140.【き】 『疑心暗鬼(ぎしんあんき)』 (2002/08/05)
『疑心暗鬼』(を生ず[=を作る])
心に疑いを持っていると、暗闇の中に、ありもしない鬼の形を見たりするという意味で、疑う心があると、何でもないことまで、恐ろしく思えたり、疑わしく思えたりする。
参考:列子斎口義−説符篇」 「人有亡[金+夫]者」章 「此章猶諺言疑心暗鬼也」
出典:列子斎口義(れっしけんさいくぎ) 林希逸撰。南宋。4巻。和刊本は万治2年(1659)。・・・調査中。
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6つ半(19時頃)、「皆さーん、お・ま・た・せ。栗林夏、只今参上」と、相変わらず元気なお夏が現れた。
「よ、待ってました」と、粗野(そや)な声が奥の方から返ってきた。

>夏:ありゃ凄(すご)い、お咲ちゃんのお父上まで来てるじゃない。長屋総出みたい。何かあったの?
>咲:お祝いの会なの。
>夏:誰の?
>咲:四郎ちゃん。・・・明日祝言(しゅうげん)を挙(あ)げるの。
>夏:明日? 随分急な話なのね。
>熊:四郎の嫁になりたい一心で、下野(しもつけ)
下(くんだ)りから追ってきたってんだ、羨(うらや)ましい話じゃねえか。
>四:熊兄い、それは言い過ぎですよ。
>熊:だってそういうことなんだから仕方ねえだろ。
>四:姐さんはそう言ってましたけど、本人から言われた訳じゃないですから、なんだかくすぐったくって。
>夏:へえ。四郎ちゃんも隅に置けないのね。
>咲:生真面目(きまじめ)だし、謙虚だし、なんだか乙女心を擽(くすぐ)るのよね。八つぁんとは大違い。
>八:お咲坊、もう勘弁しとくれよ。もう駄々っ子みてえなことは言わねえからよ。
>咲:駄目。当分は信用してあげない。
>夏:ありゃ。お咲ちゃんにしちゃ随分厳しいのね。どうしたの?
>咲:八つぁんったらね、四郎ちゃんに先を越されるのが気に入らなくって、ねちねちと厭味の言い通しなのよ。
>夏:そりゃあ良くないわ。弟弟子のお目出度を喜んであげられないなんて、兄弟子失格ね。良い親方になれないわよ。
>八:こう見えても結構へこんじまってるんだぜ。もうそれくらいで勘弁してくれよ。な?
>熊:もう1日反省してろ。
>八:そんな
殺生(せっしょう)な・・・

お夏は「親爺さーん、四郎ちゃんがお嫁さんを貰うんだってぇ」と声を掛ながら奥へ引っ込んだ。
周りの常連たちの目が一斉に四郎に集まり、「そうかい、そいつぁあ目出度え」と、それぞれが猪口(ちょこ)を掲げた。
やがて支度(したく)を済ませたお夏が、銚子を5本運んできた。

>夏:3本は親爺さんから、2本はあたしからの奢(おご)りよ。
>熊:そいつはいけねえよ、お夏坊。こういう時はこっちが皆に振舞い酒しなくちゃいけねえ。
>夏:良いじゃないの。気は心ってね。気持ちよ気持ち。
>熊:そうか? それじゃあ甘えるか。四郎、有り難くいただいとけ。
>四:お夏ちゃん、どうも済みません
>夏:良いのよ。あたしんときはその何層倍も出して貰うから。
>熊:ちゃっかりしてやがるぜ。
>八:もしかして、お夏ちゃん、もうそんなことになってるんじゃねえよな?
>夏:あたし? そんな訳ないじゃない。あたしは医術と所帯を持つのよ。
>八:だってさっき、あたしんときって・・・
>夏:そんなのお愛想に決まってるじゃない。些細なことにぴりぴりしないの。

>八:だってよ。この上、お夏ちゃんまで失ったらおいら、もう立ち上がれねえよ。
>夏:情けない顔しないで。少なくとも、八兵衛さんがお嫁さんを貰うまでは見届けたげるからね。
>咲:どういうこと?
>夏:父上の面倒はおしか姉さんが見て呉れるし、兄上の禄(ろく)もそこそこになったし、ちょっと我が侭させて貰おうかなって思ってるの。
>咲:我が侭って?
>夏:うん、長崎辺りに行ってこようかななんて。
>八:長崎? 長崎ってったらお伊勢様よりもずっとずっと向こうにあるんじゃねえのかい?
>夏:そうね。3層倍くらいかな?
>八:なんでまたそんな地の果てまで行かなきゃならねえんだ?
>夏:日本の医術は遅れてるのよ。
>八:いつだ、いつ行くんだ?
>夏:だから、八兵衛さんがお嫁さんを貰うのを見届けたら、かな?
>咲:そんなこと言ってたらいつになるか分からないじゃないの。
>八:お咲坊、お前なあ・・・
>夏:きっかけが要るのよね。結構辛い旅になるから。だから、縁起の良いことを踏んぎる切っ掛けにしたいの。
>咲:もっと良い切っ掛けがあるでしょうに。
>夏:もう決めたの。口にしちゃった以上もう変えられない。
>八:そんじゃあよ、おいら嫁なんか貰わねえで良いから、ずっとこのまんまここに居てくれよ、な?
>夏:そうもいかないでしょ? お互いのためにも。

