客の入りも少なくて、お夏の乗りも今一つである。

>夏:嫌ねえ、着物に泥が撥(は)ねて。・・・あら、いらっしゃい、熊お兄ちゃん。それと、その他ご一行様。
>八:その他はねえだろう、お夏ちゃん。
>夏:あらご免なさい。八兵衛さんたちに当たっちゃ駄目だわね。
>八:なにかあったのかい?
>夏:いえね、あたしのこの魅力も雨降りには勝てないのかなと思うと、なんだか無性に腹が立ってね。
>熊:天気に当たったってしょうがねえだろ。
>夏:まったくね。女って生き物は、こんな下らないことに一喜一憂しちゃうものなのよね。
>熊:何を偉そうに言ってやがる。まだ餓鬼の癖しやがって。
>夏:あら、熊お兄ちゃんも父上とおんなじこと言うのね。あたしはもう立派な大人だっていうのに。
>熊:お夏坊こそ、お咲坊とおんなじこと言ってやがるぜ。
>夏:お咲ちゃんが聞いたら怒るわよ。・・・その点、あたしは物分りが良いから、黙って聞いていてあげるけどね。
>熊:どこが大人だか。まったく、今日日(きょうび)の娘はどうつもこいつも・・・
>太:あの、私は、立派な大人の女子(おなご)だと思いますぞ。
>夏:あら、坂田様じゃないですか。ご立派な方はやっぱり目が肥えていらっしゃいますわね。お銚子1本お負けしちゃおうかな?
>太:いや、あたしは、あの・・・

太市は、まだ一滴も飲んでいないというのに、首筋まで赤くなっていた。
八兵衛は八兵衛で、怒った顔も可愛いななどと、浮わ付いたことを考えながら、酒を舐(な)めていた。

>夏:あ、そうそう。聞いたわよ、五六ちゃん。こんなとこで飲んでて良いの? お三千さん、厳しいんでしょう?
>五六:な、なんで知ってるんでやすか?
>夏:あら、この辺のおかみさん連中には、もう知れ渡っちゃってるわよ。
>五六:姐(あね)さんに聞かれちまってたんでやすか?
>夏:あやさん、誉(ほ)めてたわよ。お弟子さんを持つようになったら、立派な女将(おかみ)さんになれるわって。でもね、仕事場で井戸端会議みたいなことしてちゃ駄目よね。五六ちゃんたちの方の株は下がっちゃったみたいね。
>五六:とほほ。
>熊:でもよ、偶(たま)の酒ぐらい目を瞑(つぶ)って貰わねえとな。いくら稼(かせ)ぎが少ない時期だってったって、おんなじだけ気疲れはあるんだからよ。
>夏:誰も悪いなんて言ってないじゃない。お三千さんのことを誉めてるだけ。五六ちゃんはお三千さんの気持ちに応えてあげなきゃ駄目ってことよ。
>五六:へい、分かりやした。肝に銘じやして。
>八:お夏ちゃんから言われたら、そう答えるしかねえよな。なんてったって、姐さんと繋(つな)がってるんだからよ。
>夏:そうよ。しっかり稼ぎなさいよ。
>熊:しかしな、こう雨ばっかりだとな。それに、世の中がこうも不景気だと、中々良い稼ぎ口もな・・・

>夏:何言ってるの。こういう不景気だってちゃあんと儲(もう)けてるところだってあるのよ。聞いた? この先の「金太楼」っていうお饅頭やさん。ちょこっと頭を使えば、不景気なんて関係なしよ。
>八:「大金餅」と「小金餅」だろ?
>夏:へえ、流石(さすが)八兵衛さん、食べ物のことだと耳が早いわね。
>八:そうじゃねえのさ。何を隠そう、その名前を考えたのはおいらたちなのさ。
>夏:嘘でしょう?
>熊:ちょっと、嘘かな? だがよ、おいらたちと一緒にいるときに太市の旦那が付けなすったんだ。
>八:だから、おいらたちだろ? まったく嘘って訳でもねえだろ?
>夏:やっぱりね。八兵衛さんの訳ないもんね。でも大変みたいよ。向かいの団子やさんがやっかんじゃって、毎朝嫌味を言うんだって。
>熊:あの業突く張り、そんなことしてやがるのか? しょうがねえ親爺だな、まったく。
>夏:良くあることよ。でも、「金太楼」の親爺さん、全然偉ぶってないみたいだから、お客さんたちが庇(かば)ってくれているみたい。そのうち諦(あきら)めるでしょう。
>熊:そうだと良いんだがな。

