29.【い】  『鼬(いたち)の最後っ屁(ぺ)』 (2000/06/05)
『鼬の最後っ屁』
1.鼬が敵に追われた時、悪臭を放って難を逃れること。
2. 転じて、切羽詰まったとき非常手段を用いること。また、最後の最後に醜態(しゅうたい)を演じること。

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甚兵衛がにこやかな顔で宴に戻った頃、お咲は相当飲んでいたらしく、熊五郎に絡(から)んでいた。
六之進は娘の言動に冷や冷やし通しで、酒を味わうどころではなく、いつになく素面(しらふ)のままだった。
定吉はお杉に窘(たしな)められてから、専(もっぱ)ら肴(さかな)を食べているようだった。

>咲:熊、聞いてるのかい? あんた弟子を3人も抱(かか)える身でしょう? もっとしっかりしないといつまで経ったって小頭(こがしら)になれないわよ。
>熊:町火消しじゃねえんだから小頭はねえだろう。一番弟子なのには違いねえんだからこのままで良いじゃねえか。
>咲:それじゃあいつになったら親方になれるの?
>熊:そいつぁあ、親方が棟梁になったときだろうな。
>咲:いつごろのこと?
>熊:そうさな、今の棟梁が引退するのは20年ぐらい先なんじゃねえか?
>咲:20年も
(うだつ)の上がらないままでいるの?
>熊:そういうもんなんだよ職人ってのは。
>咲:ふうん、欲がないか自信がないかのどっちかね。
>熊:なんてえ言い種(ぐさ)だ。大工ってのはだな、修行に終(しま)いのねえもんなんだ。日々是修行。親方だって棟梁だって、常日頃からあれこれと研究なさってるんだ。
>咲:それじゃあ何? 今、熊公は何を研究なさってるの?
>熊:そいつぁあ、今んところ何もしてねえけどよ。
>咲:ほうら見てみなさいよ。毎日毎日八つぁんと飲んだくれてて、何が修行よ。

>八:おいらのこと呼んだかい?
>咲:ぼやぼやしてると、八つぁんに一番弟子の座だって取られちゃうんだから。
>八:お咲坊、言っとくけどな、おいらが一番弟子で熊の野郎は二番弟子なんだぞ。
>咲:ほうら。
>熊:八も面白がって煽(あお)るんじゃねえよ。八とおいらはおんなじ日に弟子入りしたから両方とも一番弟子なんだよ。今のところどっちが上とか下とか考えてる暇はねえの。
>八:なあ熊、お咲坊が言いたいのはな、そんなことじゃねえのよ。あのな、お前ぇがもっとしっかりしてたら、嫁になって弟子共々面倒を見てやっても良いんだぞってことなんじゃねえのか?
>六:なんだなんだ? 嫁だ? お咲がか? まだ数えで14になったばかりだぞ。相手がいくら気の好い熊さんだからってまだ嫁には早過ぎる。
>咲:父上は黙ってて。
>八:熊よ、嫁とか独立とかは棚に上げといてもだよ、おいらたちだって3人の弟子を持ってる訳だから、もう少ししっかりしなきゃなんねえってのは、その通りだと思わねえか?
>熊:そんなことお前ぇに諭(さと)されるまでもなく分かってるよ。・・・そりゃあ、間違ったことを言われてるんじゃねえって頭では分かってるんだがよ、こう喧嘩腰捲し立てられるとな、売り言葉に買い言葉で少々荒っぽくなろうってもんだ。女子供相手にかっとしちまうのも大人気ねえしよ。
>八:駄目駄目、ここは一発頬っぺた引っ叩(ぱた)いて「黙って付いてくりゃ良いんだ」って言ってやんなきゃ。
>半次:そうだそうだ、それでこそ男。
>熊:おまえらな、人事(ひとごと)だと思って勝手なこと言いやがる。花見なんだぞ、もっと気の利いた話題が無いもんかい、ねえ、あやさん。
>八:なんだよ、お前ぇの奥の手ってのはあやさんを引っ張り出すってことか。
>熊:おいらのじゃねえって。お咲坊にもう少し冷静になりなさいって言って呉れるのは、うちの長屋にゃあやさんしかいねえじゃねえか。

