151.【き】 『窮鼠(きゅうそ)猫を噛(か)む』 (2002/10/21)
『窮鼠猫を噛む』
弱い者でも絶体絶命の立場に追い詰められると、往々にして強者に反撃するものだ。必死の覚悟を決めれば、弱者でも強者を苦しめることがある。
類:●窮鼠噛狸
用例:太平記−四・備後三郎高徳事」「窮鼠却猫噛、闘雀不恐人」
出典:「塩鉄論−詔聖」「死不再生、窮鼠噛狸、匹夫奔万乗、舍人折弓、陳勝呉広是也」
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小火(ぼや)騒ぎで気が昂(たか)ぶったせいなのか、お杉はすんなりお咲に着いてくる気になった。
「だるま」に入るなり、八兵衛たちと丈二が一緒にいるのを見て、大袈裟たじろいだ

>杉:あら。・・・丈二さん、でしたか? あの、改めまして、どうもお世話になりました。
>丈:と、とんでもねえ。おいらの仕事でやすから。
>杉:そう言えば、八つぁんと話があるとかと言ってましたっけね。お話は済みまして?
>丈:へ、へい。良かったら、ご一緒にどうぞ。
>杉:良いんですか? お邪魔ならまた出直しますけど。
>八:お杉坊、良いから掛けなよ。ささ、駆け付けだ。くいっとやんな。
>杉:いいわよ、八つぁん。あたし酒癖が悪いから、今夜は遠慮しとく。
>八:構(かま)うこたあねえ。おいらだって熊だって全然気にしねえからよ。
>熊:飲んだ上での酒癖なんかよ、飲み助の数だけあるんだぜ、お杉坊。ちょっとくらい度を越しても誰も責められやしねえ。・・・なあ丈二?
>丈:そうですよ、お杉さん。「酒は人を正直にする」とも言いやす。悪いことじゃあねえ。
>咲:そうよ、お杉さん。大丈夫だって。・・・なんならあたしも付き合っちゃうから。
>熊:お前ぇは止(や)めとけっての。
>杉:でもねえ・・・
>八:でもも雁擬(がんも)もねえ。
>咲:何それ?
>熊:使い古された駄洒落(だじゃれ)は1日1回で良いの。・・・それはさて置き、お杉坊、店の方はもう揉(も)めてねえか?

>杉:今のところはね。けど、心配はあるのよ。元々頼りにされていなかった旦那様の評判ががた落ちなの。
>八:噂には聞いてるが、庄助とかいう旦那は朝寝と朝酒朝湯が大好きで、それで身上(しんしょう)潰(つぶ)したそうじゃねえか。あー尤(もっと)もだー尤もだ。

>熊:そりゃあ囃(はや)し歌かなんかだろ? そんな奴ぁいやしねえって。
>杉:そうですとも。いくらうちの旦那様がずぼらだからって、朝酒だけはしてません。一緒にしたら可哀相(かわいそう)よ。
>八:・・・だけどよ、おいらが聞いた話だと、朝酒はしねえにしろ相当なぐうたららしいじゃねえか。
>杉:そりゃあ、これ以上ないってくらい立派なぐうたらよ。それはあたしも認めるわよ。でもあたしだって、ここまで勤め上げちゃったら放っておけないじゃない。あたしは旦那様を守ってあげる側の立場なの。
>熊:その気持ちは分かるがよ、人の口に戸は立てられねえからな。旦那さんが主(あるじ)としちゃあ不十分で、その上、人としても今一つだったら、もうおいらたちの救いよいうはねえな。
>杉:待ってよ。そりゃあ火元は旦那様本人のようよ。でも、眠ってしまったんだもの、仕方がないでしょう? あたし、味方になってあげたいのよ。
>丈:火元は火元ですよ、お杉さん。寝てる間だろうと、酔い潰れていようとそいつは動きやせんぜ。

