第4章「堅物熊五郎の憂鬱@(仮題)」

34. 【い】  『一難(いちなん)去ってまた一難』
 
(2000/07/10)
『一難去ってまた一難』
災難や危機が次々と襲ってくること。
類:●虎口を逃れて竜穴に入る前門に虎を防ぎ後門に狼を進む●To take one foot out of the mire and put in the other. (片足をぬかるみから抜き出し、片足をぬかるみに踏み入れる)<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
*********

梅の実もだいぶ大きくなり、曇り勝ちの日が多くなってきた。間もなく入梅(にゅうばい)である。
熊五郎・八兵衛たちが携(たずさ)わっている今の仕事は、仕上げの段階に差し掛かろうとしていた。
雨が続く時期は大工仕事も余り引き受けないようになっていて、先の予定は殆(ほとん)どが内装関係、棚(たな)の修繕やちょっとした建て増し程度のものばかりだった。
言ってみれば、暇な時期である。

>熊:なあ八よ、おいら毎年この時期になると、このまま食いっ逸(ぱぐ)れちまうんじゃないかって心配になっちまうんだよな。
>八:おいらもさ。棚なんか直したってたいした稼(かせ)ぎにもならねえし、何よりも、そんなもんばかりじゃ道具が泣くってもんだ。
>熊:そこら辺は割り切れって親方は言うけどな、長屋でくさくさしてちゃからだも鈍(なま)っちまう。
>八:なんか一騒動ありゃあ気も紛(まぎ)れるってもんだろうがな。
>熊:止(よ)せやい、そんなこと言ってるとほんとになんか起こっちまうじゃねえか。
>八:願ったりじゃねえか。

と、そこに半次が訪ねてきて、左官の二助を見掛けなかったかと聞いてきた。

>熊:うちには3、4日前に来て貰ったが、その後は見掛けてねえよ。
>八:どうかしたのか?
>半:今掛かってるとこがよ、壁塗りを終えてねえから襖(ふすま)を入れられねえんだ。
>八:先に入れちまえば良いじゃねえか。
>半:それがよ、襖絵を名のある先生に描いて貰ったとかで、汚しちまったら大事(おおごと)なんだ。
>熊:それで、襖はいつ納めなきゃならねえんだ?
>半:ほんとなら今日の昼どきだ。壁の方は昨日のうちに終わってなきゃいけなかったのによ。
>熊:完成の刻限を遅らせたりしたら、家主もそのうち怒り出すな。
>半:そうなんだ。然(さ)る奉行所の与力の家だからな。面倒なことにならなきゃ良いがな。
>熊:へえ、それにしてもその与力、随分羽振(はぶ)りが良いじゃねえか。
>半:大きな声じゃ言えねえけどな、どうやら、その筋のやつらが絡(から)んでるらしいぜ。
>熊:太郎兵衛か。
>半:誰だい? その太郎兵衛ってのは?
>熊:淡路屋の太郎兵衛って言ってな・・・
>八:おいおい、お前ぇら、今は襖のこととか太郎兵衛のことなんか話してる場合じゃねえだろう。二助のことが心配なら、こんなとこで油ぁ売ってねえで親方んところに行くべきじゃねえのか?
>熊:そうか、二助が巻き込まれてるとしたら、下手(へた)すると、命に関わってるかも知れねえからな。
>八:半次、お前ぇはどうする? もう少し心当たりを探すか?
>半:そうするよ。親方の考えも聞いてみてえから、あとでだるまに顔を出してくれ。
>熊:分かった。そっちも何か分かったら聞かしてくれ。

>八:一騒動持ち上がっちまいやがったな。
>熊:なんだ、願ったりじゃねえのか?
>八:物騒(ぶっそう)な話はお断りだよ。

熊五郎と八兵衛は仕事を早めに切り上げて、源五郎の家へ向かうことにした。
途中道具を置きに長屋に寄って、さあ出掛けようとしたとき、半次の母・お梅に呼び止められた。

>梅:今さっきだよ、蛇みたいに目付きの悪いならず者が来てて、お咲ちゃんと話してたんだ。そしたらお咲ちゃん、真っ青になってね、そいつに付いてっちまったのさ。
>熊:勾引(かどわ)かされたんじゃなくってかい?
>梅:自分から付いてったようだったからそれ程心配はしてないんだけどね、なにしろ悪そうな男だったもんだから気になってね。
>八:お梅さん、どっちの方へ行きやした?
>梅:そこの辻を早稲田の方へ折れてったみたいだけど。
>八:牛込見附の方じゃなく、左の方でやすね。おい、熊・・・
>熊:間違いねえ。太郎兵衛だ。こりゃ、うかうかしてられねえぞ。
>八:二助だけでも大変だってえのに、今度はお咲坊か。参(まい)ったな。
>熊:お梅さん、済まねえが、六さんに事の経緯(いきさつ)を話して、後は源五郎親方に頼むから余計に動き回らないで呉れって、そう伝えて貰いてえんだが。
>梅:合点(がってん)だ。・・・なんだったら半次も手伝わせてお呉れ。
>熊:有り難(がて)え、今晩「だるま」に寄越(よこ)して呉れ。
>梅:分かったよ。
>熊:八、急ぐぜ。
>八:五六蔵たちは親方のところに行ってるんだよな?
>熊:なに言ってやがる。今朝、腹を壊して唸(うな)ってるって聞いてきたのはお前ぇじゃねえか。
>八:あ、そうか。忘れてた。
>熊:まったく、どいつもこいつも・・・
>八:お咲坊が心配だからってそうぴりぴりしなさんなって。
>熊:せっかちなのは生まれ付きでえ。なんでも良いから八、お前ぇ、五六蔵を引っ張ってきて呉れ。
>八:腹を壊してるってのにか?
>熊:そんなこと言ってる場合じゃねえだろ。太郎兵衛のこと一番詳しいのはあいつなんだから。
>八:分かったよ。そんじゃあ親方んとこでな。

と、走り出した途端、陰から与太郎が出てきて八兵衛と正面(まとも)にぶつかった。
与太郎が担いでいた野菜籠が引っ繰り返り、売れ残りの野菜が2人の上に散らばった。

>与太:な、なにを慌ててるんです? 八つぁん。
>八:痛えな与太公。怪我(けが)でもしたらどうすんだ。ちゃんと前を見てろ。
>与太:そういう八つぁんこそ。昼間っから酔っ払わないでくださいね。
>八:おいらは酔っ払っちゃいねえ。ただ切羽詰まっちまってるだけだ。
>与太:あたいの方も、こんなに余っちゃって、切羽詰まってるんですけどね。
>八:そんなの熊が何とかして呉れる。・・・頼んだぞ熊。
>熊:おい、八。こら。・・・まったく、どいつもこいつも。
>与太:毎度ありいー。

>八:まったく、怪我なんかして起き上がれなくなってたらどうするってんだよ。折角(せっかく)騒動が起こったってのに、なんにもできなかったら、元の木阿弥じゃねえか。・・・それにしちゃあ一時(いちどき)にまあ次から次と来やがったもんだな。太郎兵衛の野郎も暇を扱(こ)いてやがったんだな、きっと。
つづく)−−−≪HOME