54.【い】 『言(い)わぬが花(はな)』 (2000/11/27)
『言わぬが花』
口に出して言わない方が差し障りもなくて良い。また、そういう奥床(おくゆか)しさが粋(いき)である。
類:●言わぬは言うに勝る沈黙は金●言わぬ言葉は言う百倍
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当日は、暑さも幾らか和(やわ)らぎ、過ごし易い陽気だった。
というよりも、2日続けて厳しい残暑だったせいか、朝晩などは少し肌寒いかなと感じる程だった。
雨天でないのが、徹右衛門たちにとって、せめてもの慰(なぐさ)みだったことだろう。

前回協力して呉れた気の好い女中は、「後々恨まれたらやだねえ」と言って、今回ばかりは後込(しりご)みした。
お夏がまだ到着していなかったので、女中役はお咲が受け持つこととなった。

>女中:あんたが行くのかい? 気を付けなよ、ほんとに下品な奴らなんだからね。
>咲:若過ぎるとか変に思われないかしら?
>女中:あいつらときたら、若けりゃ若いほど良いっていう病気持ちみたいなもんだからねえ。
>咲:鳥肌が立ちそう。

徹右衛門・章太・十兵衛は、揃いも揃って酩酊(めいてい)状態だった。
これだけ酔っ払っていても酒だけは入るのかというほど、空(から)の銚子が転がっていた。

>咲:まあまあ、片付けもしてないんですか? ご免なさいねえ。
>十:なんだ? 新しい女中か?
>咲:はい。今日からなんですよ。よろしくお願いしますねえ。
>徹:おお。まだ若いな。十四か? 五か?
>咲:あらやだ。お上手(じょうず)ですねえ、若作りしてますがもう疾(と)うに二十(はたち)を越えてるんですよ。
>徹:そうは見えないなあ。まあ良いや。片付けは後回しにして酌をしてお呉れ。
>咲:はいはい。どうぞ。そちらさんもいかがです?
>章:有り難(がて)え。年の寄った婆さんよりはなんぼか美味(うま)かろう。
>十:あたいはたくさんですわ。もう飲めまへん。
>咲:あら、恥を掻かせないでくださいましな。お1つだけでも受けてくださいまし。
>徹:そうだ十兵衛、飲め飲め。恥を掻かすな。
>十:そうでっか? ほなほんとに1杯だけでっせ。

>咲:どうも有難うございます。無理言ってご免なさいねえ。・・・さてと、今片付けますから待っててくださいねえ。箸(はし)休めに何か作らせてきましょうか?
>徹:そんなもん良いからもう少し付き合っていきなさいよ。
>咲:お付き合いしたいのは山々なんですが、何せ初日ですんで、あまり油を売ってちゃ叱られます。
>徹:大丈夫大丈夫。親爺にはあたしから言っとくから、ね。
>咲:そうは仰いますが・・・。それじゃまたお代わりしてくださいな。そしたらまたお酌して差し上げます。
>徹:中々商売上手だねえ。どうだい、うちに奉公する気はないかい? もし親父のお眼鏡に適(かな)えばお店(たな)の身代(しんだい)だって夢じゃない。
>咲:え? 堺屋さんのお嫁にってことですか?
>徹:そうですよ。どうです?
>咲:夢のような話ですね。ですが、あたしごときが旦那さんに認められる筈もありませんし、お店の仕事なんか無理です。そんなことより、若旦那が暖簾分けして立派な財を築いたらお手伝いに行かせていただいても良ござんすよ。独り立ちできますか?
>徹:なあに暖簾分けなんか直(す)ぐにでもできるさ。
>咲:そうでしょうかねえ・・・
>徹:大丈夫大丈夫。親父はあたしの言い成りなんららら・・・あり? ふひはひへほへ・・・

