16.【あ】  『虻蜂(あぶはち)取(と)らず』 (2000/02/28)
『虻蜂取らず』
虻と蜂の両方を捕らえようと欲張ったばかりにどちらも捕れなかったという意味から、余り欲張ると却って何一つ手に入れることができないということの喩え。
類:●二兎を追うものは一兎をも得ず●一も取らず二も取らず●花も折らず実も取らず●三を遮(さえぎ)りて一を得ず●Between two stools one falls to the ground. <「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
反:●一石二鳥一挙両得
★昭和34年(1959)金子武雄氏(国文学者)の発表により、虻や蜂を取ろうとしているのは、蜘蛛(くも)だと解釈するのが主流。蜘蛛の巣に虻が掛かって、これを捕らえようとしたところ、蜂も巣に掛かったので、虻をそのままにして、蜂の所に行った。その間に虻は逃げ出し、蜂にも逃げられたとする。
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熊五郎は本当に今まで眠っていたらしく、髷(まげ)が渇(かわ)いた筆のように広がったまま右に反(そ)っていた。
戸口から出た途端に大欠伸(あくび)をして、潤(うる)んだ目をしょぼつかせた。

>熊:なんですかい? 朝っぱらから面白い話って。
>あや:もう朝っぱらじゃありませんよ、熊五郎さん。
>熊:夕(ゆ)んべの新年会で、大はしゃぎしちまいましたからねえ。まだちょいと酔っ払ってるみたいですよ。
>あや:そうですね。随分とご機嫌(きげん)でしたね。
>八:ご機嫌を通り越して悪乗りだったけどな。
>熊:おいら何か悪さしたのかい?
>八:なんだ覚えてねえのか? お咲坊に言い寄って、びんた食らわされてただろう。
>熊:ほんとか? ・・・ねえあやさん、ほんとですかい?
>あや:大方はそうですけど、とても悪巫山戯(わるふざけ)には見えませんでした。
>八:お前ぇ小娘が趣味なのか?
>熊:馬鹿を言うんじゃねえ。まだ十と三・四だろ、女じゃあねえってんだ。
>あや:お咲ちゃんはもう立派な大人ですよ、大概のことを言っちゃいけません。
>熊:あやさんまで。もう堪忍してくださいな。それよか、話って何ですかい?

>あや:こちらから進んで話すことじゃないんですが、前の亭主のことをお話ししておかないとと思いまして。
>熊:ご亭主ぅ? そんな方がいらしたんですか? こいつぁあ驚いた。それで? 離縁なすったんで?
>あや:死に別れました。
>熊:こいつぁあまた野暮なことを聞いちまいまして。ご愁傷様なことで。
>あや:ご愁傷でもなんでもないんですよ。自業自得のことですから。
>熊:するってえと、何かやらかしなすったんで?
>八:そいつを聞こうとして叩き起こしに行ったんじゃねえか。
>熊:そいつは済まなかったな。丁度好い夢を見てたとこだったもんで。
>八:こいつ起きるなり「今好いとこだったのによ」っておいらの首を絞めやがって、酷(ひど)いですよね。
>あや:それは災難でしたね。
>熊:まあ良いやな。それで? その「自業自得」ってのはどういう経緯(いきさつ)だったんで?
>あや:ちょっとした行き違いだったんです。

あやは当時を回想するために、傍(かたわ)らにある柿の梢(こずえ)の方に視線を向けた。
八兵衛と熊五郎は、揃いも揃って、その物思いに耽(ふけ)ったような横顔を見詰めながら「綺麗だな」という、不埒(ふらち)なことばかり考えていた。