>杉:あら、丈二さんは随分杓子定規を言うのね。状況を配慮してあげるとかそういうことはできないんですか?
>丈:配慮ですか? おいらたちのやってることは、いつも配慮ばっかりですよ。そして、その配慮が悪いことだなんて思ってもいません。罪を憎んで人を憎まずです。
>杉:じゃあ・・・
>丈:・・・ですがね、現場の検分にも出てこねえっていう逃げ腰は許せねえんですよ。おいらたちの間の戒(いまし)めからすれば、そういう人は2度3度繰り返すもんなんですよ。「偶々(たまたま)」ってのは一体どういうことなんです? 「運が悪かった」で済まして良いんですか? ・・・そうやって、懲りずにおんなじことをやらかすのが、そういったお人なんです。
>杉:・・・そう。そうなのよね。・・・やっぱり、旦那様は懲りてないお人ですものね。
>丈:話せば分かってくださいますよ、きっと。話を聞いて呉れれば、ですがね。
>杉:そうじゃないと困っちゃいますよね、お互いに。
>丈:困りますとも。いつまでもお杉さんを束縛して、こき使って、店を持たせるでもなし、嫁ぎ先を取り持つでもなく・・・。おいら、心配なんですよ。
>杉:この際、あたしのことなんかどうでも良いのよ。

>丈:良くはありやせん。大事なことです。・・・殊(こと)に、おいらにとっちゃあ肝心なことなんでやす。
>杉:どうして?
>丈:どうしてって・・・
>八:お杉坊、お前ぇも鈍(にぶ)いな。丈二の野郎はお前ぇのことが好きなのさ。夜も眠れねえくらいな。
>咲:まあ、素敵っ。
>杉:そんなこと・・・
>丈:ほんとなんです。お杉さんが蔵助を叱ってるとこを見てから、どうにも忘れらんなくなっちまって。寝ても覚めても貴女(あんた)のことばかり・・・
>八:なんだ丈二、あの昼行灯を知ってるのか?
>丈:ああ。昔馴染みなんだ。おいらもあいつの役立たず振りには手を焼いてたとこだ。
>八:そうかい、そんなことが切っ掛けだったのかい。ふうん。
>杉:ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。そんなこと急に言い出さないでよ。
>熊:お杉坊にとっちゃ急な話でも、丈二にとっちゃ急でもなんでもねえのよ。真面目に聞いてやんなよ。
>八:何しろ、そのお陰で奈良屋が燃えずに済んだんだからよ。
>杉:え? どういうこと?

熊五郎はお杉に、丈二が寝付けずに、夜な夜な奈良屋の周りをうろついていた経緯を説明してやった。

>熊:そうまで思われてるんだ。悪い気はしねえだろ?
>杉:そりゃあ、そうだけど・・・
>八:なあお杉坊、丈二とくっ付いちまいなよ。
>咲:あたしも賛成。
>杉:お咲ちゃんまで。・・・そんなこと、慌てて決められないわよ。番頭さんや旦那様とだって相談しなきゃならないし。定吉にだって言い分はあるでしょうし。
>八:定吉は大丈夫だ。断ろうもんならこのおいらが取っちめてやる。
>熊:まあまあ。・・・定吉のことは案ずることもねえとして、問題なのは奈良屋の旦那だよな。
>杉:あたしが辞めちゃったら番頭さんだって困るわよ。
>熊:何も今直ぐ辞めろとかそういうことじゃねえんだからよ。
>杉:そうはいかないわよ。嫁になるっていうことは、家に仕えることでしょう? 外に職を持つなんて以っての外よ。
>八:お武家じゃねえんだから・・・
>咲:へえ、意外。お夏ちゃんにも聞かせてあげたい話ね。
>熊:まったくよ、考え方が新しいんだか、古臭いんだか・・・
>杉:間違ったことなんか言ってないでしょう?
>熊:ああ。確かに。
>丈:あの・・・、おいらとしちゃあ、やっぱり、家に入って貰いてえです。