>あや:お咲ちゃん、どんどん言ってお上げなさいな。熊さんには立派な大工になって貰わないと困りますからね。
>熊:あやさん、そりゃあねえや。納まるもんが納まんなくなっちまう。
>あや:いいえ。わたしはお咲ちゃんの味方。
>咲:あやさんって、やっぱり、話せるぅ。分かった? 熊。
>八:
万事休すってやつだな。
>熊:なんだか旗色が物凄く悪くなってきちまったから厠(かわや)にでも行ってくらあ。逃げるんじゃあねえぞ、ちょっと席を外すだけだからな。
>八:半死半生の状態だな。
>咲:八つぁん、あんたもよ。
>八:ありゃま。あっしも厠へ行ってきまーす。

結局は、お咲の上った血も醒(さ)めてしまい、宴は元通り和(なご)やかなものに戻っていた。
少しだけ反省したお咲は、飲み物を水に切り替え、ぬたに箸を伸ばした。葱(ねぎ)は少し辛くてほろ苦かった。

「宴も酣(たけなわ)では御座いますが・・・」と挨拶して、甚兵衛が早々に切り上げて帰って行った。
飲み物が足りなかったらこれで賄(まかな)っておくれと、八兵衛の母親にいくらかの金子(きんす)を渡したところを見ると、どうやら結構ご機嫌(きげん)であったらしい。
まだ八つ(14時ごろ)を回った頃で、周りに集まり始めた連中はこれから盛り上がろうというところだった。
厠から戻った後、熊五郎と八兵衛はお咲から遠巻きに席を占め、下世話(げせわ)な話で盛り上がっていた。

>あや:皆さんにお話しておかなきゃいけないことがあります。聞いていただけますか?
>半:なんでえ改まって。今生(こんじょう)の別れでもあるめえに。
>あや:実は、急なお話で申し訳ないんですが、今日限りで長屋を出ようかと思っています。
>半:冗談だろう?
>八:え? 今日実行なんすか?
>半:なんでえ、お前ぇ知ってたのか?
>八:ちょいとな。
>あや:八兵衛さんと熊五郎さんには、ちょいと片棒を担いで貰うことにしてまして。
>半:何かやらかすんですかい? 面白いことですか?
>あや:はい。押し掛け女房です。
>半:押し掛けるって、もしかして、源五郎親方のところへですか?
>あや:はい。
>半:こいつぁあ面白え。
>杉:押し掛け女房が面白いことですか?
>半:お杉ちゃんは知らねえだろうが、八たちの親方の源さんてのが、自分の方から女の人に声も掛けられねえくらい晩生(おくて)の人でね、あやさんにぞっこんってのが傍目(はため)にも見え見えなんだが、一向に進展しねえ。周りの奴等の方が気を揉むぐらいで。
>杉:でも正式な段取りを踏む訳じゃないんでしょう? 大丈夫なんですか?
あや:先様(さきさま)のお母さん(※)には了解して貰ってますから。
>八:い、いつの間に。
>あや:甚兵衛さんにはまだ報(しら)せてないですけど、却(かえ)って段取りを踏んでなんてしてると、親方が嫌がりそうなもので。
>半:違(ちげ)えねえ。こいつぁあ目出度えや。祝杯と行きやしょう。
>あや:でもね、出戻っちゃったらまた置いてくださいね。
>半:有り得ない有り得ない。
>八:立つ鳥後を濁さずだな。なあ熊、終(しま)いはこう綺麗にしねえとな。
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お詫び:時代考証を誤っています。
「お母さん」という呼び方は、明治37年に初めて国語の教科書に使われた言葉だそうです。
それまでは、士族階級では「オカカサマ」、町人階級では「オッカサン」と言うのが普通でした。

★「おかあさん」は、「お方様」から派生した言葉。京や大坂では、江戸時代の末頃でも、「お母さま」と呼ぶ家庭が結構あったという。