194.【こ】 『虎穴(こけつ)に入(い)らずんば虎子(こじ)を得ず』 (2003/08/19)
『虎穴に入らずんば虎子を得ず』[=虎児を〜]
虎が住む穴に入らなければ、虎の子供を奪い取ることはできない。転じて、大変な危険を冒さなければ、望みの物を手に入れることはできない。
類:●危ない所に上がらねば熟柿(じゅくし)は食えぬ●枝先に行かねば熟柿(じゅくし)を食えぬ●Nothing venture, nothing have. /Nothing ventured, nothing gained.(思い切ってやらなければ何も得られない)●Great gains are not achieved except by great risks.<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
故事:後漢書−班超伝」「官属皆曰、今在危亡之地、死生従司馬、超曰、不入虎穴、不得虎子」 漢の使者・班超(はんちょう)が西国のゼン善(ぜんぜん)へ赴いた。初め手厚く持て成されていたが、ある日を境に王の態度が冷たくなった。調べてみると、匈奴(きょうど)の使者が到着した様子。王は「遠くの漢よりも近くの匈奴」と組みたいと思ったらしい。このままでは使者全員が匈奴に引き渡されて殺されると思った班超は、この言葉を用いて部下を説き伏せ、城に火を放って、匈奴の使者を全滅させゼン善を漢の属国とした。
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桐箱(きりばこ)の残りの8つは3日後に出来上がった。希望通り餅抜きで、である。
早速(さっそく)お咲が納めに行くと、「あと10箱作って貰う訳にはいくまいか?」と、林田のお内儀(かみ)から持ち掛けられたという。

>咲:よっぽど評判が良かったみたいね。今度は10箱で2分(約4万円)払うって。
>八:ひゃあ。そりゃあ凄(すげ)え。金太楼(きんたろう)の親爺(おやじ)なんか、下手(へた)すると気が変になっちまうぜ。
>熊:止(よ)せやい。これから鴨太郎が踏み込もうってのに、次の10個なんて作れるかってんだ。
>八:でもよ、ちょっとくらいお零(こぼ)れをいただいちまったって、良いんじゃねえのか?
>熊:駄目(だめ)だってんだ。
>咲:あらどうしましょう。前金だって寄越(よこ)されちゃったのよね。
>熊:なんだと? それでお前ぇ、受け取ってきちまったのか?
>咲:だって、どうしてもって言うんだもの。断れなかったのよ。
>熊:それにしたってよ・・・
>八:いただいちまおうぜ。な?
>熊:駄目だ。・・・そうさな、太市の旦那に預けて、どうするか決めて貰うしかねえな。
>八:黙ってりゃよ、分かりゃしねえって。
>熊:だから、正義を行なおうって奴が、着服(ちゃくふく)なんかできねえだろってんだ。そうだろ、お咲坊?
>咲:そうだったわね。・・・ちょっと惜(お)しい気もするけどね。

先日話し合った予定では、瓦版が撒(ま)かれるのは明日ということである。
文面は予(あらかじ)めお夏が添削(てんさく)してあった。林田と亘理(わたり)、それに、堀田摂津守(せっつのかみ)の名まで実名で出ているらしい。
梅雨(つゆ)明けが近付いているらしく、今日は雨にならなかった。鬱々(うつうつ)と長屋に篭もっていた連中が瓦版を見たら、鬱憤(うっぷん)晴らしとばかりに騒ぎ立てることだろう。