>熊:まあ、なんだ。お杉坊だって満更(まんざら)嫌でもなさそうだし、その気になって進めてみちゃあどうだ?
>杉:うん。まあ、無下に突っ撥ねるほど上等な女である訳じゃなし、前向きに考えさせていただきます。
>咲:やったあ。
>丈:本当ですかい? こりゃあ有り難え。
>杉:こんな売れ残り蓮っ葉でも良いんですね?
>丈:誰が蓮っ葉なもんですか。お杉さんほど慎(つつし)み深い人はいませんよ。おいらは、どうあってもお杉さんじゃねえと駄目なんだよ。
>杉:丈二さん・・・。

>八:ああ、見ちゃあいらんねえぜ。熊よ、帰ろうぜ。なんだか馬鹿馬鹿しくなってきたぜ。
>咲:待ってよ八つぁん。お杉さんが奈良屋を辞めるっていうんなら、番頭さんと旦那さんの了解が要るんでしょ? 番頭さんは喜んで呉れるでしょうけど、そのぐうたらな旦那さんってのは、一体どうなの?
>丈:そうよな、会っても呉れねえんじゃ話にもならねえよな。
>杉:それより、旦那様本人だって、いつまでも主でいられるかどうか分かったもんじゃないしね。
>八:どういうこった?
>熊:真逆(まさか)、その番頭さんがお店を乗っ取るってことなのか?
>杉:文吉さんはそんな悪いことを考える人じゃないわよ。
>熊:じゃあ・・・
>杉:一番心配なのはお種(たね)ちゃんとお実(さね)ちゃんね。
>八:そりゃあ、女中の名前だろ? そんなの誰がどう考えたって無理に決まってんだろ。

>杉:違うのよ、それが。旦那様には3人の息子さんがいるって話したじゃない? 菱太郎さん・貝次郎さん・髪三郎さんっていうんだけど、選りに選って一番気の弱そうな三男坊に梃(てこ)入れしちゃってるのよ。
>熊:実の倅だろ? しっかりしてるんなら構わねえんじゃねえか?
>杉:それがね、全然しっかりしてないのよ。朝寝朝湯だけでもまだ何かするだけ増しってもんよ。髪三郎さんったら、全くなんにもしようとしないんだから。
>熊:そりゃあ酷(ひで)え。そんなんじゃあ先が思い遣られるじゃねえか。
>杉:そこが味噌なのよ。お種ちゃんとお実ちゃんは、ゆくゆくは身代(しんだい)を意の儘(まま)にしちゃうつもりなのよ。
>熊:番頭さんは気が付いてねえのか?
>杉:女中の間だけの話だから、全然気付いてないわ。
>熊:なあ、2人の兄貴はどうなんだ? 指を咥えて見てるだけってことはねえだろ?
>杉:それぞれがお種ちゃんとお実ちゃんに夢中なのよ。元々賢い方じゃないし、あの子達の言いなりよ。
>熊:そりゃあ豪(えら)いことになるぞ。
>咲:ねえ熊さん、聞いちゃったからには、黙って見過ごす訳には行かないわね。
>熊:おいお咲坊、お前ぇまた・・・
>咲:良いじゃない。悪いことは悪い。そして、ここには正義感の強ぉい男が3人もいる。このお咲とお夏ちゃんもいる。どう? もう決まりね。
>熊:あのなあ・・・

>八:あのさ、おいら思うんだけどよ、お種ちゃんってのとお実ちゃんってのを仲違(たが)いさせちまえば早いんじゃねえのか?
>咲:お、八つぁんにしては珍しく冴えてるう。女ってのは欲張りだから、最後は必ず独(ひと)り占めしたくなるもんだもんね。
>八:そうよ。一方がよ、別の誰かとぐるになってるって耳打ちすりゃあ一発よ。
>杉:それがね、そうでもないのよ。2人は、一緒にどん底の生活を乗り切ってきた姉妹なのよ。

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※お詫び:時代考証を誤っています。
小原庄助さんのモデルは@材木商小原屋の庄助説A会津塗師久五郎説の2説があり、いずれも1850年〜60年代に名を馳(は)せた人です。この物語の時代(1802年)には、この囃し歌は存在していません。(上へ戻る