131.【か】 『可愛(かわ)い子には旅(たび)をさせよ』 (2002/06/03)
『可愛い子には旅をさせよ』
子供が可愛いのであれば、甘やかしてばかりではなく、逆に世の中の辛(つら)さを経験させることだ。
類:●Spare the rod and spoil the child.(鞭を惜しむと子供をだめにする)<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
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翌日から、増築の下準備が始まった。
打ち合わせの段階では、飲食は一切なし。昼食も、あやから持たされたものを食べる。そういう決まりになった。

>八:親方あ、お八(や)つ(14時ころ)にお茶とちょっとした甘いものくらいなら、強請(ねだ)っても良いですよね?
>源:そりゃあ、向こうが好意でして呉れることなら仕方ねえが、過剰なのは俺が断るからな。当然、酒は駄目だ。
>八:へーい。
>源:それからな、暫くは力仕事じゃなく図面引きだけだから、お八つもなしだ。
>八:そんなあ・・・
>熊:何を駄々っ子みてえなこと言ってやがる。これまで何十軒とやってきたのと変わりねえことだぞ。大店だから例外だなんて考えてる訳じゃねえだろ?
>八:でもよ、おいらの勘だがよ、ここのご隠居は人を持て成したくて仕様がねえんだ。それでよ、こっちは食いたくて仕様がねえ。お互いに望んでることなら、お前ぇ、願ったり叶ったりじゃねえか。
>熊:そういうことじゃねえんだよ。けじめだよ、けじめ。客として来てるときは出されたものに手を伸ばしても良い。だがな、今はよ、雇われた仕事をしているときじゃねえか。
>八:昨夜(ゆうべ)のおいらと今のおいらには、違いなんかねえのにな。
>熊:だから、昨夜とは立場が違うの。
>八:じゃあよ、こういうことなら構わねえんだよな。雇い主のご隠居さんから、「食べなさい、飲みなさい」って命令されたら、雇われてるおいらは、本当は遠慮してるんだけど、渋々飲み食いしねえ訳にはいかねえ。・・・どうだ?
>熊:そりゃあ、なんだ・・・
>源:ごちゃごちゃ屁理屈ばっかり並べてるんじゃねえ。雇い主の命令だろうがなんだろうが、道理から外れてることは、俺が許さねえ。分かったか。

源五郎の耳には、「倅にしたかった」という与志兵衛の声が残っていた。
真剣であることは分かっていた。しかしそれ以前に、家族ある者を養子に迎えたいなどという、浅墓(あさはか)さが許せなかった。

>八:なあ熊、親方ったらよ、何もあそこまできっちりやることもねえって思わねえか?
>熊:親心に決まってんじゃねえか。お前ぇの目は、酒と魚くらいでそんなに曇っちまうもんなのか?
>八:おいらの目が曇ってるだと? 冗談じゃねえや。ちゃあんと、徳利に「寒梅」書いてあったのだって見えてらい。
>熊:だから言ってるんじゃねえか。それを、食いもんに目が眩(くら)んでるって言うんだ。
>八:そうなのか?
>熊:親方にはな、おいらたちの浅い考えとは違う深あい計算が出来上がっていなさるのよ。
>八:計算って?

>熊:さあな。・・・ひょっとすると、身寄りのねえ与太郎を縁付けてやろうっていう魂胆なんじゃねえかと、おいらは踏んでるんだがな。どうだ? 悪い話じゃねえだろ?
>八:そりゃあ悪くはねえけどよ、与太郎ばっかり好い思いをするんじゃ、おいらは納得(なっとく)いかねえな。
>熊:お前ぇ、腹がねえなあ。
>八:腹ぐらいあるさ。それも飛びっ切りの腹がよ。見ろ、ぐうぐう鳴って昼飯を催促してやがる。
>熊:その腹じゃねえよ。肝っ玉のことだ。
>八:そういう意味か。まあ良いや。・・・そんなことよりよ、ご隠居が倅にしてえのは、五六蔵や親方みてえに、どっちかってえと腕っ節の強い奴なんじゃねえのか?

>熊:ほう、なるほど。一理あるな。・・・じゃあよ、もっと先のことでよ、ゆくゆく八も独立するようになるから、そんなときには今日のことを思い出せよって、そういう有り難い思(おぼ)し召(めし)
しだ。うん、それに違えねえ。
>八:そうか。おいらもいよいよ一本立ちか。
>熊:直ぐにってことじゃねえよ。まだまだ先のことだ。お前ぇ、まだ嫁も貰ってねえじゃねえか。
>八:そうか。嫁だな? ・・・あっ、そうか。分かったぞ。なあ、おいら思うんだがよ、姐(あね)さんが今内緒で進めてるっていう祝言(しゅうげん)話ってのは、もしかするとおいらのかも知れねえな?
>熊:そんなことはあるかよ。おいらとかお前ぇだったら、何も内緒にしとく必要なんかねえじゃねえか。
>八:突然嫁を連れてきて驚かすとかじゃねえのか?
>熊:おいらは兎も角、お前ぇは相手なんかどんなおかちめんこだって飛び付くからな。
>八:蛙かなんかみたいに言うな。

熊五郎と八兵衛は与志兵衛から離しておいた方が良いなと、源五郎は考えていた。
特に八兵衛がであるが、餌に釣られて、旅の供(とも)になどなってしまわぬとも限らない。
折の悪いことに、世間では、「弥次郎兵衛」と「喜多八」がお伊勢参りに出掛けるとかいう道中記(享和2年刊は品川〜箱根)が評判になっている。
暇と銭を持て余している大店のの隠居あたりにとっては、いかにも、真似てみたくなるような旅である。