>八:それで? 鴨の字が踏み込むってのはいつなんだ?
>熊:明日の夕刻ってことらしい。
>八:それじゃあよ、おいらたちも見に行こうぜ。面白そうだもんな。
>熊:駿河台小川町だぞ。そんな遠くまで行けるかってんだ。
>咲:あたしは行けるわよ。みんなの代わりによぅく見ておいてあげる。
>八:おいらも見に行きてえな。・・・なあ熊、おいら、昼過ぎから腹痛(はらいた)になるからよ。親方に巧く言っといて呉れ。
>熊:お前ぇと五六蔵の腹痛なんぞ、誰が信じるかってんだ。
>八:ここで食った蕗(ふき)かなんかに当たったって言っとけよ。おいらだって偶(たま)には腹を壊すってのを親方にも知っといて貰わねえとな。
>熊:一緒に食ったおいらとか三吉はなんともねえのにか? 一番頑丈(がんじょう)そうなお前ぇだけが当たるなんてあるかよ?
>八:太助みてえに1人で平らげちまったって言えば良いだろ? 親方だってここの食いもんの不味(まず)さは知ってなさるから、きっと、ころっと騙(だま)されるって。
>亭主:なんだと、八公。この野郎、うちの料理のどこが不味いんだ? 喧嘩売ってやがるのか?
>八:そうじゃねえって。方便(ほうべん)だよ、方便。
>亭主:何をどうやったら方便になんかなる? ・・・そうかよ。覚えてやがれ。今度親方がいらしたときに、洗い浚(ざら)い打(ぶ)ちまけてやるからな。

亭主は、その伽羅蕗(きゃらぶき)を丼(どんぶり)一杯に盛り、「腹を壊すかどうか試してみやがれってんだ」と置いていった。

>熊:食ってみちゃあどうだ?
>八:殺す気か? こんなの山盛り食ったら、それこそ腹が壊れちまうぞ。
>熊:太助でも呼びにやって手伝って貰うか? 勿論、飲み代(しろ)はお前ぇ持ちだ。
>八:冗談じゃねえ。太助の飯代まで面倒見られるか。こっちが干上がっちまわ。飢え死にするくらいなら食って死ぬ方を選ぶぜ。・・・ようし、清水の舞台から飛び降りるつもりで、いっちょ食ってやるか。
>熊:こいつ本気で食う気だぜ。・・・止せよ。おいらや三吉だって食いてえんだからよ。
>八:なんだよ。そんなら端(はな)っからそう言えってんだ。まったく脅かしやがる。本当に死んじまうとこだったぜ。「だるま」の蕗が元で死んじまったとあっちゃ、八兵衛さんの男が廃(すた)るってもんだぜ。そんなことになったらよ、町中の娘が押し寄せて、親爺を吊るし上げにしてるとこだったぜ。
>熊:まったく、口の減らねえ野郎だな。

翌日、お咲が「大金餅」の代金を払いに行くと、金太親爺は腰を抜かしてしまった。
たった4個を箱に納めただけなのである。

>金:そ、そ、そんな大金いただく訳にはいきません。餅は、4日前に4つお売りしただけじゃないですか。それが、どうして2朱(約1万円)にもなるんですか?
>咲:だって、売れちゃったんですもの、「大金餅」の名前のお陰で。
>金:ですが、お作りしてないもののお代はいただけません。
>咲:それは困るわ。斬られるかも知れないような怖い思いをしたんだから。
>金:それなら、お咲さんが受け取ってくださいまし。
>咲:そうはいかないのよね。だってあたしは大福餅を作った訳でもないし、況(ま)して、箱を作った訳でもないんだもの。
>金:それでは、箱を作ってくださった方に上げてくださいまし。
>咲:安兵衛さんにも、同じく2朱を払うのよ。五分と五分。・・・
どう? 公平でしょう?
>金:ですが・・・
>咲:受け取って貰わないとあたしが困っちゃうの。報(むく)われないのよ。ね、お願い。

半(なか)ば押し付けるようにして「金太楼」を後にしたお咲は、いそいそと駿河台小川町へと向かった。
安兵衛に渡すべき2朱と、前金として受け取ってしまった2分は、坂田太市に渡せば処理して貰えるだろう。
太市なら、きっと林田の家の辺りにいる筈だと踏んでいた。
と、先に目が合ったのは、お夏であった。

