176.【く】 『兄(けい)為(た)り難(がた)く弟(てい)為り難し』 (2003/04/14)
『兄たり難く弟たり難し』
力量などが殆ど同じで、二人のうちどちらを上とも下とも決め難い。
類:●難兄難弟伯仲(はくちゅう)の間(かん)●匹敵
出典:「世説新語−徳行」「太丘曰、元方難為兄、季方難為弟
出典:世説新語(せせつしんご) 中国の逸話集。5世紀半ば頃成立。3巻。六朝時代の宋の劉義慶(りゅうぎけい)撰。後漢末から東晋末までの貴族、僧、文人らの逸話を集めたもの。旧名「劉義慶世説」「世説新書」。略して「世説」とも呼ぶ。
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3月(現在の4月中旬頃)に入り、棟梁・源蔵が嬉々(きき)として雛壇(ひなだん)を飾り付けている頃、大石母子(おやこ)は、小豆内海(しょうどうつみ)の家に入った。
磯次郎は、役人にはならないがそれでも良いのかと、小豆に念を押した。

>小:私はね、小豆の家名にそれほど未練がある訳じゃないんだよ。・・・確かに、寂しいには違いなかろうが、実の弟が血を繋(つな)いでいて呉れるのであれば本望(ほんもう)だと、そう考えるようになったのだよ。
>磯:でも、「素性の知れない者を家に入れる訳にいかぬ」って言ってたそうじゃないんですか?
>小:源五郎殿には恥ずかしくてそんな言い方をしてしまったが、一緒に住む久恵殿のことを、事前に知っておきたかっただけなのだ。できるだけ好みに合うように取り繕(つくろ)っておこうと・・・。な、分かるであろう?
>磯:ぷっ。・・・可笑(おか)しな人だな、親父殿は。正直者だ。
>久:これ、軽々しい口を利(き)くもんじゃありません。
>小:良いのです、久恵殿。私はこの通り、微妙な駆け引きなどできない、役人には不適な者です。こんな男が小豆の家の家長で御座いなどと言っておられましょうか? 況(ま)して、養子やその母者(ははじゃ)に身勝手を押し付けることなど・・・
>久:内海様・・・
>磯:なあ、2人で盛り上がってるとこ、申し訳ないんだけど、そうと決まったんなら、出掛けても良いよね?
>久:どこへ行くというのじゃ?
>磯:小石川まで。それに、ちょっと挨拶(あいさつ)してこなきゃならないとこがあってね。
>久:身をお慎(つつし)みなさいよ。もう、大石の家の者じゃないんですからね。
>磯:分かってるよ。・・・それに、気を利かしたんだから、じっくりと、お話でもなんでもしてお呉れ。
>久:これ。なんたる端たないことを。

磯次郎の、小豆に対する印象は、随分と増しなものに変わっていた。
母親も満更(まんざら)ではないのかな、などと考えていた。その口からは、知らず識らずのうちに、「春だしな」という言葉が漏(も)れていた。
磯次郎は、小石川に行く前に、お夏の家に行ってみようと思っていた。会って呉れなくても構わない。どうせあの咲という娘が経緯(いきさつ)を説明して呉れているだろう。
そこへ、背中から声が掛かった。

>夏:初めて歩くところに来るときにはね、形(なり)振り構わず聞いて回るべきね。
>磯:おっと。脅(おど)かすなよ。
>夏:聞いたわよ。ぐうの音も出ないくらいやられたんですって?
>磯:ああ。やられたな。でも、なんだか清々(せいせい)したな。
>夏:あんた、なんか変な癖でもあるんじゃないの? 取っちめられて喜ぶなんてさ。
>磯:そうかもな。
>夏:何よ。あんまり素直だと、却(かえ)って気持ち悪いわね。
>磯:良いじゃねえか。今日から姓が変わったんだからよ。祝って呉れよな。
>夏:3日じゃなくて良かったわね。婿(むこ)入りの日が桃の節句だなんて、冗談みたいだものね。
>磯:放(ほ)っとけ。・・・でもな、母上にとってみれば、3日でも良かったのかも知れねえぜ。
>夏:へえ、それを認められるの。変われば変わるもんね。
>磯:そう突っ掛かるなよ。人が変わったってったって、まったく別人になんかなれねえんだからよ。
>夏:当たり前じゃない。けどね、こと小石川に関しちゃあたしの方が先輩なんだからね。ちゃんと立てて貰わないとね。あたしのお花畑を勝手に掻き回したりなんかしないでよね。

>磯:あんたは切ったり縫(ぬ)ったりする方だろ? 俺とは目指すところが違うんだ。お花畑は俺に任(まか)せて、旅の準備でも始めたらどうなんだ?
>夏:縄暖簾(なわのれん)の給仕程度で、準備ができる訳ないじゃないの。
>磯:じゃあ、こうしょうぜ。俺の親父殿に頼んで旅費の工面(くめん)を手伝って貰う。あんたが帰ってきたら、必ずお上(かみ)に認められるようになって、工面した分を俺に返す。
>夏:馬鹿じゃないの。そんなことしたらあんたの方がいつになるか分かんないじゃないの。
>磯:構わねえさ。俺かあんた、どっちかが医者になりゃ、千人以上の人が助かるんだ。あんたの方が俺より半歩先に行ってるんだ。だから、あんたが先だ。その代わり、途中で逃げ帰ったりするんじゃねえぞ。
>夏:馬鹿みたい。半歩後も半歩先もないでしょ? 道が違うんだから。・・・あーあ。薬が効き過ぎたって、お咲ちゃんに言っとかなきゃね。

