170.【く】 『群盲(ぐんもう)象(ぞう)を評(ひょう)す』 (2003/03/03)
『群盲象を評す[=撫(な)ず・模(も)す]』
多くの盲人が象を撫でてみて、その手に触れた範疇(はんちゅう)内で象のことを云々(うんぬん)するということで、凡人には大人物や大事業の一部分しか掴めず、大局からの見方はできないということ。
類:●衆盲象を模す
出典:「北本涅槃経−巻32」・「菩薩処胎経−巻3」など
出典:
菩薩処胎経(ぼさつしょたいぎょう?) 西魏時代。写経としては世界最古のもの。京都知恩院に残るものは国宝に指定されている。・・・詳細調査中。
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連絡もなしに訪れたのに、一黒屋与志兵衛はにこやかに迎えて呉れた。
お三千は「一黒屋」と聞いただけで目を丸くしたが、にこやかなご隠居の顔を見て緊張も解(ほぐ)れたようである。

>与志:あれっきり来てくださらないんで、嫌われてしまったかと思っていましたよ。本当ですよ。・・・おや? 八兵衛さんも一緒でしたか?
>八:お邪魔でやしたか?
>与志:そんなことはありませんよ。集まりは多いほど楽しくなりますからね。・・・それで、そちらの可愛らしい娘さんは?
>三千:は、はい。お三千と申します。
行(ゆ)く行く五六蔵さんと一緒になります。
>与志:そうですか、それを伝えに。これはお目出度い。それに、お三千さん、中々お目が高い。五六蔵さんに目を付ける娘さんなら、大歓迎ですよ。
>五六:ご隠居さん。ご隠居さんは、あっしのことを買い被り過ぎなんでやすよ。
>与志:そんなことあるもんですか。五六蔵さんは、ちょっとばかし、遠慮し過ぎなんですよ。・・・ま、立ち話もなんですから、ささ、寛(くつろ)いでください。今、さちを呼びますから。丁度、美味しいお酒が届いたところなんですよ。
>八:待ってました。やっぱりそう来なくっちゃ。
>与志:ほっほっほ。相変わらずですね、八兵衛さんは。
>五六:済いやせん。今日は、唯(ただ)ご報告に伺(うかが)っただけでやすのに。
>与志:良いんですよ。皆さんとはもう身内みたいなもんだと、勝手に思い込んでいるのはあたしの方なんですから。
>五六:勿体無え話でやす。
>与志:なあに。与太郎さんを紹介していただいたお礼もありますしね。・・・良くやっていただいてますよ。お陰で、あたしは本物の隠居暮らしですよ。ほっほぉ。

八兵衛は、こんなことなら、本当に、太助に声を掛けてやるんだったなと考えていた。飲み食いに執着するだけで、気が利いた話をできる訳じゃない太助なら、喜んで付いてきただろうのにと。
しかし、与志兵衛の口から出た言葉は、「太助さんも今ではこの隠居所の常連さんですよ」だった。

>与志:太助さんの食べっ振りは見事なもんですね。あたしも若い頃を思い出しますよ。
>八:太助の野郎、一人で良い思いしてやがったのか? 今度会ったら唯じゃおかねえからな。
>与志:まあ良いではありませんか。なんでしたら、八兵衛さんたちも、時折顔を出してくだされば良いじゃないですか。
>八:良いんですかい? そりゃあ願ってもねえ話でやすよ。
>与志:はは。どうぞどうぞ。・・・今夜のお酒は、越後の樋木(ひのき)屋さんという蔵元さんのもので、「鶴の友」といいます。これがまた、赤ひげの塩辛に良く合うんです。
>八:赤髭ですかい?
>与志:小海老(えび)のことですよ。舌に当たる海老の髭がまた、烏賊(いか)とは違ってなんとも言えず酒を誘いますよ。
>八:うひょうっ、そりゃあまた美味そうでやすねえ。・・・ご隠居も中々の通(つう)でやすねえ。
>与志:そりゃあ、八兵衛さんたちよりは、年季が入ってますからね。