>咲:あんた、なんでこんなとこに来てる訳?
>夏:絡(から)んじゃった以上、仕方がないじゃない?
>咲:はーん。素直じゃないわね。鴨太郎さんのことが心配なんでしょ?
>夏:そりゃあ心配よ。あたしって、そんな人でなしじゃないもの。
>咲:ほほう。言い抜けるわね。ま、そういうことにしといてあげても良いんだけどね。でもさ、坂田の小父(おじ)様が巧い具合いに手を回しておいて呉れてると良いわね。
>夏:そうね。・・・そんなことより、見てよ。読売りの効き目って思ったより凄(すご)いのね。吃驚(びっくり)しちゃった。それとも、文面が良かったのかな?
>咲:あんたねえ・・・。そんなことに感心してどうなるってのよ。
>夏:さあね、どうなるかしら? でも、野次馬がたくさん出れば、それだけ鴨太郎さんの首が繋(つな)がる見込みは高くなる。
>咲:そうね。お奉行様もご無体(むたい)なお裁(さば)きはできないわね。

太市が話し込む2人を見付けて、近付いてきた。

>太:林田は今日、非番になっておりまして、屋敷から一歩も出ておりません。
>咲:こんなに人が集まっちゃ、出るに出られないわよね。・・・あ、そうだ。これ、2分と2朱あるわ。
>太:なぜこんなに?
>咲:2朱は安兵衛さんの代金。そして、2分は次の10箱の前金なの。
>太:前金ですって? それも、最初の倍の値段じゃありませんか。よっぽど使い道に合ったのですね。
>咲:でも、もう作らないから、騙(かた)りの上がりみたいなものね。
>夏:
人聞きが悪いわね。悪の道から立ち直るための手間賃とすれば、こんな安いものないわ。
>太:そうですね。これは私が預かりましょう。後で悪事の証(あかし)として使わせて貰います。
>咲:ちょ、ちょっと待って。そうすると、あたしが売りに行ったってことも、ばれちゃうじゃないの。あたし、あんまりお白州(しらす)とかには出たくないな。
>太:その辺は有耶無耶(うやむや)にしておきますよ。・・・実はですね、今回の件では、あの竹上太蔵もやる気を起こして呉れましてね。「内々に」ということで、ご老中に話を通して呉れたのです。
>夏:じゃあ・・・
>太:ええ。鴨太郎さんの罷免(ひめん)の件は、なしということで済みそうです。
>夏:そうですか。どうも有難う御座います。
>太:お礼を言わなければならないのはこちらの方です。まだ時は掛かりますが、若年寄をまた1歩窮地に追い込むことができます。
>咲:これで世の中も少しは増しになるかしら。
>夏:なるわよ。きっと。

>太:竹上の奴のことですが、相当肝を冷やしたそうですよ。万一、当のご老中が、堀田から賂(まいない)を受け取っていたら、竹上自身の命が危なかったのですからね。出仕(しゅっし)前に、妻女に遺言まで託(たく)したそうです。
>咲:まあ、大袈裟ね。
>太:いえ、ないとは言い切れませんよ。表向きだけ対立しているように見せることなど、そう難しいことではありませんからね。ですが、竹上もやっと分かったようです。
>咲:何を?
>太:正しいことを成すためには、そういう肝を冷やすような場面が付きものだと言うこと、ですよ。いじいじしているだけでは、何も動きません。まったく、そういうことですな。

野次馬の垣根の一部が割れ、鴨太郎を筆頭とした捕り方たちが雪崩(なだ)れ込んできた。
「それー」という鴨太郎の一声で、勘定組頭宅へ押し入り、寸刻と要せずに林田を引っ立ててきた。
屋敷を囲んでいた庶民の歓声が、鬨(とき)の声のように湧(わ)き上がった。この歓声は、鴨太郎に向けられたものである。

>咲:どう? 男らしいって思わない?
>夏:そうね。ちょっと見直しちゃったかな?
>咲:惚れ直した?
>夏:・・・馬鹿。
(第21章の完・つづく)−−−≪HOME