56.【う】 『魚心(うおごころ)あれば水心(みずごころ)』 (2000/12/11)
『魚心あれば水心』
魚に水と親しむ心があれば、水もそれに応じる心を持つという意味で、相手が自分に対して好意を持てば、自分も相手に好意を持つ用意があるということ。
類:●網心あれば魚心●水心あれば魚心●Scratch my back and I'll scratch yours.
★本来は、「魚、心あれば、水、心あり」。
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菜々の話だと、あやの懐妊(かいにん)はどうやら本当のことらしかった。
「お姉ちゃんのときとおんなじだもん」と、事もなげに言ってのけた。「つわりもそれ程きつくなさそうだし、安産ね」
勘ではなく経験でものを言っているのだから信じることとして、八兵衛と熊五郎は、どの時機で親方に質問したものかを見計らえずにいた。

>菜:親方ったらまったく気が付いてないのよ。暢気(のんき)ね。
>熊:自分のこととか家族のこととかにあんまり頓着(とんちゃく)しねえお人だからなあ。
>八:いやいや、ほんとは気が付いてるのかも知れねえぜ。そんでもって、自分似の女の子だったらどうしようかって考えると、確認したくてもできねえんじゃねえのか?
>熊:まだ言ってやがる。大概にしとけよ。・・・それよりも、菜々ちゃんもそろそろ相手を決めて貰わねえとな。
>菜:そう言われるとそうなんだけど、なんだかあたし、このままの方が良いような気になってきてるの。
>熊:独り身のままで良いってことかい?
>菜:そうじゃないのよ。もう暫くこのままでいたいってこと。親方に見付けて貰わなくても自分でなんとかできるような気がしてるの。それに、お仕事も慣れてきて面白くなってきているし。近頃は1人でお遣いにだって行くのよ。
>八:ははあ、さては出入り先で誰かに目星を付けてるんだな?
>菜:とんでもない。でも確かに、色んな人がいて目移りしちゃってるのも事実ね。
>八:変な男になんか掴(つか)まるなよ。ここいらにゃ遊び人も結構いるからな。
>熊:そうだな。それこそ徹右衛門みてえなのに掛かって孕(はら)まされたりしちゃあ大変だ。
>菜:ああ、道中で噂になってた人のこと? 真逆(まさか)。あたしだって本気なのか遊びなのかの区別くらい付くわよ。

>八:けどよ、女は小忠実(こまめ)に言い寄ってくる奴に蹌踉(よろめ)いちまうもんだからな。
>熊:忠実(まめ)なのと真剣なのとの区別なんてのは、段々あやふやになってきちまうもんだからな。
>菜:ふうん、そうなのかもね。あたしね、言い寄られるってのも嫌な気はしないんだけど、やっぱり、相手より先にこっちから惚れちゃうってのに憧(あこが)れちゃうのよね。
>熊:親方んところみてえにか?
>菜:そうね。素敵ね。
>八:ああなるまでには色々とあったんだぜ。
>菜:そうなの?
>八:大女将さんやら甚兵衛爺さんやらがいなかったらこうはなっちゃいねえな。ま、一番の功労者はおいらだけどな。
>菜:へえ。八兵衛さんが。
>熊:自分のことを功労者だなんて言う奴のことは、話半分に聞いといた方が良いぞ。
>八:何言ってやがる。熊もだって言わなかったから悔しいだけだろ?
>熊:好きなように思ってろ。さ、仕事仕事。

>八:なあ熊よ、菜々ちゃんにお目当てがいると思うか?
>熊:こればっかりはなあ。しょっちゅう一緒にいる姐(あね)さんとか女将さんなら気が付いてるかも知れねえけどな。
>八:三吉とか四郎だったらどうする?
>熊:別に構わねえんじゃんえか? 菜々ちゃんなら相手が誰だって巧くやれそうだからな。
>八:三吉とだったらがっちりとで、四郎とだったらおおらかにか?
>熊:なんでえ、分かってんじゃねえか。お前ぇも先輩らしくなってきたじゃねえか。
>八:お言葉ですがね、おいらは昔っから弟子思いの良い先輩なの。昔、姐さんだってそう言って呉れたじゃねえか。
>熊:都合の好いことは良く覚えてやがるな、まったく。
>八:そんなんだからよ、菜々ちゃんにも良い相手を宛がってやりてえじゃねえか。三吉とか四郎よりも面倒の少ねえ男の方が良いような気もする訳さ。
>熊:そうだな。駆け出しの大工じゃちょいと苦労があるもんな。

