62.【う】 『嘘(うそ)も方便(ほうべん)』 (2001/01/29)
『嘘も方便』
時と場合によっては、嘘も手段として必要である。
反:●嘘吐きは泥棒の始まり
出典:法華経−譬喩品(ひゆぼん)」に見える「三車火宅」の喩え。 ある日、ある老人の家が火に包まれた。中では、恐ろしい大火事であることも知らず、何人かの子供達が夢中で遊んでいた。「危ないから早くお逃げ」という声には耳を貸そうともしなかった。そこで老人は「門の外に、お前達が欲しがっていた羊の車と鹿の車と牛の車があるから出ておいで」と言って子供たちを外へ出させた。
出典:法華経(ほけきょう・ほっけきょう)・妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう) 大乗仏教の重要経典の一つ。漢訳に竺法護訳10巻(265〜316年)、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳8巻(406年)、闍那崛多・達磨笈訳8巻(601年)の三種が現存するが、通常は羅什訳を指す。詩や譬喩・象徴を主とした文学的な表現で、一乗の立場を明らかにし、永遠の仏を説く。智は本経に基づいて天台宗を開き、最澄(さいちょう)はこれを伝えて日本天台宗を開いたが、日蓮(にちれん)に至って、この経による新仏教が開創された。
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自分が菜々に惚(ほ)れていると思い知らされたことで、松吉は幾らか気持ちが落ち着いた。
悲しいことだが、自分に出る幕がないと分かって、割り切れたということもある。
親方の頼みをさっさと片付けて菜々の一件をお終(しま)いにしてしまおうと、朝餉(あさげ)を終えて直(す)ぐに親方の家へ向かった。

その頃、あやの口から、菜々に媒酌役交代の旨が通達されていた。

>菜:だって、親方には思い当たる方がいらっしゃるってことだったんじゃないんですか?
>あや:ええ。それも安兵衛さんに伝えてあります。
>菜:こんなこと聞くのは失礼なんでしょうけど、どういう方なんですか?
>あや:その前にひとつ確認させて頂戴(ちょうだい)な。今現在、こんな人だったら良いなって思える人がいる?
>菜:い、え、そんな人・・・
>あや:近い将来そうなるかも知れないって思える人は?
>菜:そう、ですねえ、まったく思い当たらないって言ったら嘘になるんでしょうか? ちょっと気になる方はいないこともないんです。・・・でも、どうしようもないことですから。
>あや:あら、そんなことでもないのよ。言うのは只(ただ)だから言ってみて。
>菜:お咲ちゃんが揶揄(からか)うもんで気になってるだけなのかも知れないですけど、昨日お会いした飾り職の方のことがちょっと気に掛かるんですよね。
>あや:好きになっちゃったみたい?
>菜:分からないんです。
>あや:そう。それじゃあ、安兵衛さんとも話してみるわね。もうちょっと様子を見てくださいって文(ふみ)を書くから、また昼過ぎにでも持っていってね。
>菜:はい、分かりました。・・・あ、それと、やっぱりお目出度(めでた)だそうで、お目出度うございます。
>あや:ありがと。親方ったらね、梁(はり)が震えるくらいの大声で「でかした」って言って呉れて、もう大変よ。重いものは持つなだ、ゆっくり歩けだって、腫れ物に触るみたい
>菜:幸せですね。
>あや:菜々さんもそうなれるわよ、きっと。
>菜:そうだと良いんですけど。

やがて、松吉が菜々を訪(たず)ねてやってきた。
今日こそはどうあっても返答を聞かせて貰いたいと言われたが、菜々にはやはり欲しいものなどなかった。
強(し)いて言うならば、お咲が言った通り、松吉の自信作を持てたら嬉しいというところなのだろうか。
菜々は、思い切って、お咲の言った通りに尋ねてみた。

>菜:松吉さんがこれまで手掛けたものの中で、一番の出来だったものってなんですか?
>松:おいらの? そうさねえ、安兵衛親方の仕事でね、そりゃあ好くできた鏡台(きょうだい)がありましてね、そいつには下手(へた)な飾りもんじゃ申し訳ねえってんで、随分根(こん)詰めて手掛けました。後から聞いたら、あやさんを嫁に迎えるってんで、ここの大女将(おおおかみ)さんが注文してたものだそうです。今度見せて貰ってください。
>菜:お内儀(かみ)さんのところ? まあ素敵。羨(うらや)ましいわ。・・・ちょっと良いですか? お内儀さんに頼んで見せて貰ってきます。
>松:今ですかい?

