137.【き】 『聞いて極楽(ごくらく)見て地獄(じごく)』 (2002/07/15)
『聞いて極楽見て地獄』
人から聞いたのと、自分の目で実際に見たのとでは大きな相違がある。
類:●聞いて千金見て一毛
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直ぐ近くに二郎たちが来ているなどとは露知らず、八兵衛は「四郎親方ぁ」と呼んで四郎をからかっていた。

>八:四郎親方。今日はお兄様は来なかったですねえ。
>四:いっそのことずっと来なければどんなに幸せなことか・・・。
>八:そうは行かねえよ。・・・じゃない、そうは行かないでございますよ、親方。折角(せっかく)の苦労が水の泡になっちまう。
>四:じゃあ、お尋ねしますが、八兄いは、いったいどうなったら苦労が報(むく)われると思うんですか?
>八:そりゃあ、まんまと騙(だま)し果(おお)せたときに決まってんだろ? でございます。
>四:そんなことして何が嬉しいってんですか?
>八:自分の演技力の凄(すご)さに惚れ惚れするのさ。「良くやったぞ八兵衛」って独(ひと)りでにんまりするのよ。
>三:八兄い、そいつはなんだか危(あぶ)ねえですぜ。お頭(つむ)の具合いは大丈夫でやすか?
>八:大丈夫に決まってら。独り笑いしようが独り言を言おうが、そんなのおいらの勝手だ。誰に迷惑を掛ける訳でもなし。
>熊:なんの得にもならねえってのによ、まったく・・・
>八:なんの得にもって、そんなこと分からねえだろう。もしかして、野崎屋に持っていけば、また面白可笑しい草双紙の出来上がりだ。馬鹿売れかも知れねえぞ。
>熊:何を言ってやがる。そんな使い古された話なんか、どこの誰が取り上げるかよ。
>八:使い古されてるのか?
>熊:お前ぇの手拭いと同じくらい襤褸襤褸(ぼろぼろ)だ。
>八:こんななのか? じゃあ仕方がねえな。・・・まあ良いか。そのときが面白けりゃ、それで良いや。損得なんか関係ねえさね。
>四:おいらは全然面白くないんですけど。
>八:良いじゃねえか。おいらが楽しければ良いのよ。・・・じゃねえ、良いんでございますよ、四郎親方。

>源:無駄口はそのくらいにして、残りを片付けちまえよ、八。
>八:へーい。・・・それはそうと、親方も、四郎親方の芝居に付き合ってくださるんでしょうね?
>源:俺がか? 俺には無理だよ。その辺のことは八と三吉に任せるよ。
>八:そこまで頼りにされちゃあ仕方がねえですね。合点(がってん)承知の助でやす。
>源:張り切り過ぎるなよ。後の始末が面倒(めんどう)になる。
>八:始末なんかなんにも要(い)りませんって。一切合財おいらに任(まか)しといて呉れりゃ良いんです。
>源:大丈夫かよ。
>八:大船に乗った積もりでいてください。
>四:おいら、どうしても、泥舟のような気がして仕方ありません。沈んじまって、もう浮かんできやしないんです。浮かばれないですよ、ほんとに。
>三:なんだよ、縁起でもねえ。化けて出るなよな。おいらは苦手なんだからよ。
>四:そういう話じゃねえっての。兄(あん)ちゃんに面目が立たないってこと。もう、恥ずかしくって、田舎へなんか帰れなくなっちまうよ。
>源:大丈夫だ。四郎みてえにこつこつやるもんは、将来必ず良い親方になれる。
>四:本当ですか?
>源:但(ただ)し、今直(す)ぐって訳にゃあいかねえよ。
>四:それでも良いです。このまま頑張っていけるって気になってきました。
>源:それで良い。

>八:親方。おいらはどうなんで?
>源:そりゃあ、四郎や三吉よりは先に親方になって貰わなきゃいけねえな。
>八:いつしてくださるんで?
>源:嬶(かかあ)を貰って、倅(せがれ)でも持つようになれば、自然とそんな風になってるさ。
>八:やっぱり、嫁ですか? こりゃあ、ちょいと気張らねえといけねえですね。
>源:お前ぇはあんまり気張らねえ方が良い。万が一駄目だったとき、後の始末が面倒だからな。

そんな遣り取りを、辻の陰から覗き見していた二郎たちは、満足げだった。

>二:どうだんべ、吾作。ちっとばかし頼りねえけんど、本気で大工の親方になろうとしてるみてえだ。
>吾:上等だ。舐(な)めて掛かってたけんど、意外にてきぱき遣りやがるじゃねえか。畑で泥なんか弄(いじ)って、青物を拵(こさ)えてるより、よっぽど似合いだな。
>二:昔は、田圃(たんぼ)の畦(あぜ)より高えとこにも登れねえ臆病もんだったっけがな。
>吾:俺も小(ち)っちゃい時分の「泣き虫四郎」しか知らねえからな。正直言って魂消(たまげ)だよ。この目で見てるのだって信じらんねえくれえだ。
>二:どうだ、およね? ええか?
>よね:うん、ええだ。おら、四郎ちゃんの嫁っこになる。
>二:お内儀(かみ)さん。祝言(しゅうげん)の方、何卒(なにとぞ)、良しなにお願えしやすです。
>あや:謹(つつし)んでお請(う)けいたします。・・・ただ、先ほども言いましたが、あそこの八兵衛という兄弟子を納得(なっとく)させなければなりませんから、ほんの1日か2日、時間を貰わなきゃならないと思います。
>二:なあに、ここまで来たらもう、2日が10日だろうと、待ちやんす。

