91.【お】 『鬼(おに)の念仏(ねんぶつ)』 (2001/08/20)
『鬼の念仏』
鬼のように無慈悲で冷酷な人が、表面だけ神妙に振る舞うこと。また、柄(がら)にもなく殊勝に振る舞うこと。
類:●鬼の空(から・そら)念仏
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昼時を外(はず)したから少しは空(す)いているかと思ってのんびり出掛けた一行ではあったが、「越後屋」の前には、短いながら行列が残っていた。
只(ただ)でさえ蒸(む)し暑いところへ持ってきて、人熱(いきれ)と七厘(しちりん)の熱とで、店内は相当居心地が悪そうだった。唯(ただ)、具材の上に掛けられた刻み葱(ねぎ)の香りが食欲をそそり、一行は、この際不快ささえ忘れても良いかなという気になってきていた。

>八:割下(わりした)と葱の匂いがなんとも言えず良いもんですねえ。
>熊:お前ぇは、腹さえ膨(ふく)れりゃなんだって構わねえんだろ?
>八:まあそういうこったな。それにしてもよ、高が泥鰌(どじょう)だってのに、この盛(さか)り具合いはどうなんだ?
>五六:江戸っ子は皆、新しもん好きでやすからねえ。・・・けど、案外、三月もしたら閑古鳥ってなこともあり得ますぜ。
>三:でも兄貴、元々それほど値が張るもんじゃなし、家で作るよりは美味いとなりゃ、それ相応に流行(はや)るんじゃねえですか? どうです、好い匂いさせてるじゃねえですか。
>八:おいら、もう我慢できねえ。ちょいと中を覗(のぞ)いてくらあ。

既に8つ(2時頃)に近い刻限だというのに
客足は衰(おとろ)えず、源五郎一行の後ろにはもう5人も並んでいた。
丼物(どんぶりもの)ということで、客の回転は早い。八兵衛が催促(さいそく)に行くまでもなく、直(す)ぐに順番が回ってきた。
湯気を立ち昇らせた丼が、先着の客たちの元へ、次々と運ばれていた。

>八:おい五六蔵、見たか? おいら、あんな太い泥鰌初めて見たぜ。
>五六:ちょいとばかし小振りな鰻(うなぎ)と思えば、贅沢(ぜいたく)な気分になれますねえ。
>八:幾らなんでもそいつは無理があるな。
>三:大きい分、大味ってんじゃ困りますけどね。
>五六:そういうもんか? 俺は身が多けりゃそっちの方が良いけどな。
>八:小さけりゃ身が締まってるって訳でもなかろうし、おいらはどっちだって構わねえぞ。
>四:うちの田舎の方では、小さい泥鰌は「ばばじ」とか「ばばすこ」って呼ばれてて、泥鰌とは別の魚だと思われてました。
>八:なんだ? 鯔(ぼら)の小さいのが「はた」とか「いな」とか呼ばれてるのと一緒か?
>熊:出世魚じゃねえってんだ。・・・それにしてもお前ぇ、良くそんなこと知ってるな。
>八:言っただろ? 土用の丑に限らずなんでも知ってるってよ。
>熊:偶々(たまたま)だろ。それに、食いもんだし。

>四:普通泥鰌って、身体に模様がないでしょう? 「ばばじ」には斑(まだら)模様があるんですよ。砂粒みたいな。
>八:なんだか美味そうじゃねえな。先ず、名前からして不味そうだよな。
>四:はあ、おいらは泥鰌とかはあまり得意な方じゃなかったから、食べたことはないんですが、土地の者は別に味は変わらないって言ってました。
>八:ふうん。まあ、腹ん中に納まっちまえばおんなじだけどな。なあ四郎、お前ぇが得意じゃねえってんならおいらが食ってやっても良いぜ。・・・そんなことよか、おいら、ちょっと気になるのはよ、「ばーば」とか「ばー」とか言ってにっこり笑った大女将(おかみ)さんの顔と、重なるってことなんだよな。ほれ、丁度砂粒みてえな染みが浮き始めてるしよ。
>熊:口が過ぎるってんだ、八。女将さんはだな…
>源:止せよ。こんなとこに来てまで母ちゃんの話なんかするな。
>八:「母ちゃん」じゃなくって「婆ちゃん」だそうですぜ。
>源:止(や)めろったら。あんまりしつこいとお前ぇには食わせねえぞ。
>八:ここまで来てお預けってことはねえでしょう。拷問(ごうもん)ですぜ、親方。
>源:だったら余計なことを言うんじゃねえ。
>八:四郎。お前ぇのせいで叱(しか)られちまったじゃねえか、お前ぇもちったあ反省しろ。
>四:そりゃぁないですよ、八兄い。

やがて6人のところにも泥鰌丼が出されてきた。
八兵衛は「いただきまーす」もそこそこに、器に齧(かぶ)り付いた。

>八:あーあ、なんだか一杯じゃ物足りねえな。・・・おーい親爺、茶の代わりを貰えねえか?
>女中:相済みません。今年は雨が少ないってことで、お茶は1杯ずつでご勘弁願ってるんですよ。
>八:なんだと? これから牛込まで帰ろうってのに、水も茶もなしか?
>熊:他人の銭で食っときながら文句はねえだろう。・・・なあ八よ、咽喉をからっからにしときゃあよ、今夜の酒が格別に美味いってもんだろ、な。