>与志:それで? お三千さんは、五六蔵さんのどういうところを見初(そ)めたんですか?
>三千:初めは、ごつくて逞(たくま)しいところをなんですけど、でも、今はちょっと変わってきてるかも知れません。
>与志:ほう。それはどんな風にですか?
>三千:こんなこと言うと変に聞こえるかも知れませんが、他人に良かれと思うことを優先する人なんじゃないかなって・・・
>五六:止(よ)しと呉れよ、そんなご立派なことなんか考えたこともねえっての。
>与志:ほう。お三千さんは見る目がありますね。優しいということはそういうことなんです。ですが、そういう人は苦労しますよ。それも、覚悟の上なんですね?
>三千:はい。勿論(もちろん)です。
>与志:良い娘さんですねえ、五六蔵さん。
>五六:ご隠居さん、誉め過ぎですって。お三千にゃ、いつも驚かされっ放しでやすが、あっしは何もそんな深いことを考えてるわけでもねえし、なるべくひっそりと細々と暮らしていきてえと思ってるだけなんでやすから。
>与志:それで良いんですよ。五六蔵さんが、大雑把(おおざっぱ)そうに見えてそうじゃないってことが分かって呉れているだけで良いんです。分かってさえいれば、仮に度を越した頼まれごとがあっても、五六蔵さんが応(こた)えようとする限り黙って見ていて呉れるんです。
>三千:そんなこと、そのときにそういう風にできるかどうかなんて、分かりません。・・・唯、信じるか信じないかっていうことでしたら、きっと信じると思います。
>与志:それで良いんです。信じて付いていって良い人ですよ、五六蔵さんは。
>五六:ご隠居は人を持ち上げるのが巧過ぎやす。なんだかふわふわしちまいやすよ。
>与志:そうですか? あたしは嘘なんか吐(つ)いていませんけどね。

話が一区切り付いた頃合いに、丁度間合い良く、さちが寒鰆(かんざわら)のお造りと味噌田楽を運んできた。

>与志:さちや、五六蔵さんと、このお三千さんとが一緒になるそうです。
>さち:まあ。それはお目出度う御座います。なんだか、お正月の鏡餅みたいで、素敵じゃないですか。稚児(やや)でも生まれれば、橙(だいだい)が乗って、尚のことお目出度いですねえ。
>与志:中々洒落(しゃれ)たことを言いますねえ。・・・どうです? 稚児ができたら、紀州の橙を贈らせていただきますが、ご迷惑じゃありませんよね?
>五六:ご隠居様、祝言(しゅうげん)もまだなのに、稚児のことはなんとも言えませんや。
>与志:それはそうですが、妙なものが届いたなんて、捨てられてしまっては困りますんでね。それに、頃合いとしても、丁度良いところでしょう?
>さち:そうですね。十月十日(とつきとおか)って言いますからね。
>与志:この秋には、与太郎さんに紀州まで行って貰おうかと思っているんですよ。橙の仕入れにね。
>八:そりゃあ凄(すげ)え。・・・ってことは、今年の暮れは指が黄色くなるくらい橙が食えるってことでやすね?
>与志:期待しておいてください。・・・船が沈まなければ、ですがね。
>八:なんとかなりますって。おいらに関わったことってのは、全部巧い具合いに落ち着きやすからね。
>与志:はは。八兵衛さんのご利益(りやく)がなくたって大丈夫ですって。海運に関しては、堺屋さんに間違いないところを紹介して貰ってありますから、安心してください。こんなことは、素人が
兎や角言うより、その道の人に頼んでしまうのが一番ですからね。

