144.【き】 『昨日(きのう)は人(ひと)の身(み)今日(きょう)は我(わ)が身』 (2002/09/02)
『昨日は人の身今日は我が身』
運命、人事の変遷や災難は予測できないもので、昨日他人に起こったことが今日自分に降り掛からぬという保証はない。他人の不幸を自分の戒めとせよということ。
類:●明日は我が身他山の石
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夕刻には返答の如何(いかん)を伝えに行くから源五郎の家で待つようにと、内房老人から言われ、一行は帰り支度(じたく)を始めた。
「もう1遍水を被(かぶ)らして貰っても良いですかい」と、八兵衛が勝手に井戸のところへ行っている間、源五郎は四郎とおよねの祝言があるのだと話した。
内房老人は、「なんなら明朝改めて伺いやす」という源五郎の言葉を遮(さえぎ)り、「お邪魔させて貰っても良いですか?」と、こともなげに言った。

>源:ほんの内輪の祝い事でやすから、ささっと終えちまいやすぜ。
>内:なあに、今度の件ではお世話になるのです。今日こうしてお会いしてしまった以上、黙っている訳にもいきませんよ。なんといっても、これから大事を成そうとする仲間ですからね。
>源:しかし、うちみてえなむさ苦しいところになんか・・・
>内:何を仰ってます。30人からの大工を置いているところがむさ苦しい道理がありませんよ。それに、お内儀(かみ)さんのお顔も拝(おが)ませていただきたいですしね。
>八:おやご隠居。うちの姐(あね)さんに目を付けるなんざ、中々どうして隅に置けませんねえ。
>内:ほっほ。これでも、若い時分は結構鳴らしたもんですよ。・・・銚子様もご参加なさるでしょう?
>竜:せ、拙者がですか? 痴(おこ)がましくは御座らぬですか? 
>八:何を言ってるんですか、若先生。もう関わっちまったんですよ。後へは引けねえんです。
>竜:そ、そうであるか? ・・・まあ、源五郎殿のところには恩義もあることだし、拒(こば)まれぬのであれば、喜んで参列するものであるのだが・・・

>内:出過ぎたことかも知れませんが、仕出しと祝い酒は一切こちらで出させていただきますよ。
>源:ご隠居様、いくらなんでもそこまでは・・・
>内:剣術の試合に掛かると思えば安いものです。あたしの負担が9割も軽くなるんです。そのくらいさせていただかないと罰(ばち)が当たりますよ。
>八:流石(さすが)ご隠居、話が分かる。おいら、諸手を挙げて大賛成でやす。
>源:まったく、現金な野郎だぜ。・・・なあ八、弟弟子が先に嫁を取ることを、今後一切兎(と)や角(かく)言わねえって誓(ちか)えるんだったら、ご隠居の差し入れをいただいても良いぞ。
>八:へ? 真逆(まさか)次は五六蔵だなんて言うんじゃねえでしょうね?
>源:分からんぞ。
>八:うーん、仕出しは食いたし五六蔵は悔(くや)し。でもなんてったって、食い気にゃあ勝てねえや。
>源:単純で良いな、お前ぇはよ。
>八:単純なのは、おいらの取り柄でやすからね。

それぞれ準備もあろうということで、昼前には各々の持ち場に帰り着いていた。
源五郎は、一人家に戻り、あやとおよねに経緯(いきさつ)を説明した。
「あら大助かり」と、あやは捌(さば)けたものである。

>あや:それじゃあ、花嫁さんの飾り付けに、余計に張り込んでも良いですよね?
>源:おいおい、あんまり派手になんかするなよ。八とか熊のときに、格が落ちたんじゃ可哀相だ。
>あや:何言ってるんですか。そんなこと気にしてどうするんです? お目出度いことなんですから、ちょっとくらい足が出たって良いじゃないですか。
>源:そりゃそうだが・・・
>あや:ようし、張り切っちゃおっと。・・・わたし、ちょいとおよねさんを連れて、本郷の富郎さんのところへ行ってきますね。
>源:おいおい、あんまり大袈裟にするなっての。
>あや:へへ。ちょっとね、別の相談事もあるんですよ。今のところ内緒(ないしょ)ですけど。
>源:お前ぇ、また何か企(たくら)んでやがるのか?
>あや:さあ、どうかしら?