とんだ祝いの会になってしまったなと、熊五郎は考えていた。
お杉の婿探しくらいならまだしも、お夏の将来に纏(まつ)わることにまで関わってしまったのだ。
安穏(あんのん)と酔っ払っている訳にもいかなくなってしまった。

>熊:そのこと、鴨太郎は知ってるのか?
>夏:鴨太郎さんには関わりのないことだもの。誰にもなんにも言ってないわ。父上にもね。
>熊:養生所の先生にもか?
>夏:保本(やすもと)先生には相談に乗って貰ってるの。本当にその気があるんなら、紹介状を持たせて呉れるって。
>熊:だってお前ぇ、まだ16だぞ。
>夏:そこなのよね。先生も少なくとももう2年は待ちなさいって。そんなに待ってたらお婆ちゃんになっちゃうじゃないのよ、ねえ。
>熊:そいつは、おいらと八への当て付けか?
>夏:ばれた? あはは。

屈託なさそうに笑ってはみせているが、お夏の目は真剣だった。
これは、自分の口から鴨太郎に伝えてあげなくてはけないかと、熊五郎は考えていた。

>夏:それはそうと、四郎ちゃん、お嫁さんは連れてきてないの?
>四:ええ。およねちゃんにも、吾作さんや二郎兄(あん)ちゃんにも、まだ会ってないんです。
>夏:なあんだ、見てみたかったな。近いうちにきっと連れてきてよね。
>四:はい。分かりました。
>夏:四郎ちゃんって、ほんっとに素直ね。天邪鬼(あまのじゃく)の熊お兄ちゃんとは大違い。苦労させられるわよね、ねえ、お咲ちゃん。
>咲:何よ。都合が悪くなったからって何もあたしに振ることないじゃないのよ。
>夏:そう照れない照れない。いっそのこと四郎ちゃんたちと一緒に祝言挙げちゃったら?
>六:なんと。咲が誰と祝言を挙げると言うのだ。
>夏:あらお父上。そんなの熊さんとに決まってるじゃない。
>六:許さん。儂(わし)の目の黒いうちは、駆け出し大工のところへなど嫁になんか行かせぬ。
>夏:まあ。余計なことを言っちゃったかしら?
>八:構うもんか。どうせ覚えちゃいねえんだ。見てみろ。目が黒いうちどころか、もう目を白黒させてるじゃねえか。
>夏:あらほんと。相当酔っ払っちゃってるのね。大丈夫なの?
>六:儂は酔ってなどおらん。今日の秘策は完璧に効(き)くと、ぶっ掛け飯屋の主(あるじ)が申しておったから・・・
>定:寝ちゃいましたねえ。・・・負んぶして帰りましょうか?
>咲:まだ始まったばかりじゃないの。良いから放っときましょう。定ちゃんだってお杉さんのこともうちょっと相談してった方が良いでしょ?

>四:あの、こんなとこでこんなこと言い出すのは何かと思うんですが・・・
>熊:どうかしたか?
>四:はい。姐さんがちょっと気になることを仰(おっしゃ)いまして。
>熊:およねさんのことか?
>四:およねちゃんのことってよりも、兄ちゃんや吾作さんのことなんです。なんか隠してることがありそうだって。
>熊:隠してること? 
>四:「庄屋様がお奉行様あたりに伝手(つて)を持っていて呉れたら」というようなことを言ってたらしいんです。田舎で何か困り事でもあるんじゃないかと・・・
>与:そう言えば、四郎さんの実家で、畑のものを見にいったとき、一郎さんの背中に青痣(あざ)みたいなものがあったような気がするんです。
>熊:青痣くらい道で転(ころ)んだってできるだろう。なあ四郎、田舎でそんなこと何も言われてねえんだろ?
>四:はあ。ですが、元々、あれこれ喋る家族じゃありませんから。
>熊:お前ぇも心配性だな。何かあるんだったらのこのこ江戸まで出掛けちゃこねえよ。勘違いだよ。然(さ)もなきゃ、
里心でも付いちまったんじゃねえのか?
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