57.【う】 『牛(うし)に引(ひ)かれて善光寺(ぜんこうじ)参(まい)り』 (2000/12/18)
『牛に引かれて善光寺参り』[=詣(もう)で]
思い掛けないことが縁で、また、自身の発意ではなくて偶然、良い結果に導かれること。
出典:「今昔物語集
参考:「本朝俚諺−四」「養草に云く、むかし信濃国善光寺近辺に七十にあまる姥ありしが、隣家の牛はなれてさらし置ける布を角に引きかけ、善光寺にかけこみしを姥おひゆき、はじめて霊場なることを知り、たびたび参詣して後世をねがへり。これをうしにひかれて善光寺詣(ぜんこうじまい)りと云ひならはす」
参考の出典:本朝俚諺(ほんちょうりげん) 諺を集めた書。宝暦8年(1758)。・・・詳細調査中。
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実を言うと、松吉も、それほど若い娘が得意という訳ではなかった。
勝手場から、盆に湯飲みを載せて菜々が現れるまで、源五郎が作った箪笥(たんす)の出来具合いを検分して気を紛(まぎ)らしていた。
気配(けはい)を感じてはっと見上げたとき、菜々の視線とまともにぶつかり、少々どぎまぎした。

>松:初めまして。親方に世話になってる飾り職人の松吉と申しやす。
>菜:菜々です。縁あってこちらで使って貰ってます。はい、お茶をどうぞ。
>松:済いやせん。あの、・・・
>菜:はい?
>松:妙なこと聞いても良いですか? 女の人って嫁入り道具には何を持って行くもんなんですかねえ?
>菜:さあ、それぞれですからねえ。うちの姉(ねえ)ちゃんなんか、大した物持たされませんでしたよ。
>松:例えば?
>菜:母ちゃんとか婆ちゃんが持ってきたものをばらばらに見繕(みつくろ)ってってとこ。長持ちとか箪笥(たんす)とか。妹のときなんか、何も無くなっちゃって手ぶらだったのよ、可哀相(かわいそう)に。・・・あんまり役に立たないわね。うちは特別なのよ。4人姉妹だしね。
>松:はあ、そうですか。・・・それじゃあ、聞き方を変えます。いいですかい? ・・・あの、菜々さんだったらどんなものを持たされたら嬉しいですか?
>菜:そんなこと、考えたこともないから。
>松:でも・・・。
>菜:何か?
>松:いえね、そう遠くない将来のことじぇねえのかなって、勝手に考えちまってやして。
>菜:そうだと良いんですけど。親方には何か目星があるそうなんですけど、今のところなんとも。
>松:そうなんですか。まあ、それはそれとして、どうです? どんなものが良いですか?
>菜:そうねえ、着物をたくさん持ってる訳じゃないから箪笥も要(い)らないし、化粧はしたことないから手鏡とか鏡台も要らないし・・・。うーん、なんにも要らないみたい。

>松:それじゃあ困っちまいます。なんか考えてくださいよ。
>菜:飾り職なら、そこら辺のことは松吉さんの方が詳(くわ)しいんじゃない?
>松:それがね、大方は男親が勝手に決めちまうもんで、ご当人が喜んでるのかどうか分からねえんですよ。
>菜:へえ、そういうもんなの。うちの父ちゃんなんか、なんにも考えてなかったみたいだけど。
>松:娘の門出(かどで)に何も考えない男親なんかいやしませんよ。内証(ないしょう)が許すかどうかでしょう?
>菜:そうね。優しいのね、松吉さん。
>松:いやぁ。・・・ですが、立派な嫁入り道具を持たしときゃ良いっていう父親の方が、ほんとはなんにも考えてあげてないのかも知れませんね。そういう意味じゃ、菜々さんのお父さんは、世間体(せけんてい)ばかり気にするここいらの親父連中より増しなんじゃねえですか?
>菜:そうかもね。考えを改めなきゃ。
>松:済いません出過ぎたこと言っちまいやして。それに、変なことで引き止めちまって。
>菜:いいえ。あたしの方こそ役立たずでご免なさい
>松:そっちの方はまた聞きに来やすんで。考えといてください。
>菜:あたしのなんか、なんの足(た)しにもなりませんよ。
>松:仕事の足しとか、もうそんなことじゃねえんです。おいらが興味を持ってるってことなんで。・・・きっとですよ。

そそくさと、松吉は帰っていった。
菜々は、「娘の門出に何も考えない男親はいない」という松吉の言葉を、思い出していた。
生まれてこの方、人から諭(さと)された言葉のうちで一番真摯(しんし)なものではなかったかなと、考えるでなく、感じていた。

長屋に帰った松吉は、暫(しばら)く、仕事が手に付かなかった。
自分が菜々に向かって何を喋(しゃべ)っていたのか、定(さだ)かには覚えていなかった。勝手に喋っている口の言い分を、醒(さ)めた耳が聞いているような感覚だった。
源五郎から何を頼まれていたのかさえ、直ぐには思い出せなかった。
確か源五郎は「間もなく嫁ぐ予定がある」と言った筈なのに、本人は聞かされていないようだったし。
あの親方がそんな遣り方をするのだろうか? ちょっと解(げ)せない。
気になり始めると、益々(ますます)仕事が手に付かなくなってきた。
松吉は、現場の再確認と親方の用件の報告という名目で、八兵衛たちに会いに行くことにした。

>八:どうしたい、松つぁん。変梃(へんてこ)りんな箪笥だったかい?
>松:いや、話ってのはそのことじゃなかった。
>八:それで? なんだって?
>松:話して良いんだかどうか・・・
>熊:内緒(ないしょ)の頼みだったら言うなよ。下手(へた)に八に喋っちまったら大変なことになる。聞いたおいらだって怒られるし。
>松:別に口止めされた訳じゃねえんだがよ・・・
>八:じゃあ吐いちまいなよ。
>松:親方のところを手伝ってる娘がいるだろ?
>八:ああ。菜々ちゃんってんだ、愛嬌のある娘だろ。
>熊:親方に呼ばれたことと何か関係があるのか?
>松:あの娘が、嫁ぐときに何を持って行きたがってるのかを、聞き出せってんだ。
>八:お、いよいよ親方も本腰を入れたか。
>松:それでよ、本人に聞いてみたんだがよ、親方から嫁入りの話も聞いていねえし、持って行きたいものなんてなんにもねえって言うし、おいらほとほと困っちまってるって訳よ。
>八:役に立たねえんだな。なんならおいらが聞いてきてやるぜ。
>松:お前ぇじゃ危なっかしくて任(まか)せられねえっていうからおいらが呼ばれたんじゃねえか。
>八:そうなのか? おいらって危んえのか?
>熊:親方がそう言ったんならそうなんだろ。
>八:おいらのどこがだ? こんな初心(うぶ)な男を捕まえて危ねえはねえだろう。
>熊:手が早いとかそういうことじゃなくて、親方の算段を滅茶苦茶にしちまうって意味でだ。
>八:なんだ、そういうことか。そんなら良いや。

>松:しかしよ、親方はどういうことを算段していなさるんだろうな。親方らしくねえとは思わねえか?
>熊:確かにな。どういうことだか聞いてみるかな。
>松:おい待てよ。それじゃあ、あんまりおいらが口の軽い男みてえじゃねえか。もう少し様子を見といて呉れよ。
>熊:そうか? お前がそう言うんなら聞かなかったことにしとくけど。
>八:親方への義理立てのせいでなんにもできねえで、頼まれたこともこなせてねえで、良いとこがひとっつもねえじゃねえか。
>松:情(なさけ)ねえ。仕方がなくてお前ぇたちのとこへ談合に来てるようじゃ、おいらも
焼きが回ったな。
>八:まあまあ。おいらがなんとでもしてやるよ。要するに菜々ちゃんの考えを聞き出して、親方への義理が通れば良いんだろ?
>熊:何か良い手があるのか?
>八:菜々ちゃんを飲みに連れてって、偶然そこに松つぁんが居合わせれば良いんじゃねえか。
>松:そんなんで良いのかよ?
>八:良いって良いって。
>松:そんなのより、あやさんに聞いちまった方が手っ取り早いんじゃねえのか?
>八:いやそれは、ちと、拙(まず)いんだ、今はな。
>熊:ちょいと訳があって、姐(あね)さんとは会えねえ事情がな・・・
>松:そうなのか? そいつが一番 丸く納まるんだけどな。
>八:済まねえが、今日んところは、2番目の策で我慢しとくってことで。どうだ?
>松:仕方ねえか。2番目かどうかは分からねえが。
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