源五郎は「やれやれ」と言って溜め息を吐いた。
あやがそういう悪戯(いたずら)っぽい表情をしているときは、何を言っても無駄であると分かっている。
もうどうとでもなれ、である。
この期に及んで自分にできることはもう何もないのだ。
源五郎は仕方なく、熊五郎たちがひいひい言っているであろう現場へと向かった。

>源:ああ疲れた。慣れねえことなんかするもんじゃねえな。
>熊:ご苦労様で御座居やした。巧(うま)く運びそうでやすか?
>源:後は内房のご隠居様を信じるしかねえな。祝言についての細々したことはあやがやるとよ。てんで邪魔者扱いだ。・・・男ってもんは結局、肝心(かんじん)なときには、待つことしかできねえもんだってことをしみじみ思い知らされたぜ。
>熊:姐さんが仕切ってくださるんなら安心でやすよ。男どもは精々(せいぜい)、今取り掛かっている現場仕事をこなすしかありませんね。
>源:そういうことだな。情けねえ話だが、男どもはもう用済みだな。

夕刻、内房の旅籠(はたご)から豪勢な仕出しと角樽(つのだる)が届けられた。
「お武家の祝言じゃねえっての」と、"用済み"の源五郎は、少々卑屈(ひくつ)である。
そして、程なく、内房老人が玄関に顔を出した

>内:あの、源五郎親方、大変申し訳ないのですが、もう一人、大きなお負けが付いてきてしまいました。
>源:真逆。
>内:はい、その真逆なんです。
>源:なんたることですか。内輪で小ぢんまりの筈が、とんだことになっちまいやした。
>内:祝い事だということで、目を瞑(つぶ)ってください。帰す訳にもいかないでしょう?
>源:追い返すだなんて、下々のもんがそんなことできる訳がねえじゃありませんか。
>内:それを聞いて安心しましたよ。じゃあお入れしても良いですね?
>源:勝手になすってください。・・・但(ただ)し、なるべく控え目に頼みますぜ。
>内:はいはい。できるものでしたら、やってみましょう。

源五郎とあやの媒酌(ばいしゃく)も、もう4組目ということで、慣れたものである。
祝言自体は恙(つつが)なく行なわれたが、竜之介が、まるで木偶(でく)人形のようにぎこちないので、不思議な感じの集(つど)いになってしまった。
八兵衛などは、終始忍び笑いを噛み殺していた。

>斉:庶民(しょみん)の婚儀も中々どうして良いものであるな。矢張りこのように好いた者同士であるのが自然である。
>八:おや、斉ちゃんともあろうお人が、どうしたんです? 何か不満でもあるみてえじゃねえですか。
>斉:不満だらけである。家名がどうの、財力がどうのと、一々能書きが付けられては甚(はなは)だ迷惑である。
>八:そんなこと言って、選り取り見取りでやしょう? 羨(うらや)ましい限りですぜ。
>斉:傍(はた)で見ているほど簡単なものではない。醜(みにく)い争いもあるしの。なんなら八つぁんに一人譲(ゆず)るが、どうだ?
>八:へ? そんなことして良いんですかい? 本気にしちまいますぜ。・・・こりゃあほんとに春が巡ってきたかな?
>源:こら八。真(ま)に受けるんじゃねえ。
>内:斉ちゃんも斉ちゃんです。面倒な話し合いの種を蒔(ま)くお積もりか?
>斉:あいや、それは適(かな)わぬ。・・・しかしな、お福などは、似合いであると思うのであるがな。
>八:お福ちゃんですって? そ、そいつだけはご勘弁を。ああ桑原桑原・・・