>あや:亭主の喜六(きろく)は衣笠(きぬがさ)屋さん出入りの小間物商生駒(いこま)屋の手代(てだい)をしていました。優男(やさおとこ)でしたが、荷物を背負っているせいでしょうか、結構力持ちでもありました。女中衆の間では人気も高かったようです。わたしは別になんとも思ってなかったんですが、二十(はたち)を幾つか過ぎていましたし、衣笠屋さんの薦(すす)めもあって夫婦(めおと)になることになったんです。これといって取り柄(え)のない人でしたが、他人様を騙(だま)すようなことをする人ではありませんでした。地味ですが幸せな家庭でした。
>八:そこにどんな行き違いがあったんです?
>あや:とある口入れ屋の奥方が、喜六から求めた白粉(おしろい)を使うと、顔の肌がぼろぼろ剥(む)けて酷(ひど)い有り様だと捻じ込んで来まして。これじゃ人様の前へ顔を出せない、あたしの顔を返せって、それはもう凄(すご)い剣幕でした。
>熊:ほんとにその白粉のせいなんですかい?
>あや:そうでした。・・・ですけどね、3日もしたら奥方の顔は茹(ゆ)でた卵みたいに綺麗になってたそうです。それまでと違う白粉に感じて、荒れてた肌が剥け変わっただけみたいなんです。
>八:脱皮(だっぴ)した訳だ、蛇みたいに。
>熊:大したことがなくて良かったじゃないですか。考えようによっちゃ、その白粉の良い触れ込みにもなったんじゃないですか?
>あや:その通りです。生駒屋はお陰で大繁盛しました。
>八:結果的に目出度(めでた)し目出度しで良かったじゃないですか。大した行き違いなんかないじゃないですか。
>あや:その奥方の肌が元通りになるまでの、たった2日の間に喜六は死んでしまったんです。
>八:せっかちなお人だったんですねえ。もう1日待てなかったんですかね?
>熊:八、不謹慎なことを言うもんじゃねえ。

>あや:その口入れ屋さんに出入りしていたやくざ者が話を聞き付けて、これは銭(ぜに)になるとでも思ったんでしょう。どこぞの親分さんに斯く斯く然々(かくかくしかじか)と申し上げたらしいんです。その頃は奥方も激怒している真っ最中ですから、その親分さんに、「命で償(つぐな)わせても飽(あ)き足りない」と言ってしまったそうなんです。それに気を強くした親分さんは生駒屋さんと喜六のそれぞれに贖(あがな)いを迫(せま)りました。
>八:二重取りですかい?
>熊:奥方からも手間賃を取るから、三重取りかも知れねえな。
>あや:生駒屋さんの方は支払いの準備をしていたらしいんですが、うちの方では金額が法外過ぎてとても用意できそうにありませんでした。衣笠屋さんを頼ってみましょうと持ち掛けたんですが、喜六は暫(しばら)く考えてから、こう言ったんです。「あの白粉は俺が作ったもんだ。店の女中衆に頼んで何度も試している。そんな法外(ほうがい)な銭を取られるような代物(しろもの)じゃねえ。俺はこいつがちゃんとした白粉だってことに命を張ったって良い」って。 奥方を説得すると言って出ていったっきり・・・

>八:こりゃまた、その親分さんもせっかちだねえ。
>熊:でも、翌日にはその奥方さんの誤解も解(と)けた訳でしょう?
>あや:ええ。仲立ちした親分さんも事情を聞いて驚きましてね、話を持ってきたやくざ者に殺(あや)めた罪を被らせて番所へ突き出したから許してくれと、重い菓子折りを持ってきました。
>熊:いくら貰ったって追っ付きませんやね。
>あや:だからといって、「恐れながら」と訴(うった)え出たところでどうしようもありませんしね。
>熊:なくしちまった物を返せなんて大騒ぎしたら、どこぞの身勝手な奥方と同類になっちゃいますしね。
>八:それにしてもよぅ、その親分、欲張り過ぎるから見境(みさかい)が付かなくなっちまうんだよな。結局なんにも懐(ふところ)に入らなかったもんな。
>あや:罪滅ぼしだとかいって手下を警護に付けるもので、喜六の実家にも居辛くなりましてね。それで、衣笠屋さんに頼んでここを紹介して貰ったということなんです。
つづく)−−−≪HOME