>源:ご隠居さん。もしかして、「膝栗毛」って本を読んでみたりしてやいませんか?
>与志:おや、源五郎さんも滑稽本をお読みになるんですね。
>源:あっしら大工が読むのはせいぜい瓦版くらいのもんですよ。でも、これだけ評判になっていれば、噂が立ちますからね。
>与志:そうですか。読んでみると、これがなんとも面白いものなんです。お伊勢参りのうちの箱根までしか行ってませんから、まだまだ先は続くようなんです。次が待ち遠しいですねえ。
>源:ご隠居さん、五六蔵のことなんでやすが、弥次さん喜多さんのどっちかにしようなんて、考えてやしませんよね?
>与志:と、と、とんでもないです。五六蔵さんが滑稽本の登場人物になんかなる道理がないじゃありませんか。
>源:ですが、そもそもは、瓦版の『コロ助物語』の登場人物なんでしょ?
>与志:そ、それは理屈というものです。そのときはそのとき、今は今です。
>源:ご隠居。何か隠してますね? もう良いでしょう、正直なところを聞かしちゃ貰えませんか?
>与志:敵(かな)いませんねえ、源五郎さんには。

与志兵衛は、周りに他の者がいないのを確かめるように見回し、それが確認できるとゆっくり喋り始めた。

>与志:「膝栗毛」が引き金になったというのは事実です。ですが、あたしと五六蔵さんとでは、あんな2人旅にはなりようがありませんから、真似とかそういうことじゃないのは、お分かりいただけますよね? それに、今更伊勢参りでもありませんよ。松阪木綿(もめん)を仕入れに行くついでにしょっちゅう行きますから。目と鼻の先ですからね。
>源:そうでやすか。じゃあ・・・
>与志:お恥ずかしい話ですが、「通俗西遊記みたいなことをしてみたかったんです。
>源:なんですか、そいつは?
>与志:唐の国(からのくに)の書物を訳したものですよ。
>源:なんでまたそんな変梃(へんてこ)なものになんかなろうと思いなすったんで?
>与志:「膝栗毛」とそっくりで、3匹の供を連れて、神社まで旅をする話なんですよ。
>源:3匹だなんて、「桃太郎」みたいですね。
>与志:はは。そんな言われようをするんじゃないかと思いましたよ。だから、です。だから「西遊記」を元にしてですね、3匹でなく2人で行こうと決めたんです。尊(とうと)いお坊様じゃなく呉服屋の隠居が、お経を貰いにではなく反物(たんもの)を買い付けに行こうってことです。それには、2人の力自慢というのが非常に似つかわしいのです。
>源:ははあ、正(まさ)しく、黄門様ですね。
>与志:そうですとも。仁徳の人、光圀公ですよ。どうです? 凄いでしょう?
>源:凄いでしょうってったって、あっしはお供なんかしたくありやせんからねえ。それに、五六蔵だって、行かせやしません。
>与志:そこですよ、問題は。・・・だから、ぐっと望みを引き下げて、膝栗毛式の珍道中で我慢しようかと考え始めています。
>源:真逆(まさか)・・・
>与志:はい。その通り、八兵衛さんです。それに、熊さんも。

>源:駄目ですよ。
>与志:そうあっさりと断らなくとも・・・
>源:いいえ。五六蔵とあっしが駄目なら、八と熊ですか? 随分と勝手過ぎやしませんか?
>与志:でも、お二方に断られたら、次の候補に替えなければならないでしょう?
>源:替える相手が間違ってるでしょう? 身内のもんのあとに、その身内のもんって考え方がいけません。そいつは甘いですぜ、ご隠居。あっしの親父がこんなとこに居合わせたら「青物」の話だって「乾物」とか「酒」に替わるんじゃねえかって、怒り出しますぜ。増築の仕事だってご破算ですよ。
>与志:それも、承知している積もりです。ですが、特に八兵衛さんのあの質(たち)が、「膝栗毛」にぴったりなんですよ。そうは思いませんか、源五郎さん?
>源:そりゃあ、あっしだって、一九(いっく)っていう人がうちの2人を知ってて書いたんじゃねえかって、勘繰(かんぐ)りたくなるほどですよ。ですけど、それはそれです。今あいつらを連れていかれちゃあ、うちの仕事が成り立たねえんです。
>与志:それでは、こうしましょう。旅に出ている間は、大工仕事をしていることにして、換算してその料金をお支払いします。
>源:そんな簡単な話じゃあねえんですよ。仕事ってもんは次々入ってくるもんなんです。ご隠居さんのとこだけに掛かりっ切りになってなんかいられねえんですよ。
>与志:そうですか。・・・それなら、こう考えてください。「大切な弟子2人に、世の中の別の側面を見させてやる」って。見聞(けんぶん)を広めてやれば何かと当人の人生に役立つとは思いませんか?
>源:そりゃあ、そんな風に言われたら、あっしだって弟子が可愛いですよ。手元で大工仕事だけをさせとけば良いなんて、言い切れやしませんよ。
>与志:それでこそ、わたしが見込んだ源五郎さんです。
>源:止してくださいよ。飽くまでも、反対だっていう気持ちは変わらねえんですからね。本人が行きてえって言うんなら許すってことですからね。
>与志:十分ですとも。
つづく
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本文の参考:通俗西遊記(つうぞくさいゆうき) 西遊記の訳本。宝暦8年(1758)。口木山人ら訳。後に、三世河竹新七の歌舞伎「通俗西遊記」(明治11年・1878初演)などに影響した。(上に戻る