81.【お】 『奥歯(おくば)に物(もの)が挟(はさ)まる』 (2001/06/11)
『奥歯に物が挟まる』
1.自分の思うことをはっきりと言い出さない。言いたいことがありそうなのに、なんとなく暈(ぼ)かす。
2.相手に対して、何か心に引っ掛かるものが残っている。
類:●奥歯に衣着せる●奥歯に剣
*********

6つ半(7時ごろ)、お夏が、お咲を伴って現れた。
2人とも、化粧を施している。嫌味ではなく、妙に大人(おとな)びて見えて、客たちは揃いも揃って大口をあんぐりと開けた。

>夏:ありゃ? どうしちゃったのみんな。急に黙っちゃって。
>咲:お夏ちゃん、だから止(よ)そうって言ったのよ。あたし、なんだかとっても恥ずかしい。
>夏:そんなことないって。・・・はーい、皆さん。あたしたち、ちょっと化粧(けそう)してみました。如何(いかが)ぁ?
>八:・・・こりゃ魂消(たまげ)た。なんだか菩薩(ぼさつ)様が天から降りてきたみてえだ。
>夏:そう?
>八:お咲坊、おいら、見違えちまったぜ。こりゃあほんとに牛込小町だぜ。
>咲:やだ、八つぁん。それは褒(ほ)め過ぎよ。
>八:褒め過ぎなんかじゃあるもんか。ほれ熊、ようく見てみろ。おいら、こんな綺麗な二人連れ、生まれてこの方見たことねえ。なあ、お前ぇもそう思うだろ?
>熊:ちょいと化粧したくれえで小町になれるんなら、そこら中小町だらけになっちまうじゃねえか。
>八:御託ばかり並べてねえで、ようく見てやったらどうなんだ? まったく、素直じゃねえよな。こいつ、態(わざ)と目を逸(そ)らしてやがる。
>熊:放(ほ)っとけ。
>八:仕様のねえ奴だな。お前ぇみてえな根性曲がりにはよ、金輪際(こんりんざい)菩薩様は拝(おが)めねえだろうよ。

お咲は、皆の計らいで熊五郎の正面の席に着いたが、熊五郎は頑(かたく)なに、斜(はす)に構えて、五六蔵たちと話すようにしていた。

>八:ときに、お咲坊。姐(あね)さんの話だと、お前ぇたちが生駒屋に何かご指南(しなん)をしたそうじゃねえか。なんて言ったんだい?
>咲:別に大したことじゃないわよ。引き札でも配ればって言っただけ。
>八:引き札ねえ。
>咲:あやさんが言うにはね、近い将来余所(よそ)でも同じような白粉(おしろい)を作り始めるに違いないから、安心ばかりもしていられないだろうって。
>八:化粧の品って、そう簡単に真似(まね)できちまうもんなのか?
>咲:手本があるんだから、そう難しいことじゃないんじゃない?
>八:そうか。・・・だがよ、勝手に真似しちまって良いのか? 初めに作った人が聞いたら怒るだろう。
>四:あの・・・、もう亡(な)くなってますが。
>八:言葉の文(あや)よぉ。生駒屋の旦那だって文句を言うだろ?
>咲:あやさんとも話したんだけど、ちょっとでも違うたねを使ってれば、新しい白粉なんですってよ。例えば、鶯(うぐいす)の糞(ふん)とか、米糠とか、泥とか。
>八:そんなものほんとに入れるのか? 化粧の道具とは思えねえな。
>咲:当たり前のものはもう使い古されてて、受けないみたい。
>八:はあ、魂消たな。綺麗になるためにゃぁ、鳥の糞でも塗(ぬ)るのかねえ。
>咲:只(ただ)の鳥じゃ駄目よ。鶯だから良いんじゃない。
>八:おいらにゃあ、鶯も雀も目白もおんなじように見えるがな。