>あや:それぞれのご両親様はどうなさいます?
>吾:うちの爺様なんか、娘の祝言のことなんかより、泥鰌隠元(どじょういんげん)の出来具合いの方が、よっぽど気になるってえ質(たち)ですんで、気にするこたねえです。なあ二郎、お前ぇんとこだって構(かま)うこたねえべ?
>二:構うこたあねえ。うちの爺様と婆様は、江戸の土産物にしか気が行ってねえからな。
>あや:まあ、ほんとですか?
>吾:ほんとほんと、まったくそのまんまでやんす。
>あや:身内だけのちょっとした祝言ってことでしたら、殆(ほとん)どなんの用意もなく出来ちゃいますねえ。
>吾:ささっと済ましちゃってお呉くんなせえ。
>あや:およねさんは、そんなんで良いの? 白無垢(しろむく)の打掛け小袖とかは?
>よね:そったな豪勢なもんを欲張ったりしたら、罰(ばち)が当たる。おら、着の身のまんまで十分です。
>あや:いくらなんでも旅姿でって訳にはいかないわよ。ちょっと当たってみるわね。借りられるかもしれないから。
>よね:そんな・・・
>あや:良いのよ。およねさんのためってのもそうなんだけど、なんてったって、うちの若い衆の晴れ舞台だもの。わたしだって気張らなくっちゃ。・・・でも、あんまり期待しないでね。この前祝言を挙げたおしかさんっていうのは、およねさんより1尺(約30.3cm)も大きい人だったから、別を当たらなきゃならないのよ。
>よね:あたいより1尺も・・・

四郎や八兵衛に見付からないようにということで、3人は一旦「市毛道場」に厄介になることになった。
少しばかり遠いが、なんといっても、あやの顔で只で寝泊りできるのだ。更に、食事までついてである。

>二:何から何までお有り難うごぜえやす。
>あや:良いんですよ。なんだか自分の祝言をするみたいな気になってるんです。然(さ)もなきゃ自分の娘の祝言、かしら?
>二:それにしても、お侍(さむらい)様とご懇意とは魂消やんした。どういったお付き合いで?
>あや:うちの親方が、娘さんのお婿(むこ)さんを探してあげたようなんです。本当のところはそんなに力になったとは思えないんですけれど。
>二:はあ。親方さんは随分お顔が広いんでやんすね。
>あや:とんでもない。只の出不精の気難し屋ですよ。顔が広いのは熊五郎さんや八兵衛さんの方です。
>二:例の兄弟子さんらでやんすか? ・・・そうは見えねえんでやんすが。
>あや:人は見掛けに依らないってことかしら。ああ見えて八兵衛さんなんか、お奉行様の囲碁仲間とも親しいんですよ。
>二:へえ、こりゃあ魂消た。じゃあ、なんか困ったことがあったらお奉行様に口添えしていただけなさるんでやんすか?
>あや:余程のことでもない限りそんなことしませんけどね。
>二:そりゃあ凄(すげ)えです。おらたちの庄屋様もそのくれえの伝手(つて)がありゃあ良いんですけんど・・・
>吾:こら二郎。あんまし細(こま)っかしい話なんかするもんじゃねえ。
>二:あ、済まねえ。つい。お内儀さん、なんでもありやせんで、気にせんでくだせえまし。
>あや:はあ・・・

師範の娘の聡(さと)は、あっけらかんと3人のことを引き受けて呉れた。
「師範代がちょっとばかし代わってらっしゃるけど、他の方は皆さん親切な方たちですから」と、あやが請け合って呉れたので、安心してぐっすりと眠った。

翌朝。明けの6つ(6時頃)に叩き起こされた。
普段なら日が昇るのと同じ頃合いには目が覚めるのだが、旅の疲れが出たのである。

>竜:師範代の銚子竜之介、ここに在りーっ。間借りの者は家事を手伝うべきであーる。働かざる者食うべからーず。(

>吾:なな、何事だ?
>二:お役人か? 捕まえに来ただか?
>吾:ま、待て。ここはおらたちの村とは違うだ。江戸なんだから、大丈夫(でえじょうぶ)だ。
>二:そうか。肝を冷やしたぜ。んで? 何が起こっただ?
>吾:はて? もしかして、お内儀さんが言ってた師範代のお人か?
>竜:男子2名は水汲みと薪割りーっ。女子1名は炊事を手伝うことーっ。
>二:なんだか怒ってるみてえに聞こえねえか? 木刀で引っ叩(ぱた)かれたりしねえよなあ?
>吾:真逆な。棍棒(こんぼう)で引っ叩かれるのなんか年に1遍(ぺん)でたくさんだ。

障子ががらりと両側に開き、竜之介が、にやりと笑いながら仁王立ちしていた。
二郎と吾作は「ひええっ」と戦(おのの)いて、布団を引っ被(かぶ)った。

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※お詫び: 時代考証が不確かです。
「働かざる者食うべからず」は、旧約聖書中の言葉であり、キリスト教を尊ばなかったこの時代(1802)に、使われていたかどうか、定かではありません。