小石川に向かって去っていく磯次郎の背中が、以前のように丸まっていなくて、なんだか男らしくなったと、お夏は感じていた。
病床で痛みに苦しむ父親を見て、その病気に効く薬を必ず作ってやると息巻いた、あの聞かん気の強い磯次郎が、やっと戻ってきてくれたと、密かに嬉しくなっていた。
好敵手だなどというのではない。かといって、同志という訳でもない。

さて、そんな頃、熊五郎と八兵衛は、静(しずか)のための雛壇の組み立てに四苦八苦していた。
折角(せっかく)の人形を壊(こわ)しそうだと、源五郎には手出しをさせようとしないのである。

>熊:棟梁、こんなのって、親が飾らなねえとご利益(りやく)がねえんじゃねえですかい?
>棟:ご利益なんかどうでも良いのさ。要は静が喜ぶかどうかってことさ。
>八:それにしたって、子供もねえおいらたちにやらせるこたあねえんじゃねえですかい?
>棟:子供があろうがなかろうが、そんなこと関係ねえさ。お前ぇらは家族みてえなもんなんだからよ。・・・じゃあ、こうしよう。明日は格別に、静の父親の役をやらせてやる。どうだ、嬉しいだろう?
>八:あの、おいらはご遠慮申し上げやす。
>棟:なんだ? お前ぇらしくもねえ。
>八:静嬢ちゃんは近頃、特に危なっかしい遊びを覚えてるみてえじゃねえですか。
>熊:擂(す)り粉木(こぎ)はいくらなんでも痛えですぜ、棟梁。
>棟:そうさな。確かに俺も困っちゃいるんだ。やっぱり擂り粉木はな・・・
>八:分かっててそんなこと言い出したんですかい? 勘弁してくださいよ。
>棟:そういう魂胆がある訳じゃねえさ。まあ、明日の夜は特別にご馳走(ちそう)を用意するからよ。
>八:え? ご馳に与(あずか)れるんでやすかい? それじゃあ、文句もなんにも言えやせんね。
>熊:すぐに騙(だま)されやがる。
>八:なんだよ。
>熊:良いか? お雛様と言やぁ、甘酒に餅あられ、菱餅に桜餅って相場が決まってるんだよ。
>八:それがどうかしたか? おいら、桜餅を肴(さかな)に甘酒でも、一向に構わねえぞ。
>熊:止しと呉れよ。おいらは「だるま」で蕗(ふき)の煮物の方が良い。

>源:親父、もう良いだろ? 八と熊を解き放ってやって呉れよ。
>棟:ああ。もうここまでくりゃあ良いぜ。後は俺だけでも大丈夫だ。
>熊:ふう。助かりやしたぜ、親方。
>八:おいらは餅あられでも構やしませんぜ。
>源:・・・さっきな、小豆様が訪ねてきたんだと。畏(かしこ)まって「お礼の言葉もない」だとよ。
>八:それじゃあ、礼金か菓子折りかを持ってきたんでやすね?
>源:そんなのあるもんか。
>八:ありゃ。そうなんでやすか。
>源:これから、磯次郎さんの勉学のために、貯(た)めなきゃならないから勘弁して呉れとよ。
>熊:それじゃあ、小豆の旦那も磯次郎さんのことを応援して呉れるんでやすね?
>八:そんなの、手土産(てみやげ)を持ってきた後からだって間に合いそうなもんなんでやすが・・・
>源:何をぶつぶつ言ってやがる。その分、俺が飲ましてやる。・・・おい熊、六之進さんとお咲ちゃんにも声を掛けてこい。
>熊:合点でぇ。そんじゃ、一足(ひとあし)お先に。
>八:あれあれ。何もあんなに慌てることもねえだろうによ。

>源:なあ、八。
>八:なんでやしょう?
>源:小豆の旦那の、養子の件は丸く収まったみてえなんだがよ。その、なんだ、養子の母親と小豆様本人はどうなんだ?
>八:何とかなるんじゃねえですか? なんてったって、お咲坊の口八丁に掛かったら、あんな小豆の旦那が、まるで高潔の士(し)かなんかみてえに聞こえやすからね。
>源:そうか。それなら良いんだがな。
>八:大丈夫でやすって。磯次郎と小豆の旦那が巧(うま)くやっていけば、母親だって嫌な気になりゃしませんよ。まるで雛壇の菱餅みてえに、3枚ぴったり合わさって、美味(うま)そうに飾られやすって。
>源:お前ぇはなんでも食いもんに喩えやがるな。まあ、聞いてて分かり易いっていえばそうだがな。
>八:でしょう? 分かり易いのが一番でさあ。
>源:・・・そのうち、熊の野郎も、菱餅みてえにしてやらねえといけねえな。
>八:なんですかい? 叩いて伸(の)して、色を塗って、町の小間使いにでも祭り上げようってんですかい?
>源:まったく、お前ぇはなんにも分かっちゃいねえな。食いもんに喩えればちっとは察するかと思ったんだがよ。
>八:なんのことでやすか? 親方?
>源:もう良い。五六蔵たちにも声を掛けてこい。「だるま」へ繰り出すぞ。
(第19章の完・つづく)−−−≪HOME