>夏:ふうん、坂田様が考えたんだ。へえ。・・・それで?
>熊:それでってなんだよ。
>夏:大の大人が大勢で饅頭屋にいるってことは、普通じゃないでしょ? また何か起こったんでしょ? 面白そうなこと?
>熊:まったく。お咲坊みてえに目をくりくりさせながら聞くなっての。
>夏:だって、面白いことないんだもん。だから梅雨って嫌。でも、何かあったって言うんなら、あたし、全面的に協力しちゃう。
>熊:そういう簡単なことじゃねえんだけどな。
>夏:そんなの、聞いてみなきゃ分からないじゃないの。

お夏はすっかりその気になってしまった。
客もほかに1組いるだけだったので、熊五郎たちの卓に腰掛けを持ってきて、ちょこんと座った。そして、太市の方を見上げて首を傾(かし)げた。

>太:あ、で、では、その甘党の役人から聞き出した話を、掻い摘んでお話しましょう。
>八:その役人ったらよ、たったの8文で丸め込まれて、喋(しゃべ)っちまったんだってよ。8文だぜ。
>熊:黙って聞きやがれ。旦那、続けてお呉んなさい。
>太:もう何年も前からのことで、勘定方では暗黙(あんもく)のうちに許してしまっていることのようなのです。具体的な名前は出しませんでしたが、勘定組頭と、勘定吟味役が、日本橋の料亭で誰かと密会しているのを見たというのです。
>夏:一番上の方の人じゃない。
>太:そうです。年貢のできが悪かったと偽り、幕府の蔵には3分しか入れていません。4分を2人で
懐(ふところ)にし、残りの3分を別のところへ横流ししています。
>熊:そんなにでやすか? それでも気が付かなかったんでやすかい?
>太:気が付いていても、
山吹色を見て、口を噤(つぐ)んでしまうのです。そうして、上から下へと、相当数の役人の生活に甘い汁が零(こぼ)れているのです。それに、恐ら糸を引いているのは、若年寄だろうというのです。
>熊:堀田摂津守(せっつのかみ)でやすか?
>太:まず間違いないでしょう。

>熊:そんな非道なことをやって、許されちまうってのが分からねえぜ。
>太:命が惜しいのですよ。調べてみましたら、5年前、勘定組頭だった杉乃井考右衛門という者と、勘定吟味役だった長島疑一郎という者が、時を同じくして罷免(ひめん)されています。
>熊:誰かが悪事を暴(あば)いたってことでやすか?
>太:それが、そうではないらしいのですよ。記録には、どちらも健康上のことでとされていたようです。・・・しかし、「夜盗にでも押し込まれたように家が荒らされていた」とか、「気付いてみると、家族が皆いなくなっていた」とかという話もあったそうです。
>熊:消されたんでやすか?
>太:
蜥蜴(とかげ)の尻尾切りです。大方、放蕩三昧して世間の目を引いてしまったのでしょう。人の口に戸は立てられぬと言います。やっかみや非難の声が増えてくれば、いつどこから若年寄の名が出てこぬとも限りませんからね。
>八:銭が貯まってくると、それを誰かに見せびらかしたくなるってことでやすか?
>太:それが人情というものです。況(ま)して、自分には若年寄の後ろ盾があると、思い込んでしまったのですからね。勘違いも甚(はなは)だしいです。あの方が、誰かの後ろ盾になることなんか、決してないというのにね。
>八:でも、手懐(てなづ)けていたのを2人一緒に辞めさせちゃっちゃ困るんじゃねえですかい? もう横流しが来なくなっちまう。
>太:蜥蜴の尻尾というのはね、また幾らでも生えてくるんですよ。僅(わず)かばかりのお零れだけだった者が、明日から丸々取れる立場になれるのです。近い将来、自分も杉乃井たちと同じ道を辿(たど)ることなど、
夢にも思わないで、嬉々として引き受けるのですよ。
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