76.【え】 『猿猴(えんこう)月(つき)を取(と)る』 (2001/05/07)
『猿猴月を取る』[=月に愛をなす]
できないことをしようとして、失敗すること。身の程知らずの望みを持ったばかりに、却(かえ)って失敗すること。
類:●猿猴が月●猿猴捉月(そくげつ)●痴猿月を捉う●水の月取る猿
故事:僧祇律−七」 猿たちが井戸の中の水に映った月影を取ろうとして、手と尾を結んで井戸に降りていったところ、枝が折れて皆溺れ死んだ。
出典:
摩訶僧祇律(まかそうぎりつ) 戒律書。四部律の一つ。佛陀跋陀羅(ブッダバドラ)。東晋。408年頃か。生活規範を書いたもの。
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淡路(あわじ)屋太郎兵衛は、源五郎との一件以来、少しばかりしょぼくれていた。
とはいえ、田原屋の元締めが病床に臥(ふ)せっているのには違いがなく、牛込界隈(かいわい)では楯突く者はいなかった。
桜も見頃となり、そろそろ腰を上げないといけないかなと考えていた。

>太:権太(ごんた)はいるかい?
>権:・・・へい。お呼びでしょうか?
>太:そろそろ花見だと思ってさ。出張(でば)らない訳にもいかないねえ。
>権:八幡宮あたりを流しておきましょうか?
>太:それなんだがねぇ、あっちの方角はどうも験(げん)が悪い。今年は牛込見附辺りにしとこうかと思うんだがどうだ?
>権:英二とかいう奴に勝手させることにはなりませんか?
>太:確かに、その件は引っ掛かるがねえ・・・
>権:予(あらかじ)め、
釘を刺しときましょうか? 若いところを数人連れていけば、少しは薬が効くでしょう。
>太:まあお待ちなさい。大事になったりして役人が絡(から)んできたら目も当てられないよ。
>権:そうですか?
>太:少しくらい泳がせといても大丈夫でしょう。奴らはどう頑張ったところで余所者(よそもの)が4人だ。そんな奴らが島を広げようとしても、他の者が許しゃしないよ。蟻が鏡餅を欲しがるようなもの。ぺしゃんこに潰(つぶ)されるのが落ちさ。
>権:そうまで仰(おっしゃ)るなら、放っておくことにしますが・・・

そこへ、配下の若い者が飛び込んできた。

>小物:て、てえへんだ、てえへんだーっ。
>権:何を泡食ってやがるんだ。
>小物:あの、上方(かみがた)もんが、押し掛けて、来やがった。
>権:なんだと? ・・・旦那、どうします?
>太:そう殺気立つのはお止(よ)しなさい。あちらさんだって、昼日中に物騒(ぶっそう)なことをするほど馬鹿じゃないでしょう。まあ、話を聞いてみようじゃないか。

英二と常吉は土間で大人しく控えていた。手には何やら小さな包みを携(たずさ)えていた。

>太:それで? 用向きというのは?
>英:ご挨拶(あいさつ)が遅れてましたことを詫(わ)びに寄せさせてもろたんです。これは園部屋さんの咳の薬だす。わてらの田舎の万米(まめ)で作りますのや。よう効きまっせ。
>太:どういう魂胆だい?
>英:魂胆なんかあらしません。この辺りで与太ろう思うたら、淡路屋さんにご挨拶しとかな、話にならへんでしょう。
>太:うちは真っ当な店ですよ。あなたがたから挨拶(あいさつ)される筋合いではないでしょう。
>英:そうでっか? ま、よろし。これからもちょくちょく寄せさせて貰いますさかい。ほな。

英二と常吉が淡路屋と会っていた頃、お咲は熊五郎たちが働いている現場を訪れていた。
伝六は鴨太郎のところへ報告に行ってしまった。
お咲の後を男が2人付いてきていることなど、まったく気付いていなかった。