首尾(しゅび)は上々。
お咲は、障子を開けて、外で待機していた男連中を招(まね)き寄せた。

翌朝。
堺屋から程近い通りの辻には、あられもない姿で縛(しば)られた3人の姿があった。
脇に立てられた札には「私こと堺屋の長子徹右衛門は、複数の町娘に対し堺屋の身代を仄(ほの)めかしつつ言葉巧みに丸め込み、夫々に子を設けたことを認めます。やがて生まれる子供たちの養育については、長じて世帯を成すまで世話を焼き面倒を見ることを誓(ちか)います。今後は頭を冷やし、見習いから学び直し、身代を僅(わず)かなりとも減らすことのないよう、身を粉にして働くことを約束いたします」というような内容のことが書かれていた。「なお、隣に控えておりますこの者たちは上方(かみがた)から一旗揚げようという下心を持って参った不逞(ふてい)の輩(やから)です。私は今日限り手を切りますので、皆様にも取り入られることのなきよう、この場を借りてお願い申し上げるところであります」

朝餉の頃には黒山の人集(ひとだか)りになっていた。
日頃から好ましからず思っていた町の衆は、誰一人堺屋に告げに行こうとしなかった。勿論、縄を解(と)いてやろうと言い出す者も出なかった。

昼時には、熊五郎たちの所へもその噂話が聞こえてきた。
同じ長屋にいながら一切関わっていなかった松吉が通り掛かり、まるで自分が見てきたかのように説明して聞かせた。

>松:お前ぇたち堺屋の若旦那っての知ってるかい?
>熊:堺屋って海産物問屋のかい? 倅(せがれ)がいたのか?
>松:なんだ、知らねえのか。じゃあ教えてやるよ。・・・それがよ、こいつが絵に描(か)いたような放蕩(ほうとう)息子でよ、お店の身代ちらつかせてあっちの娘こっちの娘って誑(たぶら)かして回りやがる、ほんといけ好かねえ野郎だったんだがよ・・・
>熊:なんでぇその「だった」ってのは?
>松:それが、笑っちまうんだがよ、今朝方通りで晒(さら)しもんになってやがった。悪う御座いましたもう二度としませんって書いた札を抱かされてたんだよ。
>八:へえ、それで? 本人はなんか言ってたかい?
>松:それがよ、昨夜(ゆうべ)天女が降りてきて「一本立ちして財を成すようになったら会いに来て呉れる」んだとよ。
>八:天女? あれがか?
>熊:八、少し黙ってろ。
>松:なんだよ、変に話の腰を折るなよ。・・・まあ、徹右衛門のこと見たこともねえってお前ぇらに何を言ったって始まらねえか。親方なら見たことくらいあるだろう。ちょっくら行って話して聞かせるかな?
>熊:ああ、親方ならあっちの隅(すみ)で姐さんと睦(むつ)まじく飯を食ってるぜ。
>松:珍しいね、あやさんもいるのかい? こいつは良いや。そんじゃな。
>熊:あんまり無粋(ぶすい)な真似するんじゃねえぞ。

>熊:見たかよあの嬉しそうな顔。ああいう顔を見るとなんだか良いことしたなあって実感するな。ほんのちょっと後ろめたいけどな。
>八:何が後ろめたいもんか。・・・それにしても、お咲坊が天女か?
>熊:酔っ払いの目にはそう見えたんだろうよ。なんにしても、これで真っ当になって呉れりゃあ良いんだけどな。
>八:そいつはあいつ次第だってお夏ちゃんも言ってただろ?
>熊:そうだな。おいらたちがそこまで面倒見てやることもねえな。
>八:罷(まか)り間違ってほんとに一本立ちしたら、天女様を連れてご挨拶(あいさつ)に行かなきゃならねえな。
>熊:それじゃあ元も子もねえじゃねえか。黙(だま)って見守っててやるのよ。
>八:気障(きざ)過ぎやしねえか?
>熊:お縄にならないだけでも有り難えと思わなきゃな。
>八:ま、そういうことだな。・・・これもあの特大茶柱のお陰かな。
>熊:まだ言ってやがる。
(第5章の完・つづく)−−−≪HOME