110.【か】 『苛政(かせい)は虎(とら)よりも猛(たけ)し』 (2002/01/07)
『苛政は虎よりも猛し』
悪い政治というものは、虎の害など比べものにならないほど人民を苦しめる。
故事:礼記−檀弓・下」「夫子曰、小子識之、苛政猛於虎也」 孔子(こうし)が墓の前で泣いている女性を見掛けて、理由を尋ねると、その母親は父、夫、息子を虎(とら)に食い殺されたという。そこで、なぜこんな危ない土地から逃げないのかと尋ねると、「ここでは、悪い政治(重税や厳しい刑罰)がないからです」と答えた。
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市毛大路郎は、明石藩の下屋敷(現在の高輪2丁目辺り)で仕官していた。領主の気紛(きまぐ)れで、急遽(きゅうきょ)の退任を申し付かったということである。
人の噂では、細野戦太郎とかという、何処の馬の骨とも知れない者が指南役に就(つ)いたそうである。
大路郎より少し前に、花村克之進という人も退任したそうだが、「何処でどうしていることやら」ということだった。

>八:へえ、お武家様の世の中も厳しいんでやすね。
>市:藩主が強引くらいでないと藩は纏(まと)まらぬものであるからな。
>八:そういうもんですかね?
>市:そういうものだ。
>八:でも、泣かされるのはいつだって下々(しもじも)の者ですぜ。全部百姓(ひゃくしょう)とか職人とかに回ってくるんです。
>市:ほう。中々分かったようなことを言うではないか。・・・まあ、その通りではあるな。
>八:きっと、国許(くにもと)で田圃(たんぼ)を耕(たがや)してる人たちは、高い年貢にひいひい言ってるんでしょうよ。猪とか熊とかの被害なら1人2人が怪我(けが)するだけですけど、年貢をちょいと上げれば村中纏(まと)めて首括(くびくく)りにできるんですから、藩主様も少しは考えて貰わねえといけませんよね。
>市:然(さ)も有りなん、だな。

>八:話を戻しやすが、それで? 市毛様は悔しくはねえんですか? 細野なんとかって人のこと。
>市:悔しがったとてどうなるものでもなかろう。こちらとしても元を糺(ただ)せば異郷の者だからな、甘んじるしかないのだよ。
>八:その細野とかいうお人は同じ藩の方なんですかい?
>市:人伝(ひとづて)に聞いた話では、備中(びっちゅう)だそうだから、明石から近いことには近いのだろうが、やはり異郷の者には違いあるまいな。
>八:まあ、遅かれ早かれ、放っぽり出されるんでしょうがね、間違いなく。
>市:どうしてそんなことが言えるのだ?
>八:決まってんじゃねえですか。藩主様だろうがなんだろうが、一度やらかしたことはまたやるもんなんです。
>市:成る程。一理あるな。

>熊:市毛様、こいつの知ったか振(ぶ)りには付き合わない方が身の為ですぜ。仮に今回のが正しいことだったにしても、次に出てくる喩(たと)えが、とんでもねえいんちきでやすから。
>八:何を言いやがる。おいらがいつ出鱈目(でたらめ)なことを言ったってんだよ。
>熊:いつもじゃねえか。
>八:何をーっ?
>市:まあ良いではないか。聞く聞かないはこっちが決めることなのだから。
>熊:はあ。そう仰(おっしゃ)るんでしたら。
>八:だから言ってんじゃねえか、「口は禍の元」ってよ。
>熊:お前ぇのことだろうが。

大路郎は、新参(しんざん)の細野某(なにがし)のことが余程悔しかったのか、口を衝(つ)いて出るのは、その悪口ばかりだった。
上方(かみがた)言葉は好かないとか、黄色地に黒縞の奇天烈(きてれつ)な羽織を着ているとかと、ぶつぶつ呟いていた。

>八:やっぱり、悔しいんじゃねえですか。いっそのこと、その虎猫みてえな、妙ちきりんな人と試合しちまったらどうですか?
>市:そうも行かんだろう。浪人扱いされて追い返されるのが落ちだ。
>八:だって、ついこの間まで、勤めてたところでしょう? それでも駄目なんですか?
>市:そういうものなのだよ。
>八:へえ。これまた、難しいんでやすね。
>市:元の門徒たちから白い目で見られるのも、心持ちの良いものではないからな。
>八:じゃあ、闇討ちしちまったらどうでやすか?
>市:馬鹿を申すでない。それこそ、生涯を棒に振るようなものではないか。それに、かの藩にはもう未練はない。諸藩ごときがどう足掻(あが)いたところで、全国を統一するまでには至らんだろうからな。
>熊:「全国統一」って、真逆(まさか)謀反(むほん)ってことですか? 悪い冗談は止(よ)してくださいまし。
>市:はは。物の喩えだよ。お上の悪政に意見するくらいの意気込みもないということだ。
>八:「悪政」って、将軍様は悪い遣りようをなすってるんやすか?
>市:景気が今一つ良くならないということは、即(すなわ)ち、治(おさ)め方が悪いということなのだよ。
>八:へえ、そういうことになるんでやすか。一度、言っといてやらねえといけねえな。
>市:誰にだ? いや、何をだ?
>熊:い、いや、こっちの話でやすから、お気になさらず。こら、八、滅多なことを言い出すんじゃねえ。
>八:だってよ、悪いことをしてたら間違ってるって言ってやるのが親切ってもんだろ? ・・・よく言うじゃねえか、「立派な人なら、間違いに気付いたら直ぐに改める」ってよ。
>市:「君子は豹変する」か。そんな言葉を良く知っておるな。
>八:そう言うんですか? ちっとも知らなかった。
>熊:「一度やらかしたことはまたやる」って言ってたのとは、あべこべなんだがな。

>八:ねえ、市毛様? 1つ伺(うかが)っても良いですかい?
>市:なんだ?
>八:その細野って人と、一本取り逃げしたって人とじゃ、どっちの方が憎らしいですか?
>市:妙な聞き方をするではないか。敢(あ)えて答えろというのか?
>八:是非(ぜひ)とも。
>市:一本取られた御仁(ごじん)の方は、憎らしいというのとは違うのだよ。
>八:へ? そうなんでやすか? だって、「ここで逢ったが百年目」なんでやしょう?
>市:勝負は勝負だ、負けたからといって恨んだりするものじゃない。名を告げずに去ったこと自体を、恨めしいと思っておるだけだ。ちゃんと名乗り合っていれば、好敵手、或いは、相談相手になれたやも知れぬのにと、そのことが恨めしいのだ。
>八:なぁんだ、そういうことだったんでやすか? そいつは良かった。なあ、熊?
>熊:ん? ああ。・・・えーと、市毛様、もし、もしもですよ、おいらたちがそのお方を知っているとしたら、お引き合わせした方が良いですかい?
>市:なに? 存じておる? ・・・真逆な。昨日今日会ったばかりだというのに、お主らが、25年も探し続けた御仁を探し果(おお)せる道理もなかろう。
>八:それがそうでもねえとしたら?
>市:本当なのか? もしそうなら、是非とももう一度お手合わせしてみたい。
>八:そう来なくっちゃ。・・・おいら、一っ走り、報(しら)せに行って来やす。それじゃあ熊、後は頼んだぜ。
>熊:お、おい。・・・あーあ、行っちまいやがった。まったくせっかちな野郎だぜ。

>市:して? この話は本当なのか?
>熊:どうやらそうらしいんで。今から向かう道場のご師範様がどうやらその方みたいなんです。
>市:なんと。で? 名はなんと申される?
>熊:千場、・・・えーと、下の名前は聞いてねえんですが。
>市:そうか。千場殿と申されるのか。これで長年の望みが叶(かな)うというものだな。この際、娘の婿(むこ)探しのことなど、もうどうでも良いから、早くお会いしたいものだ。
>熊:ちょ、ちょいと待ってください。婿探しの件がなくなっちまうと、何のためにおいらたちが走り回ってるんだか分からなくなっちまうじゃありませんか。
>市:まあ良いではないか。本当に千場殿がその御仁であったなら、相当の礼はする。
>熊:礼とかそういうもんが欲しくってやってるんじゃねえんです。縁結びなんていう重荷から解き放たれてえだけなんですよ。
>市:そうか。そういうことなら、ちょっとは当てにしておこう。

八兵衛に遅れることものの数分。
熊五郎と市毛大路郎が千場道場に到着すると、庭掃きの2人(弓山と中谷)がすっ飛んできた。

>弓:丁重(ていちょう)にご案内するようにと、師範から申し付かっております。ささ、こちらへ。
>中:熊五郎殿もご一緒にどうぞ。
>熊:止(よ)してくださいよ。殿なんか付けられると尻がむず痒(がゆ)くなっちまいます。
>中:しかし、師範と師範代の客人ということですから、こちらも不承不承ではありますがこのような呼び方をしている次第なのです。
>熊:嫌なら、さっさと止(や)めちまってくださいよ。只の「大工の熊」なんですから。
>中:そうは参らん、です。上の言い付けには従順にするものだ、でござる。仮令(たとえ)それが意に適(そぐ)わぬものでもな・・・でありまする。
>熊:お武家様方の遣りようってのは、そういう面倒なところが嫌なんですよね。
>市:まあ良いではないか。拙者にとっても恩人となるのだ。拙者こそ、「熊五郎殿」と呼ばせて貰わねばならん。
>熊:止めてくださいよ。そいつは一種の嫌がらせですぜ。大工を苛(いじ)めて何が面白いってんです?
>弓:しかし、八兵衛殿は喜んで受け入れて呉れておりますので。
>熊:大方、腰に手を当てて踏ん反り返って、にやりとでもしたんでしょう?
>中:正(まさ)しく。
>熊:放っとくと、天まで上(のぼ)っちまいやす。今頃、将軍様より偉くなったような気になってるかも知れませんぜ。
>市:相当分かり易い御仁であるな。
>熊:市毛様。諄(くど)いようですが、くれぐれも、正面(まとも)に取り合わないようにしてくださいましね。振り回され通しで、気が付いたら身包(みぐる)み剥がされてたなんてことにならないとも限りませんから。
>市:なんとなく、お主がさっき言いたがっていたことが分かってきたような気がする。
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