>咲:そんな訳で、そっくりの白粉が間もなく出回るだろうって言うのよ。
>八:まったく、考え出した人の手柄(てがら)も何もあったもんじゃねえな。
>熊:こんな言い方しちゃあなんだがよ、喜六さん、姐さんの元の旦那さんだって、昔からあった奴に手を加えて作ったんだから、そういう意味じゃぁ真似したってことになるんじゃねえのか?
>八:お、やっと喋りやがったな、この唐変木が。
>熊:なにをー? 唐変木から唐変木なんて言われたかねえや。
>四:熊兄いが言うことも尤(もっと)もなことですよ。ちょっと寂しい話ですがね。
>八:確かにな。そういうことまで考えると情(なさけ)なくなってくるな。一体(いったい)この国はどうなってるんだ? おいらたちゃぁ、生駒屋の白粉を守ってやることもできねえのか?
>咲:だから、余所に負けないように、あたしとお夏ちゃんが指南してあげようって言うんじゃないの。
>八:お咲坊はさて置き、お夏ちゃんに任(まか)せとけば安心だな。
>咲:言い難(にく)いことを、洒洒(しゃあしゃあ)と、良く言うわよ。
>八:思ったことをはっきり言うのは、おいらの長所だ。言わなきゃなんねえことを言えもしねえ熊の野郎とは大違いよ。
>熊:言わなくても良いことを言っちまうお前ぇよりは良いと思うがね。

>八:そうだ。引き札のことだがよ、太助が配る瓦版にちょろっと描(か)いてやりゃあ安くできるんじゃねえのか? 太助の方だって、幾らかでも銭が付けば、稼(かせ)ぎになろうってもんだし、一石二鳥だ。どうだい? おいらって天才かな。
>咲:そうね。お試(ため)しには良いかもね。
>三:そのためには、瓦版のネタがないと駄目(だめ)なんじゃねえですか?
>八:そうだよなあ。この間の親方の活躍も書いちゃいけねえって言われちまったし、ここんとこ、これといって気になる出来事もねえしな。
>五六:作っちまいやすか?
>八:どうやって。
>五六:その白粉って、顔の皮がぼろぼろになって剥(む)けるってことですよね。菜々にでも付けさせて、ぼろぼろになったところで、生駒屋さんへ因縁(いんねん)を付けに行くんですよ。
>八:松つぁんに行かせるのか?
>五六:松公じゃあ箔が付かねえでしょう? あっしが行きますよ。
>八:こりゃあ良いや。どうだ、熊?

>熊:あん? なんだって?
>八:お前ぇ、聞いてなかったのか?
>熊:ああ、済まねえ。他のこと考えてた。
>八:なんだお前ぇ、どうせ、お咲坊にでも見蕩(みと)れてたんだろう。
>熊:そんなんじゃねえや。
>八:じゃあなんだよ。言いてえことがあるならさっさと言っちまえ。
>熊:いや、こっちのことだ。良いから勝手に話を進めてて呉れ。

気になるから話せと迫(せま)られたが、「大したことじゃねえ」の一点張りで、埒(らち)が明きそうになかった。

>夏:分かった。熊お兄ちゃん、あれでしょ? お咲ちゃんの顔の皮がぼろぼろになって、戻らなくなっちゃったらどうしようって心配してるのよね。
>熊:な、何を言い出しやがる。そんなこと、おいらの知ったこっちゃねえ。
>夏:大当たりーぃ。図星だって顔に書いてあるわよ。
>四:おいらもその辺のところはちょっと心配ですけど、どうなんでしょうね?
>夏:大丈夫なのよ。あたしたちみたいなぴちぴちのお肌の人は、そんな風にはならないんですって。富郎さんっていう生駒屋のご主人が言ってたから間違いないわ。・・・どう? 安心した?
>四:はい。それは良かった。
>夏:熊お兄ちゃんも安心した?
>熊:別においらは・・・
>八:なんだ。お前ぇそんな詰まんねえこと考えてて、話に混ざらなかったのか? 端(はな)っから言い出しゃ良かったのに。
>熊:だから、そんなことじゃあねえって・・・
>八:・・・待てよ。するってえと、菜々ちゃんだって若いから、五六蔵の思い付きも駄目になっちまったんじゃねえのか?
>五六:そうみたいでやすね。
>八:そういう年回りの人ってったら、・・・大女将さんにでもやって貰うか?
>五六:そいつはあんまり・・・
>八:大女将さんならよ、棟梁が出るまでもなく、自分独りで怒鳴り込むぞ。手間も掛からねえで良いじゃねえか。
>五六:あっしの口からは、とてもとても、言い出せやせん。
つづく)−−−≪HOME