菜々は、ばたばたと奥の間の方へ駆けて行き、程なくまた走って戻ってきた。

>菜:素敵。凄(すご)い。松吉さんって本当に腕が良いのね。
>松:いやあ、それ程でも・・・
>菜:あんな見事(みごと)なのを持たせて呉れるなんてことがあったら素敵でしょうね。でも、あたしには無理ね。高望み過ぎるわ。
>松:そんなことありません。道具ってやつは使って呉れる人を選べませんからね、幾ら立派なものを作っても有難がって呉れなくちゃ唯(ただ)の屑(くず)です。欲しいと思って可愛がって呉れる人なら、職人は只でも使って頂きたいもんなんです。
>菜:松吉さんってお仕事に、愛情とか誇(ほこ)りを持ってるのね。
>松:そんなご大層なもんじゃないですよ。おいらにできることなんか、それくらいですから。
>菜:あたし、鏡台なんて高価なものは要らないんですけど、松吉さんが好い出来だって思えたものを何かひとつ持って行きたいです。・・・こういう答えでも良いですか?
>松:へい。十分です。大変足しになりやした。

松吉はその足で、源五郎がいるという現場へ出向いた。
源五郎を探し出して、早速(さっそく)一部始終を伝えた。

>松:出過ぎたことかも知れませんが、おいら、なんだかどうあっても、
あやさんのと同じ鏡台を作ってあげたいって思ってるんです。あのときより立派な細工をして、こいつがおいらの自信作だって言ってやりてえんです。
>源:そうか。鏡台をな。
>松:値の張るもんだってことは承知しておりやす。細工の方はおいらからの祝儀(しゅうぎ)ってことで、お代はいただきませんから。
>源:気持ちは有難てえが、そういう訳にはいかんな。
>松:と、申しますと?
>源:只っていう訳にはいかねえってことだ。祝儀ではな、銭をけちると祝儀自体にけちが付く。遠慮するな。安兵衛には俺の方から頼んどく。お前ぇの意気込みの程もな。きっと、立派なものを作って呉れるだろうよ。
>松:忝(かたじけ)ねえ恩に着ます
>源:お前ぇに恩を売る訳じゃねえさ。元々はこっちから言い出したことだからな。精々(せいぜい)好い仕事をして呉れ。
>松:へい。

>源:・・・あ、それからな、ものが仕上がるまでこの婚儀は進めねえから。飾りの好みとかは、お前ぇが聞き出して呉れるな?
>松:分かりやした。・・・あの、それから、聞くのは失礼なんでしょうが、菜々さんの相手ってもう決まってるんですよね。
>源:ああ、大方はな。どうした? 気になるのか?
>松:い、いえ、そんな訳じゃあ・・・
>源:そうか。まあ、当分は好いものを拵(こさ)えることだけ考えてろ。お前ぇには真っ先に教えてやる。
>松:恐れ入りやす
>源:あ、それからな、安兵衛のおやっさんがな、偶(たま)には顔を出せって言ってたぜ。行って小言でも聞いてやっちゃあどうだ?
>松:そうしやす。

松吉は長屋へ戻って、1日滞(とどこお)っていた仕事を再開した。
次作への意気込みで、自然、熱の籠もった仕事振りになっていた。

>八:親方、松つぁん、なんでやすって?
>源:ああ、菜々ちゃんのために一世一代の細工(さいく)をするとよ。
>八:あいつ本気で惚れちまってるのかな?
>源:そう見えるか?
>八:昨夜(ゆうべ)、酔いに任(まか)せてそう言ってやしたから。
>源:そうか。あいつもやっと色気が出てきたか。
>八:色気が出てきたは良いんですがね、想い人と一緒になれねえんじゃ意味がねえんじゃありやせんか?
>源:世の中、そうとんとん拍子で運ぶことばかりじゃねえだろ。
>八:親方が決めたそのお人と松つぁんと、菜々ちゃんがどっちを選ぶかくらいの折(おり)を、
作ってやっちゃあいただけやせんかねえ?
>源:そいつは無理ってもんだ。
>八:やっぱりそうですか。可哀想に・・・
>源:そうじゃねえ。本人と本人は比べようがねえだろうって言ってるんだ。
(第6章の完・つづく)−−−≪HOME