08.【あ】  『頭(あたま)の上(うえ)の蝿(はえ)も追(お)えぬ』 (1999/12/20)
『頭の上の蝿も追えぬ』
自分一人の始末もできない者のことを指して言う。
参考:●頭の上の蝿を追え●Mind your own business. 己の頭の蝿を追え (自分自身の仕事を心にかけよ)<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
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八兵衛の頭からは今夜の飲み会の主旨など、疾(と)っくの昔に消え去っていた。
最初のうちは自分が何とかしなければと気負っていた熊五郎も、杯を重ねているうちに、もうどうでも良くなってきていた。

>熊:親方、最近不景気不景気ってそればっかりでしょ、なんか面白いことないですかねえ。
>源:なんだ、やっと本題に入ってきたか?
>熊:本題? そんなご大層なものなんかありませんや。
>源:言いたいことがありそうだから聞きに来たんじゃねえか。
>熊:そうなんすか?
>源:何か不満でもあるんじゃねえのか?
>熊:まったくありません。なあ八。
>八:全然。今の儘(まま)が一番でさあ。
>源:それじゃあ、親父はなんで経緯(いきさつ)を聞き出せなんて言ったんだろう?
>熊:棟梁がどうかしたんですかい?
>源:いや、別に。まあ飲め飲め。・・・親爺ぃ、酒を頼む。

これだけの客が入ることなど滅多にない「だるま」の亭主は、余りの喜びからか、先刻から手酌で飲み始めていた。

>亭主:あやさん、お酒はあとどれくらい残っているかな。
>あや:もう3升と残ってないです。お店(たな)の場所を教えて貰えれば注文に行ってきます。
>亭主:ああ、気持ちは有り難いんだが、あそこの旦那は「早寝の三河屋」って呼ばれててね、戌の刻(20時)にはもう高鼾(たかいびき)さ。番頭も手代も、丁稚に至るまで揃いも揃って早寝なんだからな。変わってるよ。商(あきな)いってものをどう考えてるんだろうかねえ。
>あや:じゃあどうしますか?
>亭主:飲兵衛(のんべえ)どもに帰(け)えって貰うだけよ。
>あや:興(きょう)の乗っているところを追い立てられたら、皆さん怒るんじゃないですか?
>亭主:構(かま)
わんさ、どうせ常連どもだ。文句は言うが明日もまた来るんだし。
>あや:そうですか?

と、そんなことを言っている傍(そば)から「御免よう」と、入ってくる客がある。
人相、風体(ふうてい)から見ると地回りの荒くれ3人組という感じである。入り口付近にいた職人たちがそそくさと席を空けると、亭主に断りもなくどっかと腰を落ち着けた。

>ごろ1:親爺、酒持ってこい。
>ごろ2:それと、こいつらが食ってる大根もだ。
>ごろ3:それと、そこの鬼瓦(おにがわら)が食ってる身欠き鰊(にしん)もだ。

震え上がっている客の中に在って独(ひと)り悠然としていた源五郎も、鬼瓦と呼ばれたときにはぴくりと、右の眉を上げた。

>亭主:どうしよう。
>あや:お酒のことですか?
>亭主:それもあるがけど、あいつら、周りの客には絡(から)むわ、無理な料理を注文してくるわ、挙げ句の果てに、散々飲み食いして小銭1つぐらいしか置いていかないんだよ。
>あや:札付きですか?
>亭主:取り敢えず出せるものから出しとくことにしよう。
>あや:帰っていだだきましょう。
>亭主:な、なんだって?
>あや:お帰り願うんです。私がお話してきます。
>亭主:ま、待ちなさいって。そんなことをしたら後で何をされるか分かったもんじゃない。
>あや:私のことなら構いません。番所でもどこでも出ますから。
>亭主:うちの店が困るんだよ。卓や椅子が壊れるくらいなら良いが、火でも点(つ)けられ兼ねない。
>あや:でも、この先ずっと只同然で飲み食いさせなきゃならないんですよ。入り浸(びた)りでもされたら、他の常連さんたちだって楽しく飲めないじゃありませんか。
>亭主:それでも、物騒(ぶっそう)なことになるよりは増しだよ。

亭主はあやから顔を逸(そ)らし、煮物の鍋を炭の上に乗せ、身欠き鰊を器に盛り始めた。
あやは、仕方なく、酒を冷やのまま徳利に注ぎ、湯飲み3個と一緒に盆に載せた。
ごろつきのうち一番偉そうな奴が、先程からそんなあやのからだつきを舐(な)めるように見詰めていた。
つづく)−−−≪HOME