>八:よう、お咲坊。昼飯は済んだのかい?
>咲:それどころじゃないわよ。英二たちに捕(つか)まりそうになったんだから。
>熊:なんだと? お前ぇ真逆(まさか)、独りで生駒屋へ行ったんじゃねえだろうな。
>咲:独りじゃないわよ。伝六さんと一緒。
>八:で? どんな野郎だった?
>咲::見た目はどうってことないけど、狡賢(ずるがしこ)いって感じ。それよりも、常吉っていう人の方がずっと危なっかしい。
>八:そんなのに見付かっちまってよく無事に帰ってこられたな。
>咲:あたしもそう思う。伝六さんのお陰かな?
>熊:いくらお前ぇが下っ引きをしてるったって、ひ弱な小娘だってのは変わらねえんだからな。
>咲:分かってるわよ。
>熊:あわよくば悶着(もんちゃく)を起こしたところで引っ括(くく)ろうなんてこと、考えてたんじゃねえだろうな。
>咲:そんなことない。
>熊:与太郎と一緒に御用聞きをしてれば良いんだよ。
>八:何もそこまで言うこともねえだろう。お咲坊だってなんか役に立つことしようとしてるんだから。
>咲:・・・
>熊:そりゃあそうだが、出過ぎると痛い目に遭うってことだけは教えといてやらねえとな。余計な手柄(てがら)なんか望むんじゃねえってことだ。痛い目を見てからじゃあ遅いんだからな。
>八:そんなこと言われるまでもねえよな。なあ、お咲坊?
>咲:・・・怖かったんだから。
>八:見ろよ熊、痛い目じゃあねえが、お咲坊はもう怖い目に遭ってきたんだ。今は労(いたわ)りの言葉でも掛けてやるべきなんじゃねえのか?
>熊:まあな。

お咲は目に涙を滲(にじ)ませていたが、それを零(こぼ)すまいと、健気(けなげ)にも耐えているようだった。
熊五郎は、そんな気丈さを、「可愛い」と感じていた。

>八:なあ熊よ、今日の仕事も後はたいしたことねえから、お咲坊を長屋まで送ってってやんなよ。
>熊:なんでおいらが・・・
>八:御託なんか並べてねえでさっさと行っちまえ。

お咲が自分の腕にしがみ付いてきたとき、熊五郎は、お咲が微(かす)かに震えているのを感じ取った。
幼(いた)い気(け)なお咲をこれほどまでに脅した英二と常吉のことを許せないと思い、必ず自分の手で懲らしめてやると誓(ちか)っていた。
しかし、件(くだん)の2人が尾行してきていることには、気付く由(よし)もなかった。

お咲を六之進の元まで送り届け、熊五郎は現場ではなく、鴨太郎のところへ向かった。
鴨太郎は、珍しく役所に詰めていて、たった今まで伝六と打ち合わせていたという。

>鴨:おお、熊ちゃんか。お前ぇがこんなとこへ来るなんてどういう風の吹き回しだ?
>熊:英二一味を懲らしめてやりてえんだが、手を貸しちゃあ呉れねえか?
>鴨:おいおい、そいつは俺たちの役目で、大工風情(ふぜい)のすることじゃねえだろう。もうちぃと頭の回りの良い奴かと思ってたぜ。
>熊:大工ごときじゃあ持て余すくらい大変なことだってのは分かってる。大工やら野菜売りやらが何人集まったって巧く行きっこねえってのも分かってる。でも、どうあってもおいらの手で懲らしめてえんだ。
>鴨:そんなこと役人に頼んでどうする。止(や)めろって言われるに決まってんじゃねえか。
>熊:同心に頼みに来たんじゃねえ。半端役人で昔馴染みの鴨太郎に頼みに来たんだ。
>鴨:訳ありかい?
>熊:まあな。
>鴨:良いだろう。だがな、話を筋道立てて申し立てろよ。それからじゃねえと、なんにも教えねえし、一歩も動かねえからな。
>熊:お調べ書きを取ろうってんじゃねえだろうな。
>鴨:紙になんか書きゃあしねえさ。俺のお頭の中にしっかり書き込んで、最良の段取りを纏(まと)め上げようっていう寸法よ。
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