>八:へ? 蛸に頼んだんでやすかい?
>与志:蛸、ですか?
>八:のらくらして蛸みてえでやしょ? 徹右衛門の野郎。
>与志:ほう。徹右衛門さんをご存知とは
隅に置けませんね。・・・と、そういうことで、どうです? お三千さん、うちか、然(さ)もなければさちのところで手伝っていただけませんか?
>三千:え? あたしがですか? 良いんですか?
>与志:勿論ですとも。ねえさち。・・・尤(もっと)も、あたしの狙いは、五六蔵さんがしょっちゅう尋ねてきて呉れるだろうということにあるんですがね。
>三千:あたし、足が悪いから皆さんに迷惑を掛けちゃいます。
>与志:おや。苦労は覚悟の上なんでしょう? 他人がどうかじゃなくて、ご自分が嫌いかそうじゃないかで答えていただけると思ったんですが。
>三千:良いんですか? ・・・あたし、頼まれることって、慣れてなくって。できるんでしたら、是非、お願いします。ね、良いでしょ、五六蔵さん。
>五六:ご隠居さん、お心遣いに甘えちまっても良いですかい? 本人も喜んでますんで。
>与志:勿論ですとも。身の回りが片付き次第来てください。

そんな頃、「だるま」には熊五郎と三吉を慰労するために、源五郎が来ていた。
熊五郎はともあれ、1人残されてしまった三吉を慰めるためである。

>夏:ありゃ? 今日はまた小ぢんまりとしちゃってますね。どうかしちゃったんですか、親方?
>源:どうもしやしねえさ。五郎蔵たちは「一黒屋」さんに祝言のご報告に行ってるって訳だ。溢(あぶ)れた俺たちが寂しく傷の舐(な)め合いをしようって魂胆さ。
>夏:なあんだ、そういうことなの。良かったですね、五六蔵さんのとこ巧くいきそうで。
>源:あっさり片付き過ぎて気抜けしてるとこだ。・・・なんて言ったら、
罰が当たるかな?
>夏:罰は当たらないけど、八兵衛さんが大変ね。
>三:そんなこと言ったら、おいらだって大変ですよ。
>夏:大丈夫よ。どうしてもってことならお咲ちゃんが何とかしてくれるから。
>熊:なんでお咲坊の名前が出てくるんだ?
>夏:へへ。こんなことだろうと思って、さっき帰ったお客さんに頼んで呼んどいたの。間もなく来るわよ。
>熊:余計なことするなっての。

暖簾を潜(くぐ)るなり「五六ちゃんがいないってどういうこと?」と言って、お咲が現れた。

>熊:五六蔵はな、「一黒屋」のご隠居のところへお三っちゃんを見せに行ってるの。大したことじゃねえだろ? そう大騒ぎするなよ。
>咲:何よ。どうなってるか教えて呉れてないんだから、心配するの当たり前じゃないの。・・・あら親方、お恥ずかしいところをお見せしまして。
>源:良いよ。もう慣れた。
>咲:お恥ずかしい。・・・でも、良かったですね。五六ちゃんのとこ巧く行きそうで。
>源:今度のばっかりは冷や冷やもんだったがな。
>熊:「
終わり良ければ全て良し」でやすよ、親方。
>源:確かに、結果はな。・・・でもな、男と女なんて、どこでどう繋(つな)がるか分かったもんじゃねえな。
>熊:親方と姐(あね)さんの仲立ちがあってこそですよ。
>源:
おべっかなんか言うな。俺なんかまだまだだよ。まったく、男女の相性の何たるかなんか、俺みてえな無粋(ぶすい)の輩(やから)には死ぬまで理解できねえってことだ。
>熊:そう言わねえでくださいよ。まだおいらや八、それに三吉も残ってるんでやすからね。
>源:分かったよ。精々努力させて貰おう。・・・ときに、折角だから教えといてやりてえことがあるんだ。
>熊:なんでやすかい?
>源:松吉のやつな、あいつ冗談めかしていやがったが、ほんとに鰯(いわし)の頭を、五六蔵んとこの軒(のき)に刺しておきやがった。・・・なんだかんだいっても、
気に掛けて呉れてるんだよな。
>熊:あの野郎、また古臭えことを・・・
(第18章の完・つづく)−−−≪HOME