>斉:なんだ、お福を知っておるのか? ・・・そう言えば、確か生まれはこの辺りのような話は、聞いたことがあったが。
>熊:八の野郎はお福ちゃんのお陰で女が苦手になっちまったんですよ。
>斉:八つぁんが女嫌いとはのう。
>熊:とんでもねえです。女嫌いどころかその反対でやすよ。女が苦手の癖に女好きなんでやすから始末に負えねえ
>斉:ふうむ。中々興味をそそる話ではあるな。・・・いや、相当に面白い土産話(みやげばなし)である。
>内:大概(たいがい)になさいませ。町方のことは町方のことです。その辺のけじめは付けていただかなければ困ります。
>斉:分かっておる。祝儀の席でまで苦い話をせずとも良いではないか。

斉ちゃんは内房老人の諌止(かんし)など殆んど堪(こた)えておらず、楽しい酒を相当に聞こし召していた。ただ、お開きになって帰るとき、ちらりと八兵衛を見てにんまりとしていた。
「ご免状」は、帰り際に内房の手から竜之介に手渡された。
竜之介は、源五郎たちが門外まで見送りに行っている間、それを押し戴(いただ)いたまま、平伏し続けていた。

>よね:あのご浪人様はどなた様だっぺか?
>四:いやなに、八兄いが良くしていただいているお方だ。ちょっと変わった方だけど、怪しいお人じゃあねえよ。
>よね:そうでありやすかねえ? なんだか、駄々っ子で放蕩(ほうとう)もんって感じでやしたけんど。
>四:はは。まあ、当たりだ。でも、悪いお人じゃあねえよ。まあ気にするな。
>よね:分かりやんした。お前様がそう言うんなら、信じやす。・・・あと、そいから、あの道場の若先生(わがせんせ)は、何であんなに畏(かしこ)まってるんだっぺか?
>四:竜之介様は、これから兄(あん)ちゃんたちを助けで代官退治をしてくださるんだ。悪く言っちゃなんねえぞ。
>よね:へ? 本当だっぺか? あの悪代官を退治してくださるんだか?
>四:ああ、本当だ。なんつったってあの若先生の強さは、江戸で5本の指に入(へえ)んだかんな。
>よね:はあぁ。そんだに強えだか? ・・・昔みでに楽な年貢になって呉れっと良いなあ。
>四:大(でえ)丈夫だ。きっとそうなっから。

>よね:おら、四郎ちゃんのとこさ嫁に来るって言い出して、ほんと良(え)がった。
>四:お前ぇ真逆、こうなっこどを期待してたんだか?
>よね:そんな筈なかっぺよ。おら、唯(ただ)、四郎ちゃんの嫁こになりだがっただげだ。幸せにしてけろな。
>四:んでも、まだ大工の見習いだかんな。楽なんかさしてやれねど。
>よね:痛え思いしねで済むんなら、極楽みてなもんだ。それに、若先生が巧(うま)ぐ代官退治をして呉れだら、恩返しに、道場の下働きくらいしてあげてえし。
>四:そだな。竜之助様にゃ恩返ししねどな。・・・だけんどもよ、なあおよね、田舎の言葉は直したがええみてだな。

そんな中、八兵衛は「お福」という名を聞いてからずっと、頭を抱えて隅っこに蹲(うずくま)っていた。
「桑原桑原・・・」と、譫言(うわごと)のように呟(つぶや)いており、斉ちゃんに≪意地悪の材料≫を与えてしまったことには、まだ気が付くべくもなかった。

その一件については、こんな遣り取りがあったことさえ忘れられた頃に、ひょっこりと、語られる筈である。
えてして、すっかりほとぼりが冷めたと思っているところに、再燃するものなのである。

(第15章の完・つづく)−−−≪HOME