33.【い】  『一字千金(いちじせんきん)』 (2000/07/03)
『一字千金』
1.詩文の表現や筆跡などを尊重して言う言葉で、一文字だけで千金もの価値があること。
2.師の恩情が厚いことの喩え。
故事:史記−呂不韋伝」 呂不韋が「呂氏春秋」を編集した時、一字でも添削できた者には千金を与えようと言った。  
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4つ半(11時頃)に源蔵が現れたとき、源五郎はまだ何も手に付いていない状況だった。
事情は分かるが、棟梁としていくらなんでも目に余るもので、頭ごなしに叱(しか)り付けた。

>棟:源五郎、もしもお前がこのまま腑抜けでいるようなら、申し訳ないが、あやさんには引き取って貰うことになるぞ。
>源:なんで?
>棟:建物に手抜きがあったり完成が遅れでもしてみろ、もううちを使って呉れるところはなくなっちまう。そうなったらうちだけじゃなく、熊も八も五六蔵たちだって食いっ逸(ぱぐ)れちまうんだぞ。
>源:そりゃあそうだ。
>棟:原因があやさんだとなりゃあ、うちの嫁としては不都合(ふつごう)ってことだからな。どうだ? あいつらを飢え死にさせるのも、あやさんと別れるのも嫌だろう?
>源:当たり前だ。
>棟:あやさんのことを世間様が、「あの源五郎さんところの内儀(おかみ)さんだ」って呼んで呉れるようにしてやりてえだろう。
>源:うん。
>棟:晩生(おくて)のお前ぇに刺激が強過ぎたのは分かる。今日一日だけは時間をやる。その代わり、明日は遅れた分を取り戻せ。分かったな。
>源:分かったよ。だけど、ほんとに今日だけは勘弁して呉れ。身体に力が入(へえ)らねえんだ。
>棟:仕様がねえ奴だな、まったく。けじめはちゃんと付けろよ。それから、今日は早めに帰ってあやさんとふたりで挨拶(あいさつ)回りしてこい。甚兵衛親方のところには真っ先に行くんだぞ。
>源:分かった。そうするよ。行けるようなら田原屋に行って、父つぁんを見舞ってくるよ。
>棟:そうか、それが良い。

源蔵は現場を一回りして、それぞれに経緯(いきさつ)を掻い摘(つま)んで説明してやった。
それと同時に、半人前3人の仕事振りも観察していた。同じ掃除(そうじ)片付けをするのにも個性が出る。
五六蔵は力ばかりでなく意外に手先が器用だ。三吉は身軽で足腰がしっかりしている。四郎は熱心で細かいところに気が回る。それぞれに見所はあるかも知れないと、考え方を改めてもいた。

昼の振舞い酒の席で、源蔵は源五郎に向かって、「そろそろ五六蔵たちに鑿(のみ)を持たせても良いんじゃねえのか」と切り出した。

>棟:三人三様で向き不向きはあるだろうが、一通りの基本は教えとかねえとな。
>五六:ほんとですかい、棟梁? どう思いやす、親方?
>源:ああ、そろそろかなと思っていたところだ。
>五六:やったぁ、これでやっと大工らしくなってきたぜ。
>八:慌てんじゃねえぞ。人様の家に使う材木に、お前ぇたちの鑿(のみ)や鋸(のこ)を当てらせるって訳じゃねえんだからな。
>熊:初めのうちはそこいらの木(こ)っ端(ぱ)だけだ。
>五六:それで充分でさあ。賽子(さいころ)でも魚を銜(くわ)えた熊でも、阿弥陀様だって彫(ほ)りますぜ。
>八:そんなのは必要ねえの。只管(ひたすら)仕口(しくち)と継ぎ手の繰り返しだ。

>四:なんですか? その「しくち」と「つぎて」ってのは?
>熊:仕口ってのは例えば柱と梁をくっ付けるときの繋(つな)ぎ方のことで、継ぎ手ってのは材木より長い梁を渡したりするとき長さを伸ばす繋ぎ方のことだ。
>五六:あの入り組んだ削り方ですかい? いっつも思ってたんですが、良くもまあ見事にぴたあっと嵌(は)まるもんでやすねえ。
>熊:まあ、歴史が築き上げた至芸(しげい)だな。
>四:形は何種類くらいあるんですか、棟梁?
>棟:60余りあるそうだ。
>三:60も。そいつを全部覚えるんでやすか?
>棟:知ってるに越したことはねえが、どうしても必要ってことはねえ。格別な建物だと格別な継ぎ方をしなきゃならねえってのはあるがな。・・・どうだい、ちょいと工夫してみる気はねえか? 新しいものを思い付いたり、こうした方が良くなるっていうのがあったら申し出てみろ。源五郎も大概(たいがい)のものは分かってるからな。ほんとに良いものだったら、寄り合いで取り上げてやっても良い。
>熊:ってことはですよ棟梁、旨(うま)くすりゃあ、江戸中に名前が通るってことですかい?
>棟:そうよ。弟子入り志願も数え切れねえくらい来る。親方どころか大所帯(おおじょたい)の棟梁だって夢じゃねえ。

>八:そいつは困りもんですよ、棟梁。おいらたちじゃとってもそんなの養(やしな)い切れねえ。
>棟:もしそうなったら充分な支度金(したくきん)はこっちで出してやるさ。
>八:良いんですかい? そんなこと言っちまって。
>棟:当たり前だ。お前ぇらの評判が上がりゃあこっちだって評判が上がるってもんだ。仕事も増える。弟子も増やす。隠居しても左団扇(ひだりうちわ)だ。
>八:へえ、こりゃ凄(すげ)え。
>棟:唯な、俺も源五郎も考えてるがな、先達たちはまったく、抜かりのねえものを考え出してやがる。
>八:なんだ。じゃあ無理じゃねえか。
>棟:そんなことはねえさ。何が切っ掛けになるか分からねえからな。要は、常日頃から気に懸けておくってことだな。
>五六:あっしらも考えさせて貰いやすよ。
>熊:その前に、基本のものをちゃあんと作れるようにならないとな。
>八:何事も基本が肝心てことだな。
>棟:今日はこれで終いにするから、八、熊、握り方から仕込んでみて呉れ。
>熊:承知しやした。

>八:しかし、おいらたちが人に教えるようになるとはねえ。
>熊:五六蔵たちもよく音(ね)を上げずにここまで来たよな。
>五六:兄いたちのお陰でやす。
>熊:お前ぇでも殊勝なことを言えるんだな。
>八:お追従(ついしょう)を言われても、棟梁と違って、支度金も何も出ねえけどな。
>五六:鑿の1本くらいどうでやすか?
>八:鑿は職人の命よ。自分でまっさらなのを買うんだな。
>五六:なるほど尤(もっと)もでやす。流石(さすが)八兄い、お見逸れしやした。
(第3章の完・つづく)−−−≪HOME