169.【く】 『葷酒(くんしゅ)山門(さんもん)に入(い)るを許(ゆる)さず』 (2003/02/24)
『葷酒山門に入るを許さず』
禅寺の門の脇の戒壇石(かいだんせき)に刻まれる句。「不許葷酒入山門」とあり、臭いが強い野菜(=葱(ねぎ)、韮(にら)、大蒜(にんにく)など)は他人を苦しめると共に自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これらを口にした者は清浄な寺内に立ち入ることを許さないということ。
参考:戒壇石(かいだんせき) 律宗・禅宗などの寺院の前に立てた石標。多く、「不許葷酒入山門」の句が刻んである。結界石。
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見合い話は順調に運んでいるようだったが、五六蔵一人が何故(なぜ)だか釈然(しゃくぜん)としない風であった。
かといって、毎日のように現れるお三千に対しては、照れながらも嬉しそうな顔を見せていた。

>熊:なあ八よ。五六蔵の野郎、祝言(しゅうげん)の話、嬉しくねえのかな?
>八:なんでだ? あんなに鼻の下を伸ばしてやがるじゃねえか。
>熊:お三っちゃんが来てる間はな。・・・でも、時々、あんまり嬉しそうじゃねえ顔をするんだよな。
>八:そりゃあお前ぇ、兄弟子より先に幸せになっちまうのが申し訳ねえからって、そういう顔をして見せるのよ。腹の中は分かったもんじゃねえぜ。にへらにへらしやがってるに違いねえんだ。まったく、羨(うらや)ましいったらありゃしねえ。
>熊:おいらたちに遠慮してるって感じでもねえんだがな。特に、お前ぇにはな。
>八:そうか? なら、もう少しおいらに遠慮するように言ってやらなきゃならねえな。
>熊:そういうことじゃねえだろ。
>八:そりゃそうだ。遠慮してる暇があったら、お三っちゃんの友達でも紹介しろってことだよな。
>熊:違うったら。・・・まったく、お前ぇと話しても埒(らち)が明かねえや。今晩辺り、じっくり話し合わねえといけねえな。
>八:待ってました。
>熊:何が「待ってました」なんだ?
>八:話が祝言のこととなりゃ、親方に出張って貰わなきゃなるめえ? そうなりゃ、お足は親方持ちになるじゃねえか。
>熊:まったく、お前ぇってやつは、飲み食いのことになると頭が回りやがる。・・・ま、親方が来てくださるかどうかは別にして、相談してみた方が良いな。
>八:来なくても良いから、なんとか巧いこと言って飲み代(しろ)をせしめろよ。
>熊:なんだ? おいらの仕事なのか?
>八:決まってんじゃねえかよ。元はといえば、お前ぇんとこに来た見合いだっていうじゃねえか。終(しま)いまで面倒見てやるのが筋ってもんだろ?
>熊:自分が只酒を飲みてえってだけで、よくもまあ次々と屁理屈を思い付けるな。

「俺もちょいとばかし気になってたとこだ」と、源五郎も答えた。
偶(たま)には顔を出しておくかと、連れ立って「だるま」に行くことになった。
八兵衛は、ご機嫌である。弟弟子が次々と身を固めていくという事実も、それほど意に介していない風である。取り越し苦労だったかと、少し安心もしていた。

>夏:まあ親方、ご無沙汰(ぶさた)ですぅ。今年も宜しくお願いしまーす。
>源:あ、ああ、宜しく。今年もこいつらが世話になるぜ。
>八:昨日も、一昨日も世話になってやすよ。な、お夏ちゃん。
>夏:ちゃんと仕事をしてます? 五六蔵さんのことで、
臍を曲げちゃってるんじゃないですか?
>源:なんとかやってるようだが、少しは応(こた)えてるのかも知れねえな。
>八:何を言ってるんですか、親方。おいらがそんな尻(けつ)の穴の小さい男だと思ってるんでやすかい?
>熊:飲み代(しろ)を集(たか)ることばっかり考えてるやつが何を言っても説得力がねえっての。
>八:余計なことを言うんじゃねえよ。そんなことより、お夏ちゃん、温(あった)かいもんを見繕(みつくろ)っと呉れ。
>夏:はーい。親爺さーん、親方んとこに御田(おでん)大盛りーっ。

>源:なあ五六蔵、お三っちゃんとのことはどうなんだ?
>五六:どうって言われやしても・・・
>源:俺は、案外相性の良い取り合わせだと思ってるんだがな。
>五六:へい。あっしなんぞにゃ過ぎた娘だと思いやす。
>源:そうか。じゃあ、このまま纏(まと)めちまっても良いんだな?
>五六:へ、へい。そりゃあもう。・・・願ってもねえ話でやす。
>源:歯切れが悪いな。
>五六:とんでもねえ。本当に有り難えと思ってるんです。唯(ただ)・・・
>源:なんだ? 問題でもあるか?
>五六:いえ、問題っていうほどのことじゃねえんで。唯、なんとなく、気持ちが割り切れやせんで。
>熊:何がどう割り切れねえんだ?
>五六:へい。親方に無理を言って弟子にしていただいて、どうにか3年ってとこで、まだまだ修行も十分に済んでねえってのに、女だ嫁だって
浮(う)わついてて良いもんでやしょうか?
>熊:なんだと? お前ぇ、そんなこと気にしてやがったのか?
>八:偉い。偉いぞ五六蔵。お前ぇは顔に似合わず、中々立派なことを言うじゃねえか。まるで坊さんみてえだぞ。
>熊:お前ぇもそのくれえだと有り難いんだがな。・・・五六蔵、見ろよ、八なんか二六時中浮わついてやがるんだぞ。そんなこと言い始めたら、八はいつんなっても嫁なんか貰えなくなっちまうじゃねえか。
>八:何? そいつは困る。五六蔵、どうでもいいから、そんな坊さんみてえなことなんか考えるのは止せ。兄弟子のことを少しでも哀れと思うんだったら、すぐにでもお三っちゃんと一緒になって呉れ。な。
>熊:なんてえ言い草だ。

>源:嫁を貰うことと浮わついてるってこととはまったく別もんだぞ、五六蔵。
>五六:はあ。
>源:これからは家族を食わしていかなきゃならなくなるんだ。子供でも産まれてみろ。修行中で御座いなんて言ってられなくなるんだぞ。
>五六:分かってやす。・・・ですから、嫁に貰うんなら、もう少し腕前が上がってからってことの方が良いんじゃねえかと思ったんでやす。
>源:ぞれも1つの考え方ではある。確かにな。・・・だがな、遅かれ早かれおんなじ相手を貰うってんなら、早々に一緒に暮らして、尻を叩いて貰うってのも正しいあり方なんじゃねえのかい?
>五六:ですが、その分苦労を掛けちまうんじゃねえですか?
>源:お前ぇはほんとに分かっちゃいねえんだな。・・・あのなあ、一緒になるってことはな、苦労を掛けるってことと殆(ほとん)どおんなじことなんだぜ。腕前が上がろうがどうだろうが、掛かる苦労の重さはおんなじなのさ。
>八:そうなんでやすか?
>源:お前ぇまで、そんなこと言ってやがるのか? 仕様のねえ野郎だな。まあ、俺が言ってるんだから信じるんだな。有り難えことに、お三っちゃんは「苦労したい」って言って呉れてるじゃねえか。素直に甘えるんだな。
>五六:それで良いんでやしょうか?
>源:なんなら、ご当人に聞いてみるんだな。そんなことを考えてたのかって怒られるのが落ちだがな。
>八:あーあ、良いよな、五六蔵はよ。良い嫁を見付けて貰ってよ。苦労するのが趣味だなんて娘、そうざらにはいねえぜ。・・・ねえ親方、おいらもお三っちゃんみてえなのが良いな。何とか探してきてくださいよ。
>源:いい年扱(こ)きやがって何を言ってやがる。そんなもん自分で探してきやがれ。・・・三吉、手前ぇもだぞ。
>三:まだ何も言ってないじゃありませんか。
>源:言おうとしてただろ。
>三:こりゃ参った。親方には嘘は吐(つ)けやせんね。

五六蔵も漸(ようや)く臍(ほぞ)を固めたようだった。
心成しか、顔付きがすっきりしたようだった。

>源:ただな、現場まで顔を出すのは、なるべく止めるように言っといて呉れねえか?
>八:なんででやすか? 偶(たま)には目の保養も良いもんでやしょう?
>源:昼どきに一緒に飯を食うくらいなら構わねえが、梁(はり)に上がってるところをはらはら見ていられると、こっちまで心配になっていけねえ。
>五六:分かりやした。仕事の邪魔になるようなことはするなってことでやすね?
>源:大方はそういう理由だが、もう1つ、八の手元がお留守になっていけねえってのもある。
>熊:違えねえ。
>八:なんですか、そりゃ? それじゃあまるで、おいらが若い女と見りゃあ色目を使うみてえじゃねえですか。
>熊:違うのか?
>八:憚(はばか)りながら、この八兵衛、人の女房と決まった娘にまで色目を使うほど零落(おちぶ)れちゃいやせんぜ。
>熊:どうだか。
>八:お前ぇなあ。おいらが今までにそんなことしたの、見たことでもあるのか?
>熊:あるさ。例えば、お夏坊にそんなことしてるんじゃねえのか?
>八:何? お夏ちゃんが誰かの女房になるって、もう決まっちゃってるのか?
>熊:さあな。
>八:例え話にしちゃあ、質(たち)が悪過ぎるぜ。寿命が5年は縮まったじゃねえか。ああ吃驚(びっくり)した。

あっちでそれとなく聞いていたお夏は、熊五郎に向かって眉間に皺を寄せてみせ、あかんべえをした。

>源:ついでだからもう1つ言っとくぞ、五六蔵。
>五六:へい。なんでやしょう?
>源:こいつは余計なことなのかも知れねえが、「一黒屋」のご隠居さんにご挨拶だけでも行ってこい。一度は「養子に」って言ってくださったんだ。義理立てしといても罰(ばち)は当たらねえぞ。
>五六:そうでやすね。あっしも、少し引っ掛かっちゃいたんです。2人で行ってきやす。
>八:あの、親方?
>源:なんだ?
>八:おいらも一緒に付いてっちゃ可笑しいでやすか?
>源:別に可笑しくはねえが、なんでだ?
>八:「一黒屋」といえば山海の珍味と、浴びるほどの酒でやすよ。あそこへ行くときに置いてかれたんじゃ、こちとら悔しくって夜も眠れませんぜ。
>源:そんな理由かよ。まったくお前ぇってやつは・・・
>熊:開いた口が塞(ふさ)がらねえってのはお前ぇのことだぜ。
>八:なんだよ、熊。ほんとはお前ぇも行きてえ癖に。
>熊:おいらは遠慮するよ。三吉と太助でも連れてってやれ。
>八:そりゃあ良い。太助の野郎、飛び上がって喜ぶぜ。
>熊:そのうちきっと、「柄の悪い大工と、酒だけが目当ての食いしん坊は、商売の邪魔だから敷居を跨(また)ぐな」っていう貼り紙かなんかを掛けられるぜ。

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