熊五郎と八兵衛は、親方の家を出てから、そんな話をしながら現場へ向かっていた。
現場まで目と鼻の先というところの辻で、松吉と鉢合わせした。

>八:なんでえ松つぁん、現場を見にきたのかい?
>松:ああ、そろそろ頃合かなと思ってな。
>熊:良い出来具合いだろ。ちゃんと釣り合いの取れるものを作れよ。
>松:何を抜かしやがる。おいらが気合入れてやっちまったら、建物の方が貧弱に見えちまうじゃねえか。
>八:減らず口叩いてやがれ。
>熊:これから長屋に帰って早速(さっそく)取り掛かるんだろ?
>松:それがどうした訳だかよ、親方が打ち合わせたいから来るようにって。家主はお大臣さまなのかい?
>熊:いや、そんなこともねえけど。
>松:どうしたんだろ。これまでは、現場に来て二言三言話してお終(しま)い。家主さんとの面通しだって端折(はしょ)ってたのによ。
>熊:きっと、面倒臭え注文でもされてるんだろ、金無垢(きんむく)の家紋を入れろだとかよ。
>松:そんなの朝飯前だ。とんでもなく変わったものじゃねえ限り、入念(にゅうねん)な打ち合わせなんかしねえよ。
>八:きっと、とんでもなく妙な注文なんだぜ、絡繰(からく)り物だったり。
>松:そんなら、大変なのは作る親方であって、おいらの方じゃねえだろ? こちとら任されてるのは四隅と取っ手の飾りだぜ。
>熊:出来栄えが良かったんで、特別に思い入れがあるっていうところじゃねえのか?
>松:まあそんなところだろうとは思うけどよ。

源五郎が仕立てた箪笥は確かに出来の良いものだった。
けれど、素材と寸法さえ分かっていれば特別に説明の要るようなものではなかった。

>源:態々(わざわざ)呼び出して済まなかったな。
>松:いえ、現物とか現場を知るのは職人の基本ですから。
>源:いやいや、お前ぇほど腕が良けりゃ物がどうだって関係はあるまいよ。
>松:恐れ入りやす。
>源:来て貰ったのはな、今回の箪笥のことじゃあねえんだ。
>松:と、申しますと?
>源:ちょいとな、嫁入りを控えてる娘があってな。何か持たしてやりてえんだが、どんなのが良いのか分からなくてよ

>松:そういうことなら本人に聞くのが一番でさぁ。
>源:その通りだ。唯(ただ)な、知っての通り若い娘ってのはどうも苦手でな。かといって、八とか熊じゃあ危なっかしくて任せられねえ。どうだ、頼まれちゃあ呉れねえか?
>松:そこまで言われちゃあ断れませんや。ようがす、引き受けましょう。大工と飾り職人は持ちつ持たれつ、困ったことがあったら助ける、そういう間柄じゃありませんか。
>源:助かるぜ。今丁度手が空いてるところだと思うから、
ちょいと聞いてみて貰えるかい?

>松:今ですかい?
>源:仕事場の方へ回るように伝えるから。・・・あ、それと、できれば、俺がこんなことを頼んでるってのを気取(けど)られねえようにして貰えると助かるんだがな。
>松:吃驚(びっくり)させようって趣向ですかい?
>源:まあ、そんなところだ。・・・ときに、お前ぇ、「だるま」のお夏ちゃんのことはもうすっかり諦(あきら)めちまったのかい?
>松:なんです、唐突に?
>源:お前ぇも所帯を持つ頃合いじゃねえかと思ってよ。
>松:お夏ちゃんは目の保養ですよ。所帯を持つんならもっと気持ちの優しい人でないと。少しくらいへちゃむくれでもおいらのこと好いていて呉れれば良いですね。
>源:そうか。大きなお世話じゃなかったら心掛けとくとしよう。
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