そんなこんなで、時節は、夏の土用の時期(7月中旬から8月7日頃までの18日間)に差し掛かろうとしていた。
近年稀(まれ)に見る空梅雨(からつゆ)も明け、いよいよ本格的な夏に向かおうとしていた。
一行は現場へ戻ったが、今日のうちにできることはもうないということで、片付けを済ませ早々に源五郎の家へと引き上げた。
棟梁・源蔵と大女将・お雅の表情は緩(ゆる)みっぱなしで、赤ん坊に付きっ切りという状態だった。

>源:今戻ったぜ。
>雅:・・・なんだい? もう仕舞って来ちまったのかい?
>源:もう仕上げの段階だからな。明日二助に入って貰って、漆喰(しっくい)塗りが済みゃあ、もう後は細々(こまごま)したとこだけになる。
>雅:今年は雨もあんまりなかったから、随分捗(はかど)っちまったねえ。
>源:ああ。・・・そんなことよりよ、稚児(やや)の名前はどうなってるんだ?
>雅:あれ? 言ってなかったかい?
>源:あのなあ、俺は父親(てておや)なんだぞ。俺に決めさせねえで勝手に名前を決めちまうってのは、道義に照らして見ても、おかしいんじゃねえのか?
>雅:何を言ってるんだい、道義がどうだろうと、そんなこと知ったこっちゃないね。お前には女の子の名前なんか思い付く筈がないからこっちで決めてやったんじゃないか。それとも何かい? どうしてもっていう名前でも考えてたってのかい?
>源:そりゃあ、こんなのはどうだろうかってのは幾つかあるがよ。
>雅:それじゃあ言ってみな。聞くだけは聞いてやるから。
>源:ここでか? 弟子の居る前でそんなの言えるかよ。奥へ行くぞ、奥へ。
>雅:そんなのどこだって同じじゃないか、どうせ碌なもんじゃないんだろうからね。

赤ん坊の居る部屋から、喧喧囂囂(けんけんごうごう)言い合っている声が聞こえてきていた。

>熊:なあ、なんていう名前だと思う?
>八:そうさな、初めて生まれた稚児だからな、「お初」ってのじゃどうだ?
>五六:なんだか、どっかの岡引の妹みてえな名前でやすね。
>八:なんだそりゃ? まあ良いや。お前ぇはどんなのが良いんだ?
>五六:そうですねえ。生まれた順番ってのはどうも良くねえと思うんです。うちの菜々も、字こそ違いますが、七番目だってことでそう付けられたんですが、なんだか親の手抜きっていう感じですよね。
>八:菜々ちゃんってそういう訳で付いたのか? 聞いちまうとちょっと可哀相な気もするな。
>三:・・・その、季節のものみたいので良さそうなもんってねえですかねえ。
>八:お前ぇにしては上出来なことを言ったな。季節なんかも良いよな、お夏ちゃんみてえによ。
>四:あの、今はもう夏なんで、お嬢さんも「お夏ちゃん」になっちゃうんですが。
>八:そいつはいけねえな。紛(まぎ)らわしいもんな。
>熊:紛らわしいのはおいらたちだけで、親方たちにとっちゃ、別に、そうでもねえんじゃねえのか?

そこへ源五郎が赤ん坊を抱いて戻ってきた。
壊(こわ)れ物を触るようなぎこちなさで、却(かえ)って危なっかしそうだ。

>八:決まりやしたか? もしかして「お夏」とかじゃねえですかい?
>源:まあ、近いな。
>八:近い? と、申しやすと?
>源:あやの奴、どうも、お咲ちゃんとお夏ちゃんに肩入れし過ぎのようだな・・・
>熊:真逆(まさか)、お咲なんてんじゃねえんでしょうね。
>源:「夏」に「咲」く花に「二人静(ふたりしずか)」ってのがあるそうなんだ。俺は知らねえがよ。で、「静(しずか)」だそうだ。
>熊:静御前と同じ名前ですね? 源義経の。名前に肖(あやか)ってお綺麗になりなさると良いですねえ。
>八:「しずか」なんてえおしとやかな名前を、あの女将さんが良く承知しましたねえ。
>源:とんでもねえ。母ちゃんが一等初めに言い出して、頑(がん)として譲(ゆず)らなかったんだからな。
>八:ほんとですかい?
>源:俺は信じたくねえんだが、母ちゃんは大工の女将なんかじゃなく、商家のお内儀(かみ)か何かになって、おしとやかに暮らすのが夢だったんだとよ。もし俺が女だったら「源五郎」じゃなく「しずか」だったそうだ。
>熊:へえ、あの女将さんがねえ。しおらしいなんてな無縁の方だと思ってやしたがね。人は見掛けに拠(よ)らねえっていうか・・・
>八:親方が女だったらですって? 笑わせないでお呉んなさいよ。女将さん、なんかとち狂っちまってんじゃねえですかい?
>雅:・・・なんか言ったかい、熊? それに、八